第99話 救助艇

文字数 2,522文字

電話口の声のトーンが上がる。只事ではない。

「あ、はい……」

 僕はこれまでの経緯を、できるだけわかりやすく説明しようとした。それは饒舌な口調だが、回りくどく同じことを伝えている。動揺は隠せない。やはり自分でも興奮しているのがわかる。心の中で「落ち着け!落ち着いて!」と何度も繰り返していた。

「わかりました。至急、最寄りのパトカーを急行させますから、そこを動かないで下さい」

 新御堂筋を南に向いて走る車のヘッドライトを何台もやり過ごすが、パトカーは来ない。気持ちが焦る。パトカーなんていなくてもいい時には、いつもいるのに。いい加減痺れを切らしてもう一回電話しようかと思った頃、なんと歩道を一台の自転車に乗った警察官がのんびりやって来た。

(ええ? チャリンコかよ!)僕は思わず呟く。やって来た自転車の警察官にまた一から説明が待っていたが、しないわけには行かない。一通り、説明を終えて、その置かれたバッグと靴、それから僕の真剣な表情を見て警察官もこれはただ事ではないと思ったようだ。

 懐中電灯を橋の上から川面に向けると、光の当たったところだけが丸く照らし出されるが何もない。友里が飛び込んだとすれば、あれからどれだけ時間が立っているのだ! 川は流れているし、現実的に考えてここに留まることはおかしい。

 それでも人間の心理か、一生懸命その照らされた輪の中を探す。そして警察官はやっと事の重大さを感じたらしく、無線で応援を呼んだ。

 しばらくして淀川を挟んで、北と南、両側に何台ものパトカーが赤色灯を回して到着した。淀川で起きた事件は淀川を挟んで北側が淀川区、南側が北区に分かれるため、警察も淀川署と大淀署の二つが所轄になっている。僕はそれを初めて知った。

 陸からはパトカーが、そして水上では警察の救助艇が何艘も出て友里の捜索に当たった。僕と警察官数名が、北区側の淀川の堤防から、川原に下りて手分けして捜索するが、一向にそれらしき人は発見できない。

 おまけに僕は河原に降りた時に、左足首を酷く捻ってしまった。骨は折れてはいないだろうが、歩くだけで激痛が走った。それでも僕は一生懸命に、背の高い葦をかき分け泥まみれになりながら友里を探した。

 苛立ちを募らせて時間ばかりがどんどん経って行く。河原の土は、ぬかるんで足が取られて歩くこともままならない。捻った左足が一歩歩くたびに悲鳴を上げている。十一月下旬の河を吹きすさぶ風は冷たく、膝まで浸かった水はもっと冷たかった。しかしそれ以上に、僕の胸中は何とか無事に発見できますように、という思いでいっぱいであった。

 そのとき、同行していた警察官の無線に救助艇から連絡が入った。

「発見しました!」

 友里は三キロ川下の阪神高速の高架橋の下まで流されていた。

「今、救助艇から連絡が入りました。村井さんは無事だそうです。意識もちゃんとあります。これから救急車で病院へ搬送されますが、あなたも行かれますか?」

 そうか、無事だったか。僕は取りあえずほっとした。ふと見ると、靴もジーンズも泥だらけで捻った左足がズキズキ痛む。友里が無事とわかった今は一歩踏み出すたびにさらに激痛に変わる。歩くのさえやっとの状態だ。その上、足に付いた汚泥は強烈な異臭を放っている。まるで排泄物のような臭いだ。これで車に乗ったら、車もかなり臭くなりそうで嫌だったがそんなことより、今は病院が先だと思った。

 病院は淀川区塚本の近くにある淀川西病院という個人病院だった。搬送された時も意識ははっきりとしており、全身ずぶ濡れであったが命に別状もなく、今はベッドで点滴を打ちながら眠っているとのこと。

 淀川西病院は介護を必要としているお年寄りの患者が多く入院されている。そんな中で友里の存在は一際目立っていた。ここでもやはり友里は要注意患者なのだろう。入院は長くて翌朝までで、それまで僕は付き添いを命じられた。病院としては友里が起きれるようになったらすぐにでも退院することを希望している。どこへ行っても厄介者扱いだった。

 看護師が友里の着ていた服をゴミ袋に入れて返してくれたが、酷い臭いがしてとても着られそうもない。その看護師に「着替えを家に取りに帰りたい」と言ったら、できるだけ早く戻って来て下さいと言われる。急遽、新しい着替えを家に取りに戻ってすぐに病院へとんぼ返りだ。幸い土曜の夜で、明日は直也の学校が休みであることが幸いであった。

 大急ぎで病院に戻った時、友里はまだよく眠っていた。僕はベッドの横のパイプ椅子に腰掛けながら少しだけ眠ることができた。

 長い長い一日がようやく終わろうとしている。捻った左足首がズキズキと痛んでいた。

 僕はふと目覚めた。腕時計を見ると午前六時三十分だった。病院の起床時間は過ぎているが、部屋の照明は消されたままなので、看護師が部屋に来た様子はない。そしてベッドを見ると、なんと友里がいない! 

 僕は慌てて立ち上がろうとしたが左足に激痛が走る。思ったより酷い。

 そのときドアが開いて友里が戻って来た。

「大丈夫か? トイレ?」

「ううん、ちょっと電話掛けてきてん」

「佐伯さんか」

「うん」

 僕は口には出さないが、その顔には十分に切なさが溢れていたんだろう。それがわかったのか、友里が済まなそうに言う。

「ごめんな、いっつも」

「いや、それより、すごく心配したよ。無事で良かった」

「佐伯さんな、一昨日から、あたしを置いて東京行ってはるねん。仕事で」

「それで、あんなことを?」

「違う。それは違う。ほんまに調子は悪くて、でも、少し歩きたかってん。橋を渡る途中で、上から川を見てたら向こうの方にネオンが映ってきらきらしたきれいなところが見えてな、誰かが、おいで、って言ってるような気がして、気が付いたら真っ暗な水の中やった。ああ、これでもうあかんねんなって思ってんけど、少しだけ明るく見えた方へ行ったら、水面やってん。何回か浮いたり沈んだりしてるうちに、足の付くとこまで来てて、そのままゆっくり流れに身を任せて浮かんでたら急にボートが来てあたしを引っ張り上げはった」

                                      続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み