第64話 感覚の海の中

文字数 2,206文字

あの時、近鉄百貨店の裏階段の踊り場で、友里は僕の首に両腕を回し、そっと抱きついてやさしくキスをした。

 友里の舌が、僕の歯の裏側をなぞる。ゾクゾクッと感電したような快感の波が押し寄せる。小悪魔のような友里の笑顔……。

「なあ、もう逢えへんって言うてたのに、あれウソなん? 友里なあ、こんな形でもええって思うよ。せやからまた逢うてえな」

 僕はただ頷くだけで、何も言えなかった。そして二人は再びその唇を求め合う。でも僕は辺りに人がいないか冷や冷やしていた。その胸のざわめきは、合わさった唇から彼女の中にまで伝わったのだろう。友里はゆっくりと唇を離して、じっと僕の目を見つめながら言う。

「なあ、こんなとこでこんなことしたことなかった?」

「あるわけないよ。だって人が見てるやん」

「そんなこと、関係ないよ。気にしたらあかん」

 彼女には二人の小さな娘がいて、もちろん自分にも妻も子もいる。僕は一瞬、滑稽だと思った。でもその想念は僕の頭の片隅に貼り付いたままで消えない。

 それなのに友里はこの逢瀬をまるで誰かに自慢げに見せ付けて楽しんでいるかのように思われた。友里の大胆さに驚く。デパートの従業員風の男性が、僕たちの横を怪訝な目で見ながら階段を降りて行った。

「天宮さんは、恋愛ってあんまりしたことないの?」

 僕は今まで、いや友里と出会うまで、本気で誰かを好きになったことはなかったのかもしれない。もちろん三才年下の静子にさえもそうだった。僕はただ静子の気持ちに応えなければいけないと思っていただけで、決してそれは愛とは言えなかったのだろう。あるのは責任感、義務感、そこに真心はなかったように思われた。

「私のどこが好きなの?」

 事あるごとに静子は、僕にこの質問を投げかけた。いや、静子に限らず女性は皆同じ質問をしたがる生き物なのかもしれない。心の所在を確認しなければいられないのだろう。そして僕の答えはいつもこうだ。

「君が僕のこと好きでいてくれるところ」

 僕の人生は、今まで生きて来た中で誰かの思いに応えることがすべてだった。母にも、近所の人にも、学校の先生にも、友達にさえ。自己保身。つまり、ただ自分が可愛かっただけなのだと思う。

「俺、人の愛し方、わからんねん」

 それは僕が幼少の頃、十分に親の愛を受けられなかったまま大人になったことの裏返しだろうか。それを年下の友里に話した時、彼女は言った。

「天宮さん……なんか淋しい生き方してるなあ。ちょっと頭良過ぎやで、何でも頭で考えたらあかんよ。人を好きになるのは、頭でなくて、ここやよ……」

 そう言って友里は、僕の胸にやさしく手を当てた。その瞬間、僕の中で何かが大きな音を立てて崩れ去る。ようやく、僕の中の封印は解けたような気がした。

 彼女は香水を付けている。もちろん今日も隣の席に座り、僕の本能を刺激する。それはとても強烈な香りだ。友里とこうなる以前の僕は、香水なんてまったく何の興味もなかったし、おおよそ自分の人生にそんなものが関わることなどないと思っていた。

 あるとき僕は、ホテルの部屋で、事が終わった後、友里にその香りのことについて聞いたことがあった。

「友里ちゃん、その匂い何?」 

「ええ? 何ぃ? この匂い? これな、ラッシュって言うねん。友里これ好きやねん」

 友里はいつでも自分の感覚で物を言う。そこには概念などと言う陳腐な物は存在しない。彼女は、まるでたった一人でこの宇宙に広がる感覚の海の中を泳いでいるようだ。

 おそらく友里を捕まえようと思うなら、僕自身も友里の感覚の海の中に入って行かなければならないのだろう。だが物事すべてに理由を求めて止まない僕には不可能だ。それには一度完全に破滅することが必要だ。

 GUCCIのrush。僕は初めてこの香りを嗅いだ時、なんて猥雑で品性の欠片もない匂いだと感じた。しかしそれは友里の泳ぐ感覚の海へといざなう媚薬である。

 慣れて来るに従って、とても甘く切ない香りに変貌を遂げた。そして、いつしかその匂いは、僕の脳の一番深いところに刻み込まれ、時を止める記憶となった。

 紛れもない彼女の匂いだ。どれだけ時間が過ぎようが、いつ如何なる場所ででも、この匂いを嗅ぐと一瞬で友里の感覚の世界に戻ることができる。不思議だ。

 だがその時は平日の昼下がりということもあり、友里はその媚薬を付けてはいなかった。当然だろう。それが僕には不満だった。

「今日はいつもの香水付けてへんね」

「そらそうやわ」

 それは理不尽なことだと聞く前から重々承知していた。でもどうしてもあの匂いに包まれたいと願う。単なる我侭に過ぎない。だからそんなことを言って彼女を困らせた。付けて来られたら本当に困るのは僕の方なのに。でもそれもわかっていた。

「なあ、今持ってる? 後でシャワー浴びるから、ちょっとだけ付けてみてくれへん?」

「ほんの少しやよ。もう、ほんまに知らんで、後でちゃんと洗わな。石鹸の匂いだけでもわかるって言うのに!」

 そう言いながら、彼女はバッグから香水の赤い箱を取り出し、小指に少しだけ付けて耳の下にそっとなぞるように塗った。

 その途端に甘い香りが漂う。紛れもない友里の香りだ。愛しくて愛しくて思わず彼女を強く抱きしめた。そして何度も優しくキスをした。僕はいつのまにか泣いていた。

                                      続く  
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