第87話 詰め所内に不穏な空気

文字数 2,951文字

 友里は以前にも増して不安定な状態を極めていた。この頃には鬱やパニック障害だけに留まらず、躁と鬱を繰り返す、『双極性障害』の症状も露見していた。

 それは調子の良い時と悪い時の差がとても顕著である。絶好調か絶不調のどちらかで、その中間がなくなる。調子の良い時は、常人離れしたようにスケジュールをバリバリこなすことができるが、そのうちやって来るであろう鬱の谷間を自分自身で予測することができない。

 具体的に例を挙げてみる。躁状態の時に友里は、手の込んだ料理を子供たちに作ろうと思い、たくさんの食材を購入するが、突然鬱状態に陥り、何もできなくなってしまい、結局その食材を無駄にする。 

 あるいは、派手な服を着て自分のセクシー度をアピールしたり、もっと酷いと何を買ったかわからないほど大量に買い物をしたりする。そして鬱になるとその支払いすらできずに、そのせいでカードが無効になったり、何度も携帯が止められたりする。それらのたびに身内は、この場合は主に僕がそのフォローに奔走しなければならなくなる。

 激しい躁状態の友里はまるで限界まで張り詰めた糸のような危うさを秘めていた。いつ切れてもおかしくない。だからそのたびに、僕は無理をするなと言い聞かせて来たが、当の本人はまったく聞き入れることはない。まるで何かに憑かれたようになりふり構わず、無我夢中で突っ走る。

 しかし、ひとたび鬱状態に陥ると、体は石のように重くなって、動きたい気持ちはあっても思うように動けない状態が続く。酷くなると、食事も摂らず、入浴であるとか、着替えであるとか、最低限の身の回りの事すら何もできずに、一日の内、ほとんどを眠ってばかりいる。もちろん躁状態の時に入れた予定や人との約束事など、ものの見事にどこかへ吹っ飛んでしまう。

 

      ※



 その病院は正面玄関を入ると、病院とは思えないほどの白塗りの高い壁と天井に囲まれた広いロビーがあり、その中央部分には中庭がある。中庭は円柱状のガラスに囲われ六階まで吹き抜けになっていて、そこから入る太陽光がロビーを明るく照らしていた。 

 その中庭の向こうに、上りと下りの長いエスカレーターが二機並んでいる。それに乗ると二階まで上がることになる。二階とは言え、一階のロビーの天井が高いために普通の建物の三階の高さがあった。

 僕はエスカレーターで二階に上がる。そこからは吹き抜けになっている一階の様子が見て取れる。ガラス張りの円柱形の中庭とそれを取り囲む広いロビーが広がっている。

 二階には吹き抜けをぐるりと取り囲むように、内科や、整形外科、眼科、歯科などの外来診療がずらりと並んでいた。 その中ほどのちょっと奥まったところに、心療内科はあった。

 僕が目的の場所に到着したとき、時刻は午後二時を回っていた。ガラス窓の内側はカーテンが閉められ、『本日の受け付けは終了しました』と書かれたプレートが掛けられていた。

 診療受け付け時間は、正午までだった。照明も落とされた待合いは、待つ人もおらずひっそりと息を静めている。僕はカーテンの降ろされた窓に顔を近付けて覗き込むが中の様子は見えなかった。

 一度、階下に下りて総合受付けを尋ねようかと考えた、そのときだった。たまたまだろうが、診察室の扉が開いて、事務員らしき人が中から出て来た。

「あの、すみません」

「はい。何でしょうか?」

「天宮と申しますが、さきほど、村井友里のことでこちらからお電話をいただいたのですが」

「あ、こちらでお待ちください」

 その女性は、実にそっけない返事を返して再び奥に入って行った。

 時間にすれば僅か五分ほどだったが、ようやく友里の主治医である岡田医師がやって来た。

「あ、どうも、お待ちしておりました。村井さんのことなんですけれども、いやもうびっくりしましたよ!」

 開口一番、本当に驚いたと言う様子で、岡田医師は事の経緯を僕に説明し始めた。僕は慌てて椅子から立ち上がる。

「村井さんは今朝こちらに受診に見えられましてね、私は直接見たわけではないのですが、その場に居合わせた患者さんから聞いたところによりますとね……」

 僕が以前、岡田医師を見た時にはずいぶん落ち着いた先生だと思っていたが、今日はどうも様子が違う。

「村井さんね、何でも今朝はかなり具合が悪かったらしくて、長い時間この待合の長椅子で横になって待っておられたのですが、何を思ったのか、いきなり立ち上がったかと思うと、ほら、あそこの欄干のところまでふらふらっと歩いて行って、しばらく下を見ていたらしいのですがね……」

 僕は岡田医師が指差す方を見た。ここからでは一階は見えない。

「突然、あの欄干を乗り越えて飛び降りたんですよ。たまたま、真下で、その手すりを乗り越えるところを目撃した警備員が、慌てて落ちて来る村井さんを受け止めようとしたんです。それでまあ、なんとか、からだを捕まえることはできたのですが、その衝撃はかなり強くて、床に落ちた時に、足首を骨折してしまわれました。でももしその警備の者がいなくて直接だったら、もっと大変なことになっていたと思います」

 僕は、すぐさま欄干の傍まで駆け寄って下を覗き込んだ。そこから見下ろすロビーには、処方薬待ちの人や、会計待ちの人が多く見受けられたが、何よりも、その結構な高さに驚いた。

 ここから飛び降りたのか? 高所恐怖症ならば、胸ほどの高さの欄干から身を乗り出すだけで震えることだろう。それより僕が感心したのは、友里がここから飛び降りた時、彼女を受け止めてくれる人がよくいてくれたものだ。警備員と言うことだが、なんと良く訓練されていることか。感謝してもしきれない思いだった。



 岡田医師の話しによれば、現在、彼女は整形外科に緊急入院しているとのことだった。

 右足首を複雑骨折して、左足首を捻挫しているために、当分歩くことはできそうもないらしい。手術も必要と言うことなので、入院は少し長くかかりそうだったが、さすがに、病院内での怪我だけあって、対応は早い。

 僕は助けてくれた警備員に丁重に礼を述べて、心療内科の受付で教えられた通り、七階にある整形外科の入院病棟に向かった。

 どうやら友里は整形外科の個室に入院しているらしい。大部屋が満室のために空いている個室に入院しているのかと思ったが、それはどうやら誤りだった。

 エレベーターを七階で降り、友里の病室を尋ねるためにまずナースセンターに向かった。

「すみません」

 僕はナースセンターの一番手前にいた看護師に声を掛ける。

「はい。何でしょう」

「あのすみません、今日こちらに入院しました村井友里の身内の者なのですが?」

「あ、少々お待ちください」

 一転してその看護師の声のトーンが下がった。僕は詰め所内に不穏な空気が流れるのを肌で感じた。その看護師は奥で別の看護師に何かを伝える。

 その時僕は見てしまった。詰所の奥にいた若い看護師が、横にいた同じく若い看護師と顔を見合わせて、自分の右手の人差し指で左の手首にすっと一の字を書いて見せたところを。予想はしていたことだ。いつもどおりに、友里が厄介ごとを持ち込んだ結果に違いない。

                                      続く 
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