第59話 この世のすべてから逃げるように

文字数 2,529文字

前方の信号が青から黄色、そして赤へと変わり、ようやく出た矢印信号に従い、僕は交差点を右折する。

 大通り沿いには洗練された高層ビルが建ち並んでいる。この辺りは上町台地と呼ばれる高台になっていて、一歩裏手に回れば神社や仏閣が多く混在している。

 そして混在しているのは神社仏閣だけではなく、それと同じぐらいラブホテルも同じ地域にひしめき合って建っている。それは僕が生まれるずっと昔から変わらない街並みであり今は僕の生活圏でもあった。

 だから今までは何の違和感もなかったが、今こうして人目を忍んで友里と向かうその場所は、僕には聖と性の混在するずいぶんと滑稽な場所に思えた。

 大通りから裏道に入ってホテル街の手前で徐行する。ルームミラーに映る後続車がパッシングする。僕は慌ててハザードを出して左に寄った。

 製薬会社の社名の入ったライトバンが、勢い良く隣を追い越して行く。途中、ドライバーと目が合った。こちらを忌々し気に見ていた。ラブホテルの林立するこの通りは、表通りの渋滞を避ける抜け道でもあった。

目的のホテルが迫る。ご休憩の看板が目に入った。ここへ来るのはもう三度目目となっていた。車はゆっくりと入り口の〝車のれん〟を押す。

 と、ふいにその時、股間に刺激を感じた。ちらりと下に目を遣る。先ほどのお返しとばかりに、友里の右手がジーンズの上からやさしく触れていた。驚いて友里の方を向くと、なんとも多情な瞳がじっとこちらを見つめている。

 逃げるように、この世のすべてから逃げるように僕たちはその秘密の場所を目指した。背徳感は油となり、二人の心の炎をいくらでも増大させる。

 ホテルは日曜の午後でも満室に近かったが、幸いなことにいつもの〝赤と黒〟は空いていた。このホテルの各部屋にはそれぞれ名前が付けられている。月と星であるとか、おもちゃの行進であるとか、その部屋の装飾デザインに合わせて名前が付けられていた。

 僕たちが利用する部屋は、壁と天井からインテリアに及ぶまですべて赤と黒と言うツートンカラーで統一されている。スタンダールでもあるまいに。友里はさしずめ天真爛漫なモネだろうか。僕はその陳腐な想像に内心ほくそ笑みながらタッチパネル押した。

 薄暗い通路を進み、誘導ランプに導かれるままに部屋の扉を開ける。部屋に窓はなく、開かれた扉の中から暗闇がゆっくりと外に流れ出しているような錯覚さえ覚えたが、僕は友里の手を握ったまま、迷わずその闇に紛れ込んだ。

 すぐ湿った煙草の臭いが鼻孔を衝いた。壁のスイッチを入れる。床も壁も天井もすべてに大きめの市松模様が施されていて、その色はもちろん赤と黒だった。

 普通に考えたら気味が悪い。でもここはそんな場所に違いない。僕はその悪趣味なデザインがなぜか気に入っていた。少し前にそこに居たであろう男女が吐き出した情念が部屋の中に漂っている。淀んだ空気だ。でも今の二人にはぴったりだ。

 急いで二人は服を脱ぎ、シャワーも浴びずにそのまま、まるで何かに追いかけられるようにベッドへと雪崩れ込んだ。本能のままに激しく抱き合い、激しくキスをする。二人だけの時間が流れ出す。

 ベッドの真上の天井部分だけが鏡張りになっていた。ミラーには、薄暗いムードランプに照らし出された友里の一糸纏わぬ白い背中がぼんやりと映っていた。鋭く尖った友里の肩甲骨がまるで折れた翼のように羽ばたいているように見える。僕は快感の波に揺られながら、その白い背中をうつろな目で眺める。

「イヤっ」そう言って友里は大きく体を震わせる。

 僕の唇は友里の唇を探し、友里の唇もその激しい求めに応じた。そして僕は友里の背中を力いっぱい抱き締めた。

 彼女の奥に棲んでいる別の生き物が、僕の一番敏感な部分だけを持って行くような感覚が襲う。その刹那、全身を友里に包まれている快感が駆け抜けた。

 そこからじーんとした倦怠感が広がって行く。

「なあ」

 友里の僕を呼ぶ声が小さく響く。僕は聞こえないふりをした。

「天宮さん」

 友里には通用しない。彼女はその細い人差し指で僕の胸をそっと撫で回した。そしてまるで男が女にするようにやさしく胸にキスをした。

「あっ」

「かわいい。女の子みたい」

 僕は自分の胸で戯れる友里の頭をやさしく撫でた。彼女の髪からは、甘い香りがしていた。

「なあって」

「何?」

「何考えてるのん?」

「いや、何も」

「ウソ、これからどうしようって思ってるんやろ?」

 図星だった。僕の中で、天使と悪魔が壮絶に、いや、やる気なく戦っている。胃がきりきり痛んだ。そういえば、僕は朝から何も食べていない。

 今彼女に言わなければならないことははっきりしている。でも言い出せない。 

「いいよ」

 やさしく微笑みながら友里が言った。

「それって」

 僕は一瞬言葉に詰まる。友里が乳首を少し強く噛んだ。

「痛っ」

「あ、ごめん。でもな、友里な、天宮さんがこのままでもええんなら」

「え?」

「こんなふうに会うのもありかなって」

 ――なんと別れ話ではない! 友里の口からこぼれ出た甘い誘惑は、僕の心のやる気のない天使からさらにやる気を削いだ。 

 ――が。しばしの逡巡。そして躊躇。それから僕はゆっくりと言った。

「ごめん、やっぱり、ごめん」

「それってもう会わへんってこと?」

「……うん」

 僕はうつむいたまま、彼女の目を見ずに答えた。

「そう。わかった……」 

 友里はベッドから身を起こし、少し淋しそうな表情でそう言い残してバスルームに消えた。間もなくして床を叩くお湯の音が聞こえた。

 僕は一つ溜息をつき、外したコンドームをじっと見つめた。薄いピンク色の中を白く濁った欲望が流れる。

 ――子の素か。

昔、静子は事後にそれを灯りにかざしてそう言った。何とも言えない後味の悪さだけが残った。

 窓のない薄暗い部屋に僕と友里の情念が漂っているような気がした。僕は思う。自分がそうであったように、次にこの部屋を訪れた人に僕と友里の情念は感じられるのだろうか。

 バスルームから出て来た友里は、すぐに下着を身に付け、そして僕の方を向いてこう言った。

 ――わたし、ここから一人で帰るから。

                                   続く
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