第95話 京都に行きます

文字数 2,558文字

 時刻は午前七時になった。

 僕は再び病院へ向かう。診療時間外なので表玄関は閉まっている。夜間通用口から中に入り、正面へ回った。友里は外来待合に座って僕を待っていた。財布を持っていないので精算できないと言う。僕は急いで時間外窓口に支払いに向かった。

「天宮と申しますが、村井友里の精算に来ました」

「あ、はい、七万円になります」

「え? そんなに? あの今回の事故は健康保険が効くと聞きましたが?」

「ええ、これ保険適用金額です」

 僕の予想よりずっと高かった。カードを持っていて良かったと思った。現金だと払えない。いつもながら友里の起こす騒動は、精神的肉体的なだけではなくて経済的にも痛手を負わされる。

 しかし怪我は大したことがない様子だったのでそれはそれで良かった。とにかくこれでうちに帰れる。

 支払いを済ませて待合に戻ると友里が僕に言う。

「天宮さん、ごめん、佐伯さんとこへ帰りたい」

 その一言が僕のやる気を一気に削ぐ。「何でなん? それってあんまりやろ?」心からそう言いたかったが……。口から出た言葉は違った。

「わかった電話するわ」

「ごめんなさい」

「もしもし、朝早くから申し訳ない、村井がそっちに帰りたいって言ってるんやけど」

「ええ、こっちはいつでも良いですよ、友里さえ良ければ」

「わかりました。では今からそっちへ向かいます」

「お世話お掛けしますがよろしくお願いします」

 お世話お掛けします? 小さな棘のように僕の心に引っ掛かる。当たり前の受け答えの会話であるはずなのに、もう友里はこちらの人間である、まるでそう言っているような物言いだ。

 しかしながら、昨夜、僕が半狂乱の友里を「このまま連れて帰ります」と佐伯に言った時、佐伯は一瞬、安堵の表情を浮かべていた。僕はあの顔を忘れない。

 

 佐伯のうちへ向かう車の中で、友里が言った。

「ごめんな、迷惑ばっかり掛けて。けど、やっぱりあの人は、病気のこと、全然わかってないねん。あたしが、調子悪くて寝てる時でも、隣の部屋でパソコンやったり、用事してて、あたしの傍にはおれへん。そんな時、天宮さんやったらいっしょにお布団に入ってくれて、ぎゅーってしててくれるやろ? いっつも……」

「そうやな」

「せやろ。昨日の晩もそうやった。仕事のことでちょっと悩んでて、調子悪くて寝てたら、また発作が起きて、あの人呼んでるのにめんどくさそうに、薬ばっかり飲むからや、とか言うて全然取り合ってくれへん。それで天宮さん呼んでって頼んでん」

「それで佐伯さんが僕に電話して来たんか」

「うん」

 僕は思う。もしかしたら、佐伯のところでこれから何か問題があったら、さらに友里の症状は悪くなるのではないか? 確かに薬に依存することは良くない。それはわかるが、本当に苦しい時には、薬に頼るのも致し方ないことだ。

 病気を気力で治せると公言するのは、一部の身も心も非常に健全な人の台詞に違いない。確かに気力は本当に大切なのだろう。しかしそう言う人に限って薬に頼ることを否定し、自分もわかっていないくせに軽はずみなことを言い、最悪、病弱な人間を上から見下すように見る。人間、苦痛に襲われたなら、誰でも精神的に弱くなってしまうというのに。

 薬に依存する。――依存。そう思った時に、自分はどうなのだ? と僕は自問自答する。何事も依存は良くないが、彼も友里同様に自分に対して弱い人間である。弱い人間同士が、お互い傷の舐め合いをして依存関係になっているのではないか?

 もしかしたら、僕と友里の関係は、愛情関係ではないのかもしれない。けれどお互いに必要としている。だから、不健全極まりないが、逆に離れることはできないのだろう。そんな気がしていた。

 だが、友里が佐伯に抱く気持ちは、間違いなく恋愛感情だ。僕の前に居る時と、佐伯の前に居るときの友里の態度は明らかに違う。見ていて悔しいが、すごく佐伯のことが好きなのだと感じる。

 つまり、佐伯と友里は『恋愛関係』であり、僕と友里は『依存関係』なのだと思った。

 でも、こうも考えられる。恋愛関係は、恋愛が冷めれば何も無かったように消えてしまうことが多いけれど、依存関係はお互いが生きているうちは、だらだらとずっと続く。ふと世の中の男女を見渡した時、これを否定できない人が結構多いような気がする

「着いたよ」

「うん。ありがとう。また連絡します」

 佐伯の住むマンションの前まで友里を送り届けて、そこで別れた。まるでタクシーだ。車の中にはさっきまで居た友里の残り香が漂う。悲しかった。でもまた僕のところに帰って来るような気がしていた。もう少し、ここで待っていようと思った。それが僕の役目なのだろう。また、そのうち帰って来るに違いない。そんな気がしていた。

 もうすぐ午前八時になる。直也はもう起きているだろうか。僕は急いで車を走らせた。



 それから一ケ月が過ぎ、五月になった。ある金曜の昼、仕事中の僕の携帯に友里からメールが届いた。

 ――京都に行きます。

 これだけだった。ほかには、いつ京都のどこへ何の用で行くとも書いていない。気にはなったが、その時は、ただ『気を付けて』と返すだけで何も尋ねなかった。そしてそれきり友里からは何の音沙汰もなく一日経ち、土曜の昼になった。僕はどうにも嫌な予感が拭えない。そこで佐伯に電話をしてみることにした。

「天宮ですが、そちらに友里はいますか?」

「いいえ、昨日の朝から、仕事で京都に泊まりで行ってます。葵祭ってご存じですか? あれの和装メイクの仕事で、白塗りしに京都に泊まりで出張中なんですわ」

「ああ、それやったらええんです。こっちに京都に行きますとだけメールが来たのでちょっと心配やったんで」

「ありがとうございます」

「いいえ」

 それで電話は切れた。確か以前も一度その仕事に行ったことがあり、僕は電車に長時間乗れない友里を京都まで送迎したことがあった。また迎えに来てほしいということなのか。京都は遠い。多少なりともうんざりしていた。

 ところが予想に反してその土曜の夜にお迎えコールはなかった。誰か大阪からいっしょに行ったので、帰りも電車でいっしょに帰ったに違いない。僕は内心とほっとしていた。

                                     続く
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