第82話
文字数 1,238文字
小刻みにふるえる指先はひどく白かった。いつ付けたのかわからないが、手のひらに引っかいたような傷があり、そこからにじむ血の色が鮮やかだった。それはいつもまでもガゼルの手に留まっていて、消えてはいかない。
全身にあれほど濃密に満ちていた魔法の気配が感じられない。
ガゼルはのろのろと立ち上がり、しなびた草の間から垣間見えるドレスを着た人影が動かないことを確認すると、白んだ地面に倒れこむシノワの元へ歩みより、脇へ座り込む。
シノワの胸からあふれた鮮やかな赤が、灰色の砂に広がっていく。
ささやきを聞き取るように彼の口元に耳をよせると、弱々しい息吹が耳へ届いた。その口元からは血がこぼれている。傷は深い。
己の両の手のひらを開いて見るが、もやのように弱々しい光が一瞬灯っただけで、何も起こらなかった。その手のひらをにぎりしめる。
古代魔法は傷口をふさぐような、物理的な働きには弱い。様々な道具があれば話は別だが、こんな何もない場所では不可能だった。
か細い鳴き声がして、ロンがガゼルの手に前足をかけた。彼の背にも痛々しい傷があった。血が流れ、かすかに鉄の匂いがする。鉄は竜にとっては毒だ。早く治療してやらなければならない。
「ごめん、ロン」ガゼルはロンの顔を両手で包み込み、額をくっつける。「今の私には君のことも治してやることができない。だけど──頼めるかい?」
ロンがガゼルの手の中でうなずいたのがわかった。
「きっと一番近い所にジーナかアレフがいるはずだから、彼らを呼んで来てくれないか」ロンがもう一度うなずくと、ガゼルは大事そうにやわらかなたてがみをなでた。「君はもうここへ戻らなくていいからね。すぐに誰か捕まえて手当してもらってくれ」
ロンはガゼルの手に鼻先をすりつけると、晴れ渡った空に消えていった。
「ああ、シノワ。こんなに魔法が使えたらと思ったのは生まれて初めてだ。まったくマヌケな司祭で申し訳ない。だけど、大丈夫」
ごぼり、と音を立ててシノワの口から新たな血がこぼれる。ガゼルは苦しげに顔をゆがめたが、それをやり過ごし、シノワの血に汚れた口元を法衣 の袖で拭ってやる。
少しずつ、呼吸が弱まってゆく。
──お前がそれを選んだことにも、何か意味がある
遠い昔に聞いた、クリフォードの言葉を思い出して、ガゼルは自嘲気味に微笑んだ。
耳元に手をやり、緑柱石の耳飾りをはずすと、ガゼルはそれを地面に置き、シノワのにぎっていた剣の柄で石を砕く。すると粉々に割れた石の中から、石と同じ淡い色の光がさまよい出て、宙をただよってガゼルの眉間のあたりに吸い込まれていった。
シノワの栗色の髪に触れる。それを指先で名残惜しそうに梳(す)くと、ガゼルはシノワの体を抱き起こし、砂に汚れた額に自分のそれを合わせる。額を合わせたその場所から、淡い光がこぼれ始める。
こんなことをしたら、きっと君は怒るだろうけど、世界は君の思うとおりになったんだ。君が見ないでどうする。だから、戻っておいで、シノワ──
全身にあれほど濃密に満ちていた魔法の気配が感じられない。
ガゼルはのろのろと立ち上がり、しなびた草の間から垣間見えるドレスを着た人影が動かないことを確認すると、白んだ地面に倒れこむシノワの元へ歩みより、脇へ座り込む。
シノワの胸からあふれた鮮やかな赤が、灰色の砂に広がっていく。
ささやきを聞き取るように彼の口元に耳をよせると、弱々しい息吹が耳へ届いた。その口元からは血がこぼれている。傷は深い。
己の両の手のひらを開いて見るが、もやのように弱々しい光が一瞬灯っただけで、何も起こらなかった。その手のひらをにぎりしめる。
古代魔法は傷口をふさぐような、物理的な働きには弱い。様々な道具があれば話は別だが、こんな何もない場所では不可能だった。
か細い鳴き声がして、ロンがガゼルの手に前足をかけた。彼の背にも痛々しい傷があった。血が流れ、かすかに鉄の匂いがする。鉄は竜にとっては毒だ。早く治療してやらなければならない。
「ごめん、ロン」ガゼルはロンの顔を両手で包み込み、額をくっつける。「今の私には君のことも治してやることができない。だけど──頼めるかい?」
ロンがガゼルの手の中でうなずいたのがわかった。
「きっと一番近い所にジーナかアレフがいるはずだから、彼らを呼んで来てくれないか」ロンがもう一度うなずくと、ガゼルは大事そうにやわらかなたてがみをなでた。「君はもうここへ戻らなくていいからね。すぐに誰か捕まえて手当してもらってくれ」
ロンはガゼルの手に鼻先をすりつけると、晴れ渡った空に消えていった。
「ああ、シノワ。こんなに魔法が使えたらと思ったのは生まれて初めてだ。まったくマヌケな司祭で申し訳ない。だけど、大丈夫」
ごぼり、と音を立ててシノワの口から新たな血がこぼれる。ガゼルは苦しげに顔をゆがめたが、それをやり過ごし、シノワの血に汚れた口元を
少しずつ、呼吸が弱まってゆく。
──お前がそれを選んだことにも、何か意味がある
遠い昔に聞いた、クリフォードの言葉を思い出して、ガゼルは自嘲気味に微笑んだ。
耳元に手をやり、緑柱石の耳飾りをはずすと、ガゼルはそれを地面に置き、シノワのにぎっていた剣の柄で石を砕く。すると粉々に割れた石の中から、石と同じ淡い色の光がさまよい出て、宙をただよってガゼルの眉間のあたりに吸い込まれていった。
シノワの栗色の髪に触れる。それを指先で名残惜しそうに梳(す)くと、ガゼルはシノワの体を抱き起こし、砂に汚れた額に自分のそれを合わせる。額を合わせたその場所から、淡い光がこぼれ始める。
こんなことをしたら、きっと君は怒るだろうけど、世界は君の思うとおりになったんだ。君が見ないでどうする。だから、戻っておいで、シノワ──