第80話

文字数 3,016文字

 強い光の残像が目に焼き付いてチカチカしたが、ガゼルの手のひらからは、まるで水が滴るように白い光がぽたぽたとこぼれ落ちていた。どうやらそれは法印(タウ)らしかったが、それはシノワが今までに見たどの法印(タウ)よりもシンプルで、二重に絡まった円の他には図形どころか文字ひとつ描かれていない。

 ガゼルはしげしげとそれを眺めていたが、光の雫が止まると、ぎゅっと手をにぎりしめ、ドアに歩み寄る。

「ここを抜ければ、すぐにその場所に出る」そう言ってガゼルは扉に軽く手を触れ、シノワをふり返った。「ここで魔法を封じたところで、この国がどうなるかはわからない。いい方へ転ぶとも限らないし、君に何か幸せが訪れるわけでもない。どちらかと言えば、面倒なことの方が多いと思う。ただハッキリしているのは、魔法を使う人口が大幅に減るということだけだ」
 そこでガゼルは一旦言葉を切り、シノワを真っ直ぐに見すえた。それにシノワは背筋を伸ばす。
「最後にもう一度だけ聞こう。シノワ、君はどうしたい?」
「何言ってるんですか。ここまで来て、もう後戻りなんてできませんよ」
「君がここで魔法を封じるのをやめようって言うなら、後のことは私が何とかしてあげるよ」

 シノワは首をふって、彼もまた真っ直ぐにガゼルを見返した。
「僕はもう恐がったりしません。魔法を封じてください。それが一番いい方法だと、僕は信じます」

 ガゼルは、よろしい、とうなずいて手招きする。
「さあ、これは本当の大魔法だぞ。やり始めたら私は手が離せないし、【星】を封じ直したら、しばらく魔法が使えない。たぶん完全に魔力が戻るまでには何日かかかるだろうから、帰りは歩いて帰らなくちゃならないけど、かまわないかい? この扉は一方通行なんだ」
 ガゼルのいつもと同じ口ぶりに、シノワも笑ってガゼルの元へかけよる。
「王都までどれぐらいあるんですか?」
「歩いて二時間ほどだ」
「それぐらい何てことありません。早く行きましょう」
 うなずいて、ガゼルは扉の取っ手に手をかける。

 扉の向こう側の光が射し込み、どきりとシノワの心臓が波打つ。
 実を言えば相当緊張していて、手にはべっとり汗がにじんでいる。これまでに出会った幾人もの当主や魔法使い、クロムやソウェル、両親や兄、イディアやその祖母ワナのことなど、様々なものが一気に押し寄せ、心の中は名前も付けられない感情の嵐だった。

 ただ、自分の少し前を行く軽やかな笑みを見失わないように。それだけを思った。



「僕はもっとこう、神殿みたいなものがあるんだと思ってました」
 シノワは不思議そうに辺りを見回す。
「何もないってことが重要なんだよ。誰もが見向きもしないで、通り過ぎてくれるってことがね」
「【星】は人の行き交う場所に封じられたんじゃなかったんですか?」
「建国史のその部分はデタラメだね」

 二人の前に広がっているのは、やたらと小石のゴロゴロした乾いた地面だった。不毛とは言えないまでも、かさついた雑草が生える他には木の一本も生えていない。あちらこちらに立ち枯れた苗木のように立っているのは、古い墓標らしい。これが【星】の埋まっていた遺跡であり、テサ建国時の古戦場である。

 ガゼルによれば、当時知識もないまま無茶な魔法を使った結果、消えずに残ってしまった魔法が作用して、たいした植物が根付かなくなったらしかった。戦の忌まわしい記憶と、何の魅力もない景観と土地に、もうここへ立ち寄る者はほとんどいないという。
 今日も、この荒れ地五キロ四方には司祭以外の魔法使いが入ることが禁じられ、この場所にいるのはガゼルとシノワの二人だけだった。

