第4話 採精室

文字数 3,008文字

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 静子はなかなか出て来なかった。
 開き直ったような、変な余裕が出始めた僕は、逆に周りの女たちに性的な興味を持ち始める。 
 そのほとんどが僕と変わらないか、あるいは僕よりも若かった。ここを訪れる前、僕はスイカのような腹を抱えた妊婦ばかりを想像をしていたが、実際にはそうではない。
 ぼんやりテレビを眺める女や、雑誌を読む女たち。この女たちは今から、その恥ずかしい部分を明るい光の下で思い切り曝け出すに違いない。そう思うと彼はとても猥雑な気持ちになった。
 長い時間の果てにようやく静子が出てきた。顔面は蒼白だった。診断結果は、卵管狭窄症ということだ。卵管を広げる治療が必要らしい。痛そうである。
 そこから約半年の間、静子はすさまじく恥辱的な検査と処置に耐えなければならなかった。だが彼女は、愛の結晶を手に入れるために、どのような苦痛にも耐えた。強い薬を飲み、副作用でいつも気分が悪いと言い、また、婦人科の診察台で何度も恥部を晒しながら、彼女はその激痛にも耐えた。 
 僕はと言えば、初日の付き添いですっかり心が折れてしまい、それ以来、自分から付き添いを申し出ることはなかった。そんな僕に対して静子は、どんなに辛くともいっしょに行ってほしいと頼んだり、ましてや責めたりすることなど絶対にしなかった。
 すぐ目の前の苦痛よりも、もっとずっと先にある未来を思い描きながら、「じゃあ行って来るわな」と明るく振舞って家を出る静子。
「ごめんな、いっしょに行けなくて。今日は朝からちょっと大事な仕事があるねん」
 これ幸いと思う僕。妻にたむけた心配顔の裏でぺろりと舌を出しながら、婦人科に通う静子を見送る日々が続いた。二人の温度差がますます明らかになる。
 きっと静子は、そんな僕の気持ちに気付いていたのかもしれない。時折、悲しそうな顔をすることがあった。それはほんの一瞬だったが、僕は決してそれを見逃さなかった。
  
 
 それでも子供は授からず、いよいよ人工授精ということになった。ほんの軽い気持ちで出したハガキがここまで大変なことになるなんて思いもしなかった。
「ほんまにごめんな、嫌やろうけどお願いします」
 病院への行く道で静子が改まって僕に言った。
「いや、いいよ。俺も望んでいることやから」
「ありがとう。うちで採取しても良かったらしいねんけどな、いろいろ本とか調べたら、やっぱり病院で採取する方が新鮮でええらしいねん」
「新鮮! そうか」
 口では調子の良いことを言ってはいたが、不機嫌な表情だったのだろうか。静子はとても申し訳なさそうな表情だった。悲しいぐらいに。
 病院へ着くと、やはり混み合ってはいたが、珍しいことにその日は自分を含めてもう三組のカップルが来ていた。〝そういう日〟は特別に設定があるのかもしれない。たぶんそうだろう。
 ゾッとするほどわざとらしい配慮だと思った。けれど、初日のあの女子更衣室に放り込まれたような違和感は多少和らいでいた。
 受付では例のマニュアル受付嬢が、やはり機械的に応対していた。おそらく二十代半ばぐらいだろうか。極めて事務的に問診表を手渡された。このすまし顔の受付嬢も、きっとプライベートでは随分と破廉恥なことをしているに違いない。下世話な想像がふっと僕の脳裏をよぎった。僕はどこまでも卑屈だ。
 手渡された問診表につらつらっと目を通して驚いた。その内容たるや、性交渉の頻度はおろか、今日、禁欲期間は何日目か? だとか、一回の射精量はどれぐらい? だとか、射精時に違和感や痛みなどはないか? など、もうこれ以上ないぐらい徹底的に丸裸にされて、僕は苦笑いしながら静子の顔を見ると、こちらもいたって真顔。無表情だ。同じような苦笑いを期待していたのに、「何よそんなぐらい、男のくせに」と、まるでその顔は物語っているように思えた。
 僕は恐る恐る問診表を書き込み、受付に持って行った。照れ笑いを隠しながら手渡すと、例のマニュアル女はまるで一連の流れ作業をこなすがごとく、さっとその用紙に目を通し、不備がないかを確認して、カウンターの下から丸く小さなプラスチック容器をすっと僕の下へ差し出し、さらにこの上なく機械的にこう言った。
 ――こちらにお願いします。
「え? あ、はい」 
 マニュアル女は、僕の目をしっかり見ながら容器を差し出す。無表情で。
「奥に採精室がございますのでそちらでお願いします。奥様はいかがなさいますか?」
「奥様?」
「お一人でもお手伝いされてもかまいません」
「いやいや、いいです、いいです」
 静子が恥ずかしそうに協力を申し出たが、僕は頑として受け容れなかった。とんでもない!
「そうですか。ではお済みになりましたら部屋に小窓がございますのでそちらににお出し下さい。終わられたらまたこちらでお待ち下さい」
 それはまるで検尿の紙コップを出すのと同じだ。というか、当然ながら、ここでは変わらないのだろう。排泄も射精も。
 僕は案内されて採精室に入った。そこは広さ二畳にも満たない小さなスペースに、大きな背もたれのある黒い椅子と、その前にはヘッドフォンの付いたテレビ。そしてDVD。横の本棚にはアダルトDVDと成人雑誌が並ぶ。この部屋の写真を見た人は、間違いなくここをネットカフェだと言うに違いない。少し違うのは、小さな小窓があることと手洗い場があること。そして日付と天宮様と書かれたプラスチック容器が手に握られていること。
 僕はちらりと棚に並んだDVDに目を遣り、その中から何気なく一本手に取ってみた。
「ウソやろ?」
 それは意表を突いて、いや、想像通りと言うか……。
「ナース物かっ! シャレにならんな」
 思わず声に出してしまった。すぐに僕の脳裏に、ホームページで見た初老の院長の顔が浮かぶ。(あのヒゲの趣味か?)声にならない笑いを抑えるのに必死だった。しかし段々と腹が立って来た。なんとデリカシーのないことか! 僕はそっとそのDVDを元の棚に戻した。やってられない。
 仕方なくズボンとパンツを脱ぐ。こんなところで下半身丸出しの情けない格好の自分がやたら滑稽に感じられた。淡々と作業をこなそうとするが、そこにはどこをどう探しても「愛の結晶」などと言うものは見つからない。妻の申し出を断って正解だと思った。しかし、彼女はもっともっと苦痛と羞恥を伴う辛い〝作業〟に耐えているのだ。それを考えると、たとえ愛はなくとも、肉体的には快感を伴うその〝作業〟に文句を言うのは贅沢だ、とも思った。
 焦る。時間だけがどんどん過ぎ行く。自分はどれだけ小心者なのだ。自己嫌悪がその腐った頭をもたげ出す。するとますます気持ちは焦る。ダメだ。できない。僕は目を閉じて深呼吸をした。するとふいに先ほどの待合室の様子が頭に浮かんで来た。これから僕と同じように下半身を剥き出しにしなければいけない女たち。そして……。
 この部屋に入る時、あの例のマニュアル女は、引きつり笑いを浮かべて言った。
「焦らなくてもいいですよ。リラックスしてくださいね」
 テレビモニターに映るエロ動画も、ヘッドフォンから聞こえる下品な喘ぎ声もすでにただのBGMでしかなかった。結局僕は、頭の中でマニュアル女を陵辱し、彼女の苦悶の表情を想像しながら果てた。虚しさと、白く濁った排泄物だけが残った。
                                   続く
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