第21話 ミヤ! しっかりして

文字数 3,105文字

 大阪難波駅での一件以来、発作が度々友里を襲うようになった。その引き金となるものは、何かに対する恐怖なのか、あるいは不安なのか、まったく漠然としていたが、それはおそらく何らかの負の感情に起因して起こることは確かなようだった。そしてその頻度は増すばかりだ。

 今ならばそれは、パニック発作と言う名前で広く知られるようになった。しかし当時そのようなものはまだ世間一般にはあまり認知されていなかった。

 だから友里はその恐怖の主に自ら〝ダーク〟と言う名前を付けた。

 ダークがやって来る前にはある兆候が見られるのだそうだ。

 そのイメージがどのようなものなのかと言えば、まず初めに、白いキャンバスに蝿のような小さな黒い点が現れて、徐々に広がり、やがてまわりのすべてを黒に塗り潰すのである。

 実際に体に起きる症状は、まず過呼吸から始まる。そしてすぐに立っていられなくなる。やがて恐怖が頂点に達すると首を絞められたように息が出来なくなった。

 その度に友里は眉間にぎゅっと皺を寄せて、両手のこぶしを爪が刺さるぐらい強く握り締めた。そうやって怖くなくなるまでただじっと耐えた。短い時で五分、長い時でも三十分も経たない内にそいつは去った。

 そのうち友里は、体の痛みが麻酔のように恐怖を麻痺させることを知る。危険な兆候だ。



 それはある日曜のことだった。

 その日もまったく言うことを聞かずに泣きじゃくる都と咲希に友里はほとほと疲れ果てていた。祐一は朝から音楽仲間と出かけている。いつ帰って来るかも、どこへ行ったのかさえわからない。 

 一応携帯は持っている。以前一度だけ掛けたことがあったが、今忙しいからと邪険にあしらわれてしまった。あれ以来祐一にはどんなことがあっても電話はしないと心に決めていた。

 友里は子供を二人産んでも重い生理痛から解放されなかった。その日も腰と下腹部に重い鈍痛をかかえて気分がすぐれない上に外は雨だった。

 未明から降り始めた雨は本降りになっていた。三階のベランダの窓ガラスには幾つもの雨粒が付いている。本当なら今日は子供たちを連れて奈良のあやめ池遊園地に行く予定だったが、生憎のこの雨だ。子供たちの不満は募る。それもあって子供たちは朝からとても機嫌が悪かった。

「ねえママ、遊園地は?」

 友里の顔を見る度に都は、執拗に何回も訴えた。

「ねえママぁ、あやめ池は、ねえ、アンパンマンショーは、ねえいつ行くの?」

「今日はお天気悪いから、また今度ね」

「ねえママ、今度っていつ? ねえいつ? ねえいつ行くの?」

 都の声が友里の頭の中で何度もぐるぐる聞こえる。

「ねえママ、ねえママ、ママ、ママ、ママ、ママ」

 友里の感情は爆発寸前だ。そしてその声から逃れるようにトイレに閉じこもった。子供たちは急にいなくなった母を探して、「ママぁ、ママぁ」と大声で泣いている。

 でも彼女は、頭を抱えたまま便座に座り込んでドアを開けることはできない。

 ――ダークがやって来ていた。

 とめどなく友里の目から涙が溢れ出た。体をくの字に折り曲げ、震える両手で顔を覆う。息ができない。と、その時、玄関の方でガチャリと音が聞こえ、空気が流れた。

 友里はハッとして顔を上げた。都が自分を探して外に出たに違いない。いつまでもここに居るわけにもいかない。トイレを這い出た友里はすがる思いで、夫ではなく実家に電話を掛けようとした。

 友里の姿を見つけるや否や、都は泣きながら駆け寄って来た。 

 外に出たのではなかった。そして電話を掛けようとする友里の背中に抱きつこうとするが、咄嗟に友里は、「いやっ!」と大声で怒鳴りながら闇雲に左手を振り回し、背中に被さる都を力任せに掴んで払いのけた。

