第27話 やっぱり出ちゃいましたか

文字数 2,035文字

 その日は朝から都の食欲もあまりなく、少しの眩暈と顔の痙攣を訴えていたが、午後回診に訪れた医師に尋ねると、彼はつらつらとカルテに目を通し、顔面の痙攣意外、バイタルサインに異常は認められないので現時点ではそれほど心配することもないだろうと言った。

 午後三時を少し回った。

 友里は三階の病室の窓からぼんやりと外を眺めていた。

 目に写る建物も、木も、空も、そのすべての陰影がくっきりと際立ち、いかにも晩夏の午後の様相を呈している。

 蝉のシャンシャンと鳴く声が閉め切った窓から病室内にまで響いていた。外はおそらく軽く摂氏三十度を越えているだろうが、院内はとても快適な温度に保たれていた。

 今年の夏は結局ここで過ごすこととなったが、夏は何度でもやって来るはずだから、一回ぐらいこんな夏があっても仕方のないことと、昼寝中の都をぼんやり見つめながら、友里は取りとめもない思いに心囚われていた。

 そして、きっと疲れが溜まっていたのだろう。いつのまにか友里は不覚にも浅いまどろみの淵を彷徨っていた。

 と、その時だった。

「ママぁ」

 都がゆっくり目を開けてぼんやりしている友里を呼んだ。友里はうつらうつらと眠りに落ちかけていたが、一瞬で現実に引き戻された。

「ああ、ミヤ、目、覚めた?」

 都はじっと天井の方を見つめている。

「ママ、あのな、デンキがな、すごく、近くに見えるねん」

「え?」

 ベッドで仰向けに寝ていた都はゆっくりと右手を天井の蛍光灯に向けて差し出した。

「おかしいなあ、デン……キぃ、さわられへん」

 都の指先が何かを掴もうと小さく動く。

「何言うてるん? ミヤ」

「だってな、こ、ここに……」

 会話が数秒止まった。

「あんねん、ほら……」

 また止まった。真上に突き出した都の小さな右手は小刻みに震えている。

「え? 何? ミヤ、どないしたん?」

 その時、天井を見つめる都の顔の右と左が極端に違って、いや、都の小さな鼻筋を中心に顔の左側が酷くずれているように見えた。友里はぞっとした。

「ちょ、都、しっかりして!」

 都は何も答えず、カッと目を見開いたまま天井の一点を見つめている。友里の声は宙に浮いたまま消えた。

 すぐにその半開きの小さな口から粘り気のある白い泡が溢れ、そして都の尻の下のシーツに黒い水しみが広がった。

「だ、誰か、せんせ、看護婦さん!」

 友里は慌ててナースコールを押した。

「はーい、どうしましたか?」

 間延びした看護師の声がインターホンから届く。

「すぐ来てください! 都が!」

 午後のゆっくりした病室は、一転して物々しい雰囲気に包まれた。

「うーん、やっぱり出ちゃいましたか」

 これが担当の脳外科医が友里に向けて言った最初の言葉だった。

 様々な検査の結果、都の体に起こった症状は、外傷性癲癇てんかんと判断された。頭蓋骨折などの影響で脳に何らかの損傷があったとき、後遺症としての癲癇の発作が起こる。

 担当医はこの事態は十分に想定していたようだ。普通は一週間以内に症状が現れるらしいが、都の場合は、軽い顔面痙攣程度で顕著な癲癇発作は起こらなかった。

「やっぱり出ちゃいましたか」は、その嫌な予感的中を如実に言い表していた。

 これ以降、度々、都は発作を起こすようになった。それは一時的なものではなかった。一時的であってほしかったが友里の期待はものの見事に裏切られた。これから長きに渡ってこの病と付き合っていかなければならない。

 それを引き起こす原因ははっきりとわからないが、予兆はあった。最初のあの「電器が近くに見える」もその一つなのだろう。  

 だが現時点では都の精神年齢も幼すぎて言葉ではうまく説明できないでいた。友里や、その他のある程度状況がわかっている人ならば対応もできようが、まったくわかっていない周りの人々は、それまで普通に動いていた都が、まるで動画が一時停止ボタンで止まってしまうように突然その活動を止めるものだから皆一様にびっくりしてしまう。

 初めは友里も慌てふためいたが、やがてそれが日常化すると徐々に慣れてうまく対処できるようになった。薬剤の処方によってある程度の抑制はできたが、しかし、それ以後、都や、都を含めた家族の生活様式が大きく変わった。

 すべての優先事項を押し退けて「てんかん様」が家族のど真ん中に居座ってしまった。つまりは日常生活に大きな重荷を負うことになった。

 今はまだ四才にもならない小さな女の子だが、やがて年頃の娘になっても、突然皆の前でぶるぶる震えながら泡を吹き、おしっこを垂れ流すのだろう。そう思うと友里は居ても立ってもいられなかった。

 ――誰のせい?

 今は覚えていないのかもしれない。けれどいつかきっと都の口からその言葉が出る。その恐怖は〝ダーク〟(パニック発作)に取っては最も美味しいエサとなった。ダークの吐き出す毒はどんどん強くなり、その存在は大きくなるばかりだ。

                                      続く
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