第33話 したくないことをしない

文字数 2,516文字

 それから友里は、家族構成から始まり、夫とのことや子供たちとの日々の生活のことまで、岡田医師はやさしく尋ねた。その会話は友里にとっては身の上話でも話すように感じられ、後からそれが問診であると聞かされて驚いた。

 そして友里は、今まで誰にも話したことがなかった彼女を苦しめるダークについて初めて打ち明ける機会を得た。

「立っていられなくなるような、村井さんが言う、そのダークですか、それは今までに何度も?」

「はい、何度も」

「そうですか。しかしあなた、なかなか面白いこと言いますね。なるほど、ダークか。おそらく医学用語で言うところの予期不安に当たるのでしょう。しかしその呼び名の方がしっくりきますね」

「予期不安?」

「ええ、その症状だけ聞く限りね、村井さんの病気はパニック障害だと思われます」

「パニック障害?」

「そう。パニック障害は決して珍しい病気ではありません。今はよく効く薬もあります。予期不安と言うのはその症例のひとつです」

「ちゃんと名前があるんやね」

「ええ、人はね、まあ人だけではありませんが、予期せぬ危険に遭遇したとき、その身を守るために恐怖や不安といった感情が湧き起こります。防衛本能です。でないと本当に命を落としかねないですから。考えてみてください。ライオンに遭遇した時にボケッと見ているシマウマはおらんでしょう? 猛然と逃げますよね?」

 友里はうんうんと頷き、岡田医師は納得したように話を続けた。

「ところがね、村井さんの場合は、まったく身に危険が迫らない時にでも、恐怖、不安と言った反応が起きる。つまり脳が誤作動を起こすわけですが、これ、パニック発作と言います。これも一症例です。度々その誤作動が起こるようになるとね、次、いつどこでそれが起こるかわからない。すると今度は起こってもいないその誤作動に対する不安が起こる。それが予期不安です。あなたを度々苦しめるそのダークと言うやつの正体ですね」

 岡田医師の言葉は友里のもやもやしていた心にストンと落ちた。その正式名称がわかっただけでもここへ来た意味は大きいと思った。友里には今までずっと暗闇だった存在――ダーク、にもちゃんと名前があって、かなり研究が進んでいることもわかった。ほんの少しだけれど光明が差した気がした。

「せんせ、あたしの病気、治るんですか?」

「治る方もたくさんいらっしゃいます。けれども残念ながら、今の段階ではそれははっきりとは申し上げられない」

「じゃあ、あたしはこのままずっと?」

「ええ、元々それは人間に備わった防衛本能ですから。無くすと逆に大変なことになる。今はそいつが暴走しているんです。だから治すことよりも、まずそのダークとうまく付き合って行くことを考えて頑張りましょうか。大丈夫ですよ」

「あたし、何をすればいいの?」

「そうですね、まず、あなたが〝したくないこと〟をできるだけ〝しないように〟そして負担に思っていることを軽減するところから始めましょうか」

「したくないことをしない……そんなん無理です。絶対無理!」

「そこ、それ!〝絶対無理〟それがダークを呼ぶんですよ。人間、世の中、絶対なんてありません。今のところはっきり決まっているのは、いつか死ぬことぐらいですよ。やらなきゃ、そう決めているのは私たちの心ですから。縛っているのも自分自身。ね、わかるでしょ?」

「せんせ、なんかお坊さんみたい」

「いや、私は医師ですよ。坊主なんかじゃない。至って論理的です。実際ね、何とかなるものです。あなたが〝絶対〟しなくてもね」

「せんせ、ここ、また来てもいい?」

「ええ。もちろん。あ、予約はしてください。ああ、それとカウンセリングも受けてください。あなたにはぜひ必要だと思いますのでね」

「カウンセリング?」

「ええ、臨床心理士による、まあ簡単に言えば悩み相談ですよ。あなたが今現在抱えている問題をね、きちんと分析しながら一つずつ潰して行きましょう。それにはカウンセリングが必要だと思いますので」

 岡田は驚くほどやさしかった。友里は今までこれほど真正面から真摯に話を聞いてくれた人に出会ったことがなかった。父にも、もちろん友里を悩ませている夫、祐一にもかつてこれほどやさしく接してもらったことはなかった。

 岡田にとって友里は多くの患者の一人に過ぎず、もちろん職業柄、こう言った患者に対してのマニュアル通りの接し方をしたのだろう。しかしこの時点で人の温情に飢えた友里にはそれがわかろうはずもなかった。その時の友里の気持ちで言うなら、彼は正に救世主であったに違いない。

友里が次に訪れたカウンセリングでは、まず友里自身が抱えている問題について、岡田医師が言ったように一つずつ挙げていくことから始まった。その結果、現状として、数々の問題が浮かび上がった。

 癲癇の障害を持つ都と乳飲み子の咲希を友里一人で看なければならない上に、当の友里もいつ起こるかわからないパニック発作と言う精神疾患を抱えている。

 父は高齢。母も高齢の上に病弱。もちろん夫、祐一にも援助が頼めない。いやそれどころか、友里の精神疾患の一番の原因である。

「ねえ、お母さん、あなたが頑張っていることはよくわかります。でもね、たった一人では限界があるでしょう? できることとできないこともあるでしょう?」

 カウンセラーは、やさしそうで頼りになりそうな中年女性だった。彼女は言う。

 ――つらかったね。よく頑張ったね。でも、もう、大丈夫よ。心配しないで、と。

 友里はその場で声を上げて号泣した。今まで一人でどれほど耐えていたのだろう。信じられないぐらい涙が溢れた。

 そして友里は行政の助けを借りることになった。そこで初めて保健福祉の存在を知る。

 友里の住民票はまだ大阪市にあったので、実家の堺ではなく、大阪市生野区にある区役所を訪ねることとなった。

 区役所の健康福祉課の勧めにより、都と咲希の児童社会福祉施設への通所が決まった。そのあまりの安直さに友里は拍子抜けしてしまった。まるで行政のベルトコンベアーだ。そして辿りついたところは〝ひかりの家〟だった。

                                   続く
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