第81話
文字数 3,345文字
小さな光の粒が舞い散って、まるで星の川が地上に現れたようだった。その中心にいるガゼルの、法衣 の端が少しだけかいま見える。時折、魔力の波が風のように通り過ぎていく。
これで、旅が終わる。安堵する心と、それを許さない心がせめぎ合って苦しかった。今ここで、本当のところ、何が終わって何が始まるのだろう──
不意に、ヒュッ、と耳元で風が鳴り、頬にピリと鋭い痛みが走った。
視線の先に小さなナイフが突き刺さる。
この場所には、ガゼルとシノワの他には誰もいないはずだった。
ふり返った先にいた人物を見ても、どこか現実味がなかった。
深い緑に銀の縁取りのある、ひだ使いの華やかなドレス。
「どうして、あなたがここに──?」
白んだ大地に、圧倒的な違和感をまとわせて立っていたのは、まぎれもなくラーグ家当主エイラ・ラーグだった。
「お久しぶりですね」
優雅な口ぶり。その手には美しい装飾の施された杖がにぎられていた。
シノワは反射的に腰に吊っていた剣の柄に手をかけた。ロンが肩に登ってきて、威嚇するように唸った。
切れた頬から血が滴るのを感じた。
「ここに魔法使いは入れない約束のはずです。何をするつもりですか」
彼女が何をしようとしているのか、答えを聞くまでもない気がした。
彼女の表情には明らかな敵意と憎悪が見て取れた。しかし、シノワにはその理由が全くわからない。わからなかったが、シノワは剣を抜いた。ガゼルの邪魔はさせられない。
「あなたは、魔法封じには、“司祭の決めたことなら何であれ従う”って証文をわたしたじゃないですか」
「ええ、そうですね」
「証文に反すると、命を落とすんでしょう。死ぬつもりですか?」
「いいえ」
「私は、私が味わった苦しみを、ウィルドにも味わっていただきたいと思っているのです」
シノワには、まだ彼女が何を言っているのかわからなかった。
耳元でロンが吠え、シノワはエイラの杖から放たれた魔法に剣をふるった。まばゆい光が散って、それと共に砕けた氷の粒が辺りに散らばった。続けて放たれた魔法を転がって避け、目の前に迫っていた魔法を切り裂くと、水滴が辺りにほとばしる。彼女はころころと笑った。
「意外とすばしっこいんですね」
そう言って彼女が軽く杖をふると、シノワのすぐそばに生えていた枯れ草が唐突に伸び、シノワの体に巻き付いた。シノワはもがいたが、草に剣と腕とを絡め取られてしまった。
もがきながらシノワは、その草の唐突な成長にハッとする。
「まさか、王都で襲ってきたユルの魔法使いを手助けしたのは、あなただったんですか?」
「あなたたちは、ジュスト