第83話
文字数 1,323文字
唐突に胸に空気が送り込まれた感覚に、シノワは激しく咳き込んだ。とっさに口元を押さえた手のひらがピリリと痛んで、離して見ると、覚えのないかすり傷ができていた。
こんな傷をいつ付けたのだろうかとぼんやり考えて、あわてて胸に手をやってみるが、痛みがない。わけがわからず飛び起きると、何かがシノワの胸の上から滑り落ちた。それを目で追って、シノワは凍り付いた。
赤黒い染みの広がる中に、ガゼルがうつぶせに倒れていた。
あわててガゼルを上向かせると、全身に震えがはしる。ガゼルの真っ黒な法衣 の下で、服が鮮血に染まっていた。そして、それは後から後からわき出てくる。
「ガゼル!」
白くなった顔に、いつもの揺るぎない笑みはない。代わりに細い切り傷が頬を斜めに走っていた。ハッとして自分の頬に手をやるが、シノワの頬からはエイラのナイフによって付けられた傷が消えていた。そして悟る。
入れ替わってる──
どうやってそんなことをやったのか、そんなことが可能なのかわからない。しかし、確かにあの瞬間鋭い痛みを感じたし、シノワの服は胸の辺りが真っ直ぐに切り裂かれて、血だらけだった。ただ、傷がない。
「何てことを!」
早く手当しなければ、そう思って愕然とする。
誰が、どこで、どうやって?
ダガズ
とっさに傷をふさぐための呪文 を口にするが、やはり何も起きない。魔法は本当に封じられている。
「ああ、誰か。ロン! アレフさん! 誰か!」
答える声があるはずもない。王都までは歩いて二時間。魔法はもう使えない。ここは誰も立ち寄る人のない場所。怪我人を運べるようなものすらない。
どんどん血の色が広がっていく。
「ああ、ガゼル、嫌だ──」
これが恐かったと思った。ずっとこうなることが恐かった。
全身に温度があるようには感じられないのに、心臓だけが激しく打ち、口の中が干からびていく。
「──落ち着け……!」
わなわなとふえる手を、祈るようににぎり合わせる。
何をあわてているのだ。ここには自分しかいない。自分がやるしかない。
大きく息を吐ききると、ガゼルの法衣 を裂いて血を止めるようきつく体に巻いていく。剣をあつかう者として、多少の心得はある。
ふえる手を叱りつけて何とか処置を終えるが、すぐに新たな血がにじみ始める。ぐっと奥歯をかみしめると、力が抜けて重みを増したガゼルの体を背負い、歩き出す。
地平線の先に王都の影が見えるが、その距離は近いとは言えない。
「何てことをするんですか。僕がいなくなったって、世の中は回って行くんですよ。でも、ガゼルがいなくなったら、みんな困るんですよ。これからみんなどうしたらいいんですか。もしそんなことになったら──」
涙にかすむ白い大地をにらみ返し、足を速める。しかし、小石のゴロゴロとした地面は歩きにくく、じきに息が切れ、足がよろめく。ずり下がったガゼルを背負い直し、駆け出そうとしたところでつき出した石に足を取られて、前のめりに倒れこむ。
「いっ……」
膝をしたたかに打ち付け、鋭い痛みが走った。しかし、歩みを止めるわけにはいかない。たとえ這ってでも王都に戻ってみせる。
「死なせない。絶対に」
きしるように言って、シノワは灰色の大地を歩き続けた。
こんな傷をいつ付けたのだろうかとぼんやり考えて、あわてて胸に手をやってみるが、痛みがない。わけがわからず飛び起きると、何かがシノワの胸の上から滑り落ちた。それを目で追って、シノワは凍り付いた。
赤黒い染みの広がる中に、ガゼルがうつぶせに倒れていた。
あわててガゼルを上向かせると、全身に震えがはしる。ガゼルの真っ黒な
「ガゼル!」
白くなった顔に、いつもの揺るぎない笑みはない。代わりに細い切り傷が頬を斜めに走っていた。ハッとして自分の頬に手をやるが、シノワの頬からはエイラのナイフによって付けられた傷が消えていた。そして悟る。
入れ替わってる──
どうやってそんなことをやったのか、そんなことが可能なのかわからない。しかし、確かにあの瞬間鋭い痛みを感じたし、シノワの服は胸の辺りが真っ直ぐに切り裂かれて、血だらけだった。ただ、傷がない。
「何てことを!」
早く手当しなければ、そう思って愕然とする。
誰が、どこで、どうやって?
ダガズ
とっさに傷をふさぐための
「ああ、誰か。ロン! アレフさん! 誰か!」
答える声があるはずもない。王都までは歩いて二時間。魔法はもう使えない。ここは誰も立ち寄る人のない場所。怪我人を運べるようなものすらない。
どんどん血の色が広がっていく。
「ああ、ガゼル、嫌だ──」
これが恐かったと思った。ずっとこうなることが恐かった。
全身に温度があるようには感じられないのに、心臓だけが激しく打ち、口の中が干からびていく。
「──落ち着け……!」
わなわなとふえる手を、祈るようににぎり合わせる。
何をあわてているのだ。ここには自分しかいない。自分がやるしかない。
大きく息を吐ききると、ガゼルの
ふえる手を叱りつけて何とか処置を終えるが、すぐに新たな血がにじみ始める。ぐっと奥歯をかみしめると、力が抜けて重みを増したガゼルの体を背負い、歩き出す。
地平線の先に王都の影が見えるが、その距離は近いとは言えない。
「何てことをするんですか。僕がいなくなったって、世の中は回って行くんですよ。でも、ガゼルがいなくなったら、みんな困るんですよ。これからみんなどうしたらいいんですか。もしそんなことになったら──」
涙にかすむ白い大地をにらみ返し、足を速める。しかし、小石のゴロゴロとした地面は歩きにくく、じきに息が切れ、足がよろめく。ずり下がったガゼルを背負い直し、駆け出そうとしたところでつき出した石に足を取られて、前のめりに倒れこむ。
「いっ……」
膝をしたたかに打ち付け、鋭い痛みが走った。しかし、歩みを止めるわけにはいかない。たとえ這ってでも王都に戻ってみせる。
「死なせない。絶対に」
きしるように言って、シノワは灰色の大地を歩き続けた。