第61話

文字数 3,006文字

***

 隠し部屋にこもって数日。ガゼルの体のそばで、アレフとクマガゼルがブツブツと何か言い合いながら頭をひねる日々が続いた。しかし少しずつ口数が減ってゆき、四日目ともなると、二人からはうめき声しか聞こえなくなった。この頃にはベオークも休暇が切れて法庁へ戻ってしまっていた。
「あの、お茶を入れたので、少し休んでください」
 シノワが声をかけると、アレフは疲れた顔で目頭を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、すまない。いただくよ」
 アレフは、うんとうなって固まった腰を伸ばすと、ガゼルをつまんで部屋の小さな机の上に置き、自分も椅子に座った。そして、シノワの入れたお茶を一口含むと、机に広げられた紙を見やる。紙にはいくつもの計算式が書かれており、視線に気がついたシノワが片付けようとすると、アレフは、そのまま、と手で示した。
 二人が法印(タウ)にかまけている間、シノワには時々お茶を入れてやる以外には特にできることもないため、学院の勉強をしていたのだった。
「君は本当に真面目だなあ」
 ガゼルが呆れたように言ったが、アレフはお茶を飲みながら計算式を眺め、おもむろに指さす。
「これと、これが間違ってる」
 シノワがハッとアレフの指し示した計算式を見直す。
「これはノリアじゃなくて、トロンの公式を使えばいい」
「あ、そうか」
 つぶやいて、シノワがもう一度計算をやり直すと、アレフはカップを置いてうなずいた。
「それで合ってる」
「ありがとうございます!」
「他の計算は全部合ってるし、五回生なら、それはまだ習ってない範囲だろう。その様子ならすぐに復学しても問題なさそうだな」
 アレフはずいぶんとシノワの事情に詳しいのだなと、シノワが少し不思議そうに見やると、アレフは咳払いをした。
「あの、ガゼルの法印、どうにかなりそうですか?」
 おそるおそるシノワがたずねると、一気にその場の空気が重さを増した。
「……まあ、何とかなるんじゃない?」
 ガゼルにしては言い方がぎこちなかったし、アレフは黙って深々とため息をついた。
「法印にも、数学と同じように公式のようなものがあるんだが、今のところ、どれにもうまく当てはまらなくてね。それが解けなければ、無作為に並べられた文字列を、一文字ずつ総当たりするようなことになってしまうんだ」
 法印に使用する文字が一体何文字あるのかわからなかったが、あの細かな文様のような文字を一文字ずつ当てはめていく作業を考えただけでも、シノワはめまいがしそうだった。法印を書く作業は、シノワが思っていたよりもずっと面倒なものだった。
「そう言えば、僕が書いてた法印はどうなったんですか?」
「ああ、それならもうベオークとアレフが書いてくれたよ。この部屋にかかった魔法を補強する法印と、その他にもいろいろとね」
 そう言ってガゼルは机の端にあった紙切れを持って、シノワに見せた。
「わあ、すごい」
 シノワは書かれた法印よりも、ガゼルがまあるい手で、紙切れのような薄い物を器用に持てるようになったことに感心した。ずいぶんとクマの体の扱いにも慣れてきたらしい。その手にある紙切れには、細かな文字や図形が規則正しく描かれていて、文様として見ても美しいが、ガゼルがこんなものをシノワに書かせようとしていたのかと思うとゾッとした。
「法印ってすごく細かくて難しいものなんですね。いつもガゼルが簡単に魔法を使うので、もっと簡単なものの気がしてました」
「私だってクマでなければ、もうちょっと簡単に解けたはずなんだよ」
「お前は真正面から法印を解かなくても、ある程度力業で何とかできるからな──」
 そう言ってからアレフは一瞬宙を見つめ、ガチャンと音を立ててカップを置くと、黙ってガゼルの体の方へ戻っていった。そしてシノワには見えない何かを読むように、目を動かすとパチンと指を鳴らした。
「わかったぞ! ありがとう、シノワ!」
 思わずシノワはクマガゼルと顔を見合わせる。
「考えてみれば、あのジュストが真正面から解くことができる法印など組むはずがない!」
 シノワにはアレフの言っていることがよくわからなかったが、とりあえず、小首をかしげているクマをそばへ連れて行ってやる。
「要は、秩序がない、デタラメだってことだ」
 アレフは興奮したように言って、床に散らばっていた紙にすごい勢いでメモを取り始めた。
「司祭の魔法は、はたから見れば法印も呪文も使わないデタラメなものに見えるが、それでも完全な秩序があるんだよ。だけど、たぶんこの法印には秩序、つまり、公式が一切使われてない。そう考えれば、一見公式に当てはまると見えてデタラメになってる作り、必要最低限の決まり事、ジュストが使いそうなクセ、ガゼルへの嫌がらせ、万が一私が手を貸しても気がつきそうにない形式、を考慮して解けばいい」
 シノワの言ったことの何がアレフのヒントになったのか、シノワにはよくわからなかったが、アレフはそれきり口をつぐみ、勢いよく紙を文字で埋めていった。それを見ながら、クマも短い腕を組んで「なるほど」とうなずいていた。
 そのままアレフは、黙々と文字で埋まった紙を生産し続け、夜も遅くなってからあわただしく戻っていった。そのアレフの残していった紙を見ながら、ガゼルは低く唸った。
「あと少しで解けそうだけど、鍵が必要になりそうだ」
「鍵?」
呪文(アンスール)の一種だけど、最後にひとつの文字を当てはめて解く形になりそうなんだ。たぶん、無作為に選んであると思うから、最初にアレフが言ってた通り、文字を総当たりするしかないかもしれない」
「魔法に使う文字っていくつあるんですか?」
 うーん、とガゼルは何かを考えるように少し上を見上げる。
「六万ぐらいはあるんじゃないかなあ」
 思わずシノワは口を開けたまま固まった。テサの文章に使う文字は五十一文字である。
「魔法に使う文字は、ひとつの名前にひとつの文字があるんだ。だから、文章は短くてすむけど、やたらと文字の種類が多くなるんだよ」
「ガゼルはそれを全部覚えてるんですか?」
 まさか、とガゼルは首をふった。
「半分ぐらいはわかると思うんだけど、さすがに全部は使わないしね。例えば、『叩く』という意味を書き表すのでさえ、横から叩くか、上から叩くか、手で叩くか、棒か何かで叩くかで、書く文字が変わるんだ。それほど使わない文字というのがそれこそ何万文字もあるのさ」
「それであんなに細かくて複雑な形になるんですね」
「そういうこと。ものすごく複雑なのに『石がごろごろたくさんある様子』という意味の文字まであったりするんだよ。石がたくさんある、って書いた方がよっぽど合理的だよ。あの文字を考え出した人たちは相当暇だったんだろうね」
 シノワは机の上にあった法印を手に取って、もう一度あらためて見る。ベオークはもう少し簡単な物から練習するのだと言っていたが、それでもこういう法印で魔法を喚ぶのであれば、法庁の正式な魔法使いになるのが難しいのもうなずけた。魔法を使うために、魔法使いがこんな法印を組まなければならないのに、何もなくても、クロワで見せた炎やアナシで見せた鳥などを作ってしまえるガゼルは、やはり格の違う存在なのだとシノワはあらためて思った。それと同時に、そんなガゼルの魂を奪おうとした学院長のすごさもあらためて感じていた。
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