第80話 分厚い万札の束

文字数 3,139文字

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 年が明けて一月も半ばを過ぎる頃、僕の下に携帯ではなく06から始まる知らない番号から電話が掛かって来た。

 僕が恐る恐る出ると、相手は来年度、直也が進学する地区の小学校の支援学級の教師だと名乗った。役所の福祉課から通達が小学校へも届いていて、入学前に直也に対する教育方針を決めたいので、一度学校へ来てくださいと言うことだった。

 なんとも手回しの良いことだと僕は驚いた。療育手帳A判定の発達障害の子供が入学して来るともなれば、その方面での準備は万全にしておきたいと言うことなのだろう。

 そいつは劣等感なのか、あるいは僕のひねくれた自虐心なのか自分でもよくわかっていなかったが、どうにも腫れ物扱い感が拭えないでいる。

 しかし冷静に考えるなら、これも直也本人のこれからの人生のためである。本当なら静子が行くはずだった面談に僕は直也と二人で臨んだ。

 午後五時前に二人は小学校の玄関に着いた。事務室で名乗ると、そのまま教頭室へと通される。僕と直也はいきなり教頭先生と面談することになった。

 二人の教師が、僕と直也を待っていた。一人はまだ三十代そこそこの若い女性教師で、支援学級の担任教諭と名乗った。そしてもう一人は、五十代ぐらいの、髪をワックスでバックに固めた男性教師で自ら教頭であると名乗った。

 教頭は、人のよさそうな笑顔で二人を出迎える。僕は直也が知らない場所で知らない大人囲まれてパニックにならないかと不安だったが、その心配をよそに、直也は珍しそうにあちこちをきょろきょろ眺めているだけだった。

「こんにちは、天宮直也君」

 教頭が直也に語り掛けたが、直也はいつものように話を聞いていない。そのとき、支援担任が、四つ切の大きな画用紙を一枚、直也の前のテーブルに広げた。

「直也君はお絵描きが大変好きだとお伺いしました」

 このような情報まで伝わっているのか、と、僕は驚く。途端に直也の目が生き生きと輝き出した。

「得意な絵、何か描いてくれるかな?」

 教頭が六色入りのマジックペンを直也に渡す。すると今まできょろきょろしていた直也が一気に手元の画用紙に集中する。心を掴むのがうまい。さすがプロだと思った。今までの先生たちとは何か違う。

 僕は二人の先生に向かって、今までの直也の状態をわかる限り事細かに説明した。一番初めに預けた保育園での障害の露見からひかりの家でのほんの僅かな時間もじっとしていない通所生活。また直也が、何かを求める時に、その意思を人に示すことのできないもどかしさや、それがパニックに至るきっかけになること――直也が大声で喚き散らしているときには何か必ず理由があること、などである。

 僕が説明をしている間も直也は一生懸命お絵描きに神経を集中している。三十分ほど経ったとき、直也の絵はほとんど完成していた。

 それは小学校の近くの大きな交差点を俯瞰で見た詳細な絵だった。芸術的かと問われれば、そうではないのかもしれないが、道路の車線の幅や路面にペイントされた矢印まで正確に描かれている。出来上がった絵を前にして二人の教師は震えるほどの感嘆の意を露わにした。自閉症という直也の発達障害が、ただマイナス面だけではなく、見方によっては十分に本人を生かす武器になり得るということを僕は知った。

 それから来月の入学説明会の話を聞いて、必要書類を受け取り、僕と直也は学校を後にした。この学校での一件は、僕に自信を持たせる結果となった。自分が直也の父であり、保護者であるという自信である。僕は一つ山を越えたように感じた。

   

    ※               ※

 

 さてこの三ケ月と言うもの、友里からの連絡は途絶えたままであった。僕の方からは何度かメールしたが、返事は返って来ることはなかった。

 その間、僕は直也と二人きりの生活を送っていたが、仕事、家事、育児に追われ、その多忙さゆえに友里のことを思い出す余裕はなかった。それでも、ふと街で友里に似た女性を見かけたり、仲の良いカップルを見かけたりするたびに、友里への恋慕の情が湧き起こる。

 三月も春分を過ぎ、公園の早咲きのソメイヨシノが咲き始めていた。僕は桜を見ると思い出す。静子といっしょに、初めて不妊治療を受けにクリニックを訪ねたあの朝も公園の桜が咲いていた。青い空に澄んだ空気の中、ピンクに咲き誇る桜はずいぶんと美しかった。

 あの時はお互い気まずい思いをしながら歩いたが、今思えばきっと幸せだったのかもしれない。今や僕の心の大部分を占め尽くす友里と言う存在が、静子を消し去ってしまった。そのたびに僕は、静子に対する心苦しさと憐憫の情を禁じ得ない。年月は人を、人の人生を変化させる。同じところにとどまることなど決してない。

 そんな桜の咲き始めたある日のこと。再び静子から電話が掛かって来た。

 それによると、公正証書にも記した通り、静子は築十年の中古マンションの購入をすでに決めたとのことであった。この先、そのマンションで遼太と二人きりで静かに暮らすのだと言う。もちろん買うのは約束にもあったように僕である。

 次の月曜の朝、僕は直也をひかりの家に預けた後、出社を少し遅らせて静子から教えられた不動産屋へと足を運んだ。そこにはすでに静子が来ていた。

 僕はその物件さえも見ることはなく、すべて静子の意のままに不動産売買契約を結び、そしてその足で、不動産屋の指定する銀行に向かった。そこで僕は別室に通され、静子と司法書士の先生立会いの下、銀行の融資担当と不動産屋と僕でマンション購入費用の融資契約を交わした。

 署名捺印するだけが僕の仕事であった。これより月約五万円を二十五年に渡って支払い続けることになる。融資総額、約一千五百万。泣いても笑っても払い続けなければならない。

 このマンションがつまり、毎月の養育費とは別に静子への慰謝料の代わりとなる。

 一千五百万。単純に慰謝料として考えるならば、それは法外な金額である。不倫の慰謝料の相場は、僕のようなサラリーマンならば、おおよそ三百から五百万ぐらいがいいところなのだろうが、だからと言って僕にはそれだけの金額を一括で支払えるほどの現金もない。

 五万円の月割で、しかも二十五年完済すれば、後は財産として残るのならば、と、僕は異を唱えることなく受け入れることにした。

 契約が締結された後、分厚い万札の束が銀行から不動産屋へ僕の手を介して手渡される時に、頭に白いものが混じり始めた、実直そうな銀行員が言う。

「いやあ、このご時世、離婚しても養育費すらまともに払わへん人が多いのに、お客さんはホンマにええ人ですなあ。見習わないとあきませんわ」

 それは親身になって言っているのか、それとも皮肉なのか……。おそらく後者の方なのだろう。

「いえいえ、恐れ入ります」

 僕はそう言いながら、静子の顔をちらりと見る。その時、札束を食い入るように見つめる静子のその頬に、僅かに赤みが差し、緩んだような気がした。

 しかしその物件すら見ていない、もっと言うなら、住所は聞いたが、そのマンションがどこにあるのかさえ知らない僕には、目の前を素通りして行く万札の束を見ながら、自分がそれを買ったと言う実感が湧かない。友里がこの光景を見たら一体どんな顔をするのだろう。僕はふとそんな思いに駆られていた。

 入居は四月上旬からと言うことらしい。もうすぐである。引っ越しの準備も進んでいる。今、僕が住んでいる部屋にも静子の所持品が多く残っている。それらもまとめて引っ越し業者が粛々と運び出すのであろう。嫌な引っ越しだと思った。          

                                       続く
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