「こんな所に封じられたんじゃ、【星】も嫌でしょうね」
「嫌でもしかたないこともあるさ」
「今、【星】は何か言ってますか?」
 問われて、シノワの掲げたランタンに目をやるが、ガゼルはゆるく首をふった。
「【星】は、いつも同じことを言う。生まれろ、生きろ、死ね。それ以外は何も言わない」
「何ですかそれ」
「わからない。けど、私が知る限り、【星】が他に何か言ったということはないんだ。だから、建国物語の『【星】が封じられることを嫌がったために六人の魔法使いたちは苦戦した』ってくだりはウソじゃないかと、私は思うよ」
「でも、【星】が嫌がったんじゃなければ、何に苦戦したって言うんですか?」
「魔法を手放すことに、だろう」
 シノワは思わず目をみはった。それが本当なら、テサ建国における魔法使いの美談は根底から揺らぐ。

 そのシノワの表情にガゼルはふっと吹き出した。
「あくまで私の推測だよ。本当にその時【星】は嫌だって言ったかもしれない。何しろ千年ほど昔の話だから、本当のことはもう知るすべがない」

 ガゼルは何の目印もないような場所で不意に立ち止まると、法衣(ウルムス)のポケットから花を一輪取り出して、その白んだ地面に置いた。それはヒューカーという花で、白く薄い花びらが美しく、よく墓前に供えられる花である。
 誰の、と聞こうとしてシノワは言葉を呑んだ。
「ここがお墓なんですか?」
 いや、とガゼルは首をふった。
「ここはクリフォードが最期にいた場所だ。司祭には墓所というものがないからね」

 さて、と腰を伸ばして、ガゼルは地平線をぐるりと見わたした。その表情はいつになく険しい。シノワに怪訝そうにのぞき込まれて苦笑すると、ガゼルは杖の先でシノワの額に触れる。すると魔法がはじけて金色の光がシノワの体を伝った。この魔法には見覚えがあった。クロムの炎をそっくりそのままはじき返した守りの魔法である。
「【星】を封じる時、強い魔力が辺りにも広がるから、念のためだ。さて、心の準備はいいかい?」
「はい、たぶん……」
 口調にもくっきりと緊張が表れていた。
「たぶんて何だよ」
「ガゼル」
「なに」
「魔法を封じて、本当に死んでしまったりしませんよね?」

 魔法を封じるには、とてつもない魔力を消費する。いつもは自分の魔力を抑えるために魔力を使っている司祭が、全ての魔力を使い切ってしまうほどの力が必要なのだ。そのために、すでに二百五十八歳だったクリフォード前司祭は、魔法を解放したときに、この場所で命を落としている。魔法を封じた後に更に魔法を使ったからだとジーナは言ったが、ガゼルは魔法の解放と共に魔力が弱まっているのだ。

「君はこの期におよんで、まだ私が年齢を詐称してると思ってるのか?」
「いえ、ガゼルがつやつやの二十歳だってことはわかってますよ」
 ただ、不安だった。何がとも、どうしてとも、わからない。
 そのシノワの困り切った表情を見ると、ガゼルはポンポンとシノワの肩をなでた。
「信用したまえ」
 ずい、と手のひらを差し出され、シノワは意を決してランタンを開ける。中からころりと、栗の実ほどの光が転がり出る。

 見れば見るほど不思議な光だった。青いかと思えば赤く、黄色いかと思えば白い。本当に全ての色を有しているような、そんな光だった。ちくちくと指を刺す【星】の光に怯みつつ、それをガゼルの法印(タウ)がきらめく手のひらに載せる。
 何でもないような石が丸く並べられた場所へ来ると、ガゼルは杖でその周りに大きな円を描く。

「少し離れててくれ。この内側には絶対に入らないでくれたまえよ」
 ぞわりと胸がざわめく。
「ガゼル」
 思わず大きな声になる。それにガゼルはいつものように笑った。
「ありがとう、シノワ」
 何が、と聞く前に、ガゼルは【星】の光に包まれてしまった。
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