第1話 欲望からは欲望しか生まれない

文字数 2,219文字

  プロローグ

 

 消灯時間をはるかに過ぎた深夜の病室に、キーボードを打つ音だけが静かに響いていた。カチャリと扉が開き、片手にペンライトを持った看護師が入って来た。僕は慌ててラップトップを閉じる。

「天宮さん、まだ起きてはったんですか? もう消灯時間はとっくに過ぎていますよ」

 無機質な闇の中に艶のある言葉が浮び、そしてすぐに消えた。 

 その言葉とは裏腹に口調にはいささかの棘もない。僕の僅かばかり残った生への未練を感じさせる。

 僕は静かに顔を上げ、彼女をちらりと見遣る。天井に反射したペンライトのわずかな光がその顔をぼんやり照らし出していた。 年は二十代後半、色白で、二重瞼のつぶらな瞳。ああ、そうだ、その横顔が彼女に――友里に、少し似ている。

「すみません、もう寝ます。あと少しだけ」

「背中の痛みはどうですか? 変わったことはありませんか?」

 彼女はそう言いながら僕の左手首にそっと触れ、腕時計を見ながら脈を取る。そのひんやりとした小さな指先が、的確に僕の往生際の悪い生を捉えている。

「ええ、すみません。大丈夫です。ありがとう」

「もうお休みになってくださいね」

 点滴の残量を確認すると、彼女は静かに部屋を出て行った。そして僕は再びラップトップを開き、白くぼんやりと滲む画面に視線を落とした。大丈夫。まだ薬は効いている。

 ねえ静子、僕はね、人生はその長さではなく密度だと思っている。

 君と出会ってから今まで、大よそ二十年の月日が流れた。あまりの早さに、次に目覚めたら二十年前の朝に戻っているような気がするぐらいだよ。

 けれど今思えば、随分たくさんのことがあった。決して夢なんかではない。そして僕の仕出かしてしまった罪は決して許されるものではないのだろう。

 君を、君のたった一度しかない人生をめちゃくちゃにしてしまったのだから。もう取り返しはつかない。だからこの病に罹ってしまったことは正に自業自得だと思っている。

 ――余命三ヶ月。君がこれを読んでいると言うことは、僕はもう生きてはいないのだろうな。読み終わった後は好きにすればいい。腹が立ったのなら、壊したっていい。海か川に捨てたって構わない。

 ああ、いや、読まない、読んでもらえないと言う選択肢もあるわけだ。だとすれば僕は、いったい何のためにこれを書いているのか。まるで真っ暗闇に向かって石つぶてを投げているようなものだ。

 けれど、どんなにつまらない人生でも、僕は僕なりに精一杯生きたつもりだ。だから何かしらそこに爪痕を残したい。でなければ、僕がこの世に生きたという証しがない。

 さてどこから書こうか。そうだ、あの頃のことから書こう。

まだ君が幸せだったあの頃のことから……。



  第一章   欲望からは欲望しか生まれない

 

   1



 一九九三年  冬

 天宮秀俊、三十一才、妻、静子二十五才。あえて作ろうとしたわけでも避妊していたわけでもないが、結婚してから丸五年間子供はできなかった。二人はまだ若いし、もちろんそういう行為が二人の間になかったわけではない。その気になれば子供はいつでもできると思っていた。

 僕の一方的な見方をすれば、子供など意識したこともなかったし、妻もきっとそうだと思い込んでいた。

 二人で暮らし始めた当初、静子はよく僕にメールを送った。

「今夜は何が食べたい?」

「何でもいい」

 定型文で返し、そして当然出された料理に文句を付けることはない。

 けれども気に入らないと、すっと席を立ち、だまって料理に手を加えて自分好みの味に変える。無神経だ。まだ「まずい」とはっきり言うほうが遥かに心理的ダメージは少ないだろうに。

 料理だけでなく、生活の一時が万事そんな風だった。もちろん僕は表向けにはとても気配りの効く良い夫を演じていたが、家に帰ると口数も少なく、ともすれば、行って来ますやただいまなどの挨拶さえも自分からはしない。

 食事が終わるとテレビの前に座って好きなゲームをするか、ビデオを観るか、何もやることがない時は、一人風呂に入ってさっさと寝てしまう。

 アルコールでも嗜むのであれば、晩酌などで妻との会話も少しは生まれたかもしれないが、生憎、僕は酒も煙草もやらない。だから僕も妻も、夫婦であるにも関わらず、まるでそれぞれが一人で生活しているような感が常にあった。

 いつも家に篭りきりの静子はきっと淋しかったのだろう。彼女はずっと一人で耐えていた。僕の静子に対する気持ちはとっくに冷めてしまっていたのに対して、彼女は心の底から僕のことを愛していたに違いない。それは彼女にとって、生まれて初めてその身も心もすべてを許した男だったということもあっただろう。

 だから気の毒なことに彼女は僕を待った。何時間でも何日でも、おそらくこの先もずっとだろう。

 そのころの静子は、恋愛小説やきらきらした少女漫画を片っ端から読み漁っていた。まるで恋に恋する少女のように。そういう物を読みながら、一人、家で僕の帰りを待った。 

 そしてある夜、僕に向かってこう呟いた。

「わたし、恋が、したい」

 それを聞いて、浮気宣言か? 何をバカなことを、と僕は思った。静子がどれほどの思いでそう言ったのか。「わたし、恋がしたい」の目的格に「あなたと」が省略されていたことにも気付けない。きっと僕は初めから静子のことを愛してはいなかったに違いない。

                                    続く

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