第10話 行政と言う名のベルトコンベア

文字数 2,198文字

「ある兆候?」

 静子の顔色がさっと変わる。

「ええ、私どもは今まで数多くのお子さんをお預かりしてその行動を見て参りましたが、直也君を含む一部のお子さんには、いくつかの共通点がございます。おそらくご自宅でもそれはお気付きになっておられたのでありませんか?」

 園長はとても回りくどい言い方をした。この現実を親である二人に伝えなければならない辛い立場にあるのだろう。きっと彼女も胸を痛めているに違いなかった。しかしその時の僕たち二人には、そんな他人の辛い立場を理解する余裕などはなかった。

「園長先生、その、直也は……」

「専門的なことは、私は医者ではありませんのではっきりこうだとは申し上げられませんが、ただその、知的部分に関するある種の障害らしきものをお持ちなのではないかと、担当の保育士より度々報告を受けております」

「知的部分に関する障害、ですか……」

「ええ。一度、正式に検査に行かれたほうがよろしいかと思います。取り敢えず、区役所の健康福祉課に児童相談窓口がありますので、そちらで相談して下さい。わたしが書状を書いておきますので。これ以上詳しいことは私どもでは、ちょっと。こちらに保育士からの報告書をまとめたものがありますのでご参考までに」

 そう言うと園長は、僕らの前にA4のレポート用紙を一枚置いた。

 その内容を少し要約して書いてみる――言葉が出ない。意思表示をしない。落ち着きがない。こちらの言うことが聞こえない、もしくは反応しない。いつも両手を頭ぐらいの高さまで上げて、ひらひらと動かす。高いところに登るのが好き。水に対して異常な執着があり、例えば、水道から出る流水に目を近づけてずっと見ている。一つの物に、ある種の強い拘りがあり、それが自分の思い通りにならないとき信じられないほど大きな声で泣き叫び、拒絶行動を取る、等々。

 僕はハッとした。どれもが直也の行動に思い当たるフシがある。指摘されてようやくピンと来る。そうだ、あのビデオ、おかあさんといっしょのビデオ。あれを見ている直也の異常性を僕はまざまざと思い出していた。

 僕が気付くぐらいだ。当然静子自身もおかしいと思うことはあっただろう。そして、もしかしたら? という一抹の不安を抱くこともあったが、母親として誰もがそうであるように、決してそれを受け入れることができなかったのだろう。

 今思えば、今回の園長の呼び出しについて、静子にはある程度の予想はできていたに違いない。それは癌患者が、どう考えてもそれに違いないとわかっていても、医者からはっきりそうだと告げられるまではそう思いたくない。そんな気持ちに似ていたのかもしれない。

 しかし、一番の問題は、僕自身がそれまでまったく気にも留めていなかったということだ。育児のそのすべてを静子任せにしていたこと。僕はただの一度もいっしょに風呂にさえ入ったことはなかった。直也以上にこちらの方が問題だったに違いない。

 それから二人は直也を保育園から引き取り、その足で、そこから歩いて二十分とかからない区役所の健康福祉課を訪ねることにした。

 自転車のチャイルドシートに乗せられた直也は、いつもなら迎えに来ることのない僕の顔を不思議そうに覗き込んで、そして少しだけにっこり笑った。

 そのあどけない笑顔からは、今しがた園長先生から聞かされた残酷な事実が微塵も感じられなかった。静子はその笑顔を見て、うつむいたまま無言で自転車を押していた。

 僕は先ほど園長から言われた言葉――知的部分に関する障害らしきものをお持ちなのではないか――を頭の中で何度も反芻していた。

 やがて人の良さそうな園長の姿は、「あんたとこの子、ちょっと頭おかしいんやで。何とかしいや」と冷酷に言い放つ姿に変わり、僕は慌ててその妄想を打ち消そうとした。

 役所の福祉課から市の児童相談所を紹介され、そこから精密検査を受けるために総合医療センターに回された。

 検査はどれも単純なものだった。もちろん対応して下さった各々は皆十分に真摯な態度で誠意に溢れていたが、そのテストを受ける度に、僕もおそらく静子も「そんな簡単なテストで直也のいったい何がわかるのか?」と言う疑問がふつふつと湧き上がる。 

 今回、園長先生の話しに始まり、それからの行動は、まるで行政という名のベルトコンベアに載せられた部品がどんどん組み立てられて行って最後には『発達障害』と言うラベルをペタンと貼られて世に送り出されるような、そんな無機質な感じがしていた。

 後に静子は言う。直也に自閉症という重い障害があると聞かされた時、一瞬にして希望は絶望に変わったのだと。毎日、毎時間、一分、一秒、光は閉ざされ、闇が静子の心を支配した。その漆黒の闇の中、彼女は手探りで直也の姿を懸命に探したに違いない。

 でも一人では見つけることができなかった。どれほど僕に救いの手を求めていたのか。だが僕はその手を差し伸べることも無く、ただ、当事者、静子、傍観者、秀俊、と言うそのスタンスを崩すことはなかった。

 そんな状況で、どうやって直也を見つけることができようか。静子はもう探すことを止めて、そのまま闇に飲み込まれてしまう方がきっと楽だと何度も思ったのだろう。直也といっしょにこの闇ごと葬ってしまいたかったのだ。

                                      続く   
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