第96話

文字数 2,192文字

 そして翌日曜の朝、七時前に突然電話が鳴る。僕の携帯ではなく、家の固定電話だった。僕は眠い目を擦りながら慌てて電話に出る。

「朝早くすみません、こちらは、京都府警、ケイホク警察署と申しますが、天宮さんのお宅でしょうか?」

「はいそうですが」

 京都府警? ケイホク? どこだそれ。僕はまだ頭が起きていない。寝起きのぼんやりした頭に、否応なく電話の主はたたみ掛ける。

「村井友里さんはご存知ですか?」

 ようやく何が起こっているのか、大体の察しは付いて来た。またかと思った。しかし直接警察から電話が掛かって来るってことは、事態は深刻なのではないか。いやその割には相手の声は暗くはないが。

「はい、よく知っております。友里がどうかしました?」

「今朝早くに、山の中をずぶ濡れになって歩いているところを保護しました。今、こちら京北署で休んでもらっていますが、できましたらこちらまで身元の引き受けに来ていただけると助かるのですが」

「わかりました。行きますが、友里は大丈夫ですか?」

「ええ。一晩中、山を歩いてたみたいですが、こっち、夕べから雨が降ってまして、全身びしょ濡れで、できたら着替えを持って来ていただけますか?」

「はいわかりました。あの、京北ってどこでしょうか?」

「えっと、周山街道ってご存知ですか? 国道162号線です」

「はい。知ってますけど、嵐山とか高雄とかですか?」

「ああ、嵐山から、まだ北へ車で小一時間ほど走ってもらわないけません」

「嵐山からまだ小一時間弱ですか。けっこう遠いですね。こっち大阪なんで」

「そうですね。来られるまで村井さんにはこちらで休んでもらってますので」

「ありがとうございます。お世話掛けてすみません」

「では気を付けて来て下さい。待ってますので」

 そして僕は友里の着替えを適当に袋に詰め込んで慌てて車に乗り込んだ。置きっ放しの衣類を捨てずにいて良かったと思った。



 車で走ること約二時間。相当急いだつもりだが、行けども行けども山ばかりでそれらしい建物はない。道を間違ったのではないかと不安になる。

 鉛色の低く垂れ込めた空から、白い雨が降っている。途中、道を尋ねるために停まって窓を開けると、冷たい山の空気が車内に流れ込んで来る。友里はこんな雨の中を一晩中、山の中に居たのか。きっと寒かっただろう。

 僕の不安な気持ちが頂天に達した頃、左を並行して流れる川の向こうに。その建物はぽつんと姿を現した。「まあ、とんでもないところや」僕は呟く。慌てて車を停めて、警察署に駆け込んだ。

「すみません! 天宮と申しますが。あの」

 カウンターの婦人警官がすぐに立ち上がった。

「お待ちしてました! こちらです」と、僕を奥の部屋へ案内する。

「雨で全身びしょ濡れで、体も冷え切っておられましたので、こちらでお風呂に入っていただきました。ほんとは部外者はダメなんですけどね」

 部屋に入ると、ジャージ姿の友里が毛布にくるまって座っていた。

「大丈夫か」

 僕は友里に駆け寄ってその手を取る。友里はおもむろに顔を上げて僕の目を見た。

「ごめんな、また、やってしもた」

 どうしてそんな切ない目ができるんだろう。僕は何も言えなくなってしまう。

 田舎の警察はとても親切だ。みんなやさしい。お風呂に入れてくれて、ジャージまで貸してくれる。ありがたいことだ。

「お着換えは持って来られました?」

 先ほどの婦人警官が尋ねる。

「はい」

「よかった。ではお着換えになられましたらこちらにサインしていただけますか。それで帰ってもらっていいので」

「すみません」

「いいえ。私どもは村井さんから詳しい事情をお聞きしておりません。ただ通報を受けまして、遭難の危険があったので保護いたしました。内々のことはそちらで十分お話しされてください」

「ありがとうございます」

 礼を言い、警察署を後にした。僕は帰りの車の中で、なぜ友里がここへ来たのか尋ねる。

「あたし貴船に行きたかったんやけど、わけもわからんと、バスに乗って着いたとこは周山て言うとこやった。けど貴船まで歩いて行こうと思って、山道を歩き出したら、雨になって、でも、街の方へ戻るのは嫌やったから、どんどん山に入って行った。そしたら途中で足が滑って崖から落ちて、足が痛くなって歩かれへんようになって、その近くにあった小さな小屋で休んでたらそこの人が来て、泥だらけのわたしを見つけて、警察呼ばはったんや」

「貴船って。全然道、違うやん! 歩いてなんか行けるわけないよ、なんで貴船なん?」

「あそこはすごくきれいなところで、あそこに行ったら、わたしもきれいになるような気がしてん」

 いつもながらに人騒がせな……。

「けど無事で良かったよ。あとで京北警察の人にお礼状出さなあかんよ」

「うん。あの婦人警官の人な、お風呂入れてくれて、元気出しやって言ってくれた。それで、天宮さんのこと、すごいやさしい人やね。大切にせなあかんよって」

 それだけ聞いて僕はもう何も言わない。いや言えなかった。ハンドルを両手で握り、ただ前を見ている。少しだけ心が温かくなった気がした。ということは、今まで僕は友里のこと、怒っていたのだと思った。けれど、次の友里の言葉で、僕はまた落ち込むことになる。

 ――なあ、悪いけど、このまま、佐伯さんとこへ連れて行ってくれへん?

                               続く
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