 ゴンっ! と大きな音が響く。友里は受話器を持ったまま一度だけ都の方を見た。フローリングの上で仰向けに寝転がった都の顔は恐怖に歪んでいた。

 友里の耳元でコール音が響く。恐ろしく時間が長く感じられた。

「もしもし」

 長いコールの後、やっと三郎が出た。

「お父さん!」

「なんや、友里、どないしたんや」

「助けて……」

「どないしたんや! 友里」

 暫くの沈黙の後、父は彼女の悲痛な声を聞いた。

「わたし、わたし、怖い。もう、何するかわかれへん」

 と、その時、フローリングで横たわっていた都の様子がおかしいことに友里は気付いた。

「おい、しっかりせえ、すぐ行くさかい、友……」

 友里は三郎の言葉を遮るように思わず受話器を置き、都の方へ慌てて駆け寄った。都はすぐに起き上がったもののすぐにその場に倒れ込み、顔面は見る見る蒼ざめて行った。

 途端に火が付いたように叫ぶ都。

「痛い、痛い、ママぁ、痛いいいいいい」

「ミヤ! どうしたん! 都!」

 友里はぐったりした都を揺する。顔を抑える都の小さな指が薄紅に染まっていた。

「血? ミヤ、どこ打ったん! あっ!」

 耳だ! 左耳からほんのりと紅い半透明の液が都の可愛い顎を伝っていた。その次の瞬間、都は突然ゲホゲホ吐いた。大量に。辺りに吐しゃ物のすえた臭いが漂う。大きく咳き込みながら大声で泣き叫ぶ都。

「あんた、頭、打ったんか、都!」

(あかん!)友里は慌てて119を回した。気が動転していて係りの人の質問も、何をどう言ったのかすら覚えていなかった。「とにかく救急車を!」

 それだけで精一杯だった。

 救急車を待つ間、ダメ元で祐一に電話を掛けてみたが、「お掛けになった番号は、電源が入っていないか電波の届かない場所に……」を繰り返すばかり。

 留守電にすらならずまったく話にならない。わかってはいたが本当に悲しくなってしまった。が、しかし祐一が出なかったことに、どこかほっとしている自分もいた。

 この状況を説明しなければならないと思うと鳩尾みぞおちがぎゅっと痛くなった。

 その間にも都の状態は目に見えて悪くなる一方だ。それは素人目に見てもわかった。あれほど大声で痛がっていた都は、今は時折小さく声を出してうつろな目で自分を呼んだ。

 永遠とも思える時間の後、突然慌しくどかどかと音を立てて救急隊員がやって来た。その様子を見て二才の咲希が怯えて泣き出した。なぜか救急車のサイレンは聞こえなかった。

「患者、ムライミヤコ、三才女子、家屋内にて転倒して左側頭部打撲、耳介後部に腫れを認める、意識あり、激しい頭痛、嘔吐、痙攣、左耳からの髄液漏れを確認……了解! 至急搬送します。受け入れ準備よろしくお願いします」

 事務的とも思えるてきぱきとした救急隊員の対応。友里にはそれがまるで現実ではないように感じられた。

 がらがらとけたたましい音を立ててストレッチャーに乗せられた都が頭を高く固定されて運ばれて行く。マンション前の道路が狭いために救急車はすぐ入り口まで入って来ることができなかった。

 そのため、少し離れた駅前までストレッチャーに乗せられたまま搬送しなければならなかった。それでサイレンが聞こえなかったのだろう。

 その間も雨に濡れないようにしっかり咲希を抱きかかえた友里は、懸命に都に声を掛けた。近所のヒマそうな人たちが何事かと興味本位にその光景を眺めていた。

「ミヤ! ミヤ! しっかりして、すぐお医者さんやからな」

 雨中、傘さえささずに搬送される都に寄り添って走る友里。

「お母さん、子供さんに触らないで!」

「はい、すみません」

 その隊員のきつい口調が友里の不安を更に煽った。

 到着した病院の救急受け入れには、すでに数人の医師や看護師が救急車の到着を今か今かと待ち構えていた。その様子だけでも十分怖い。

                                       続く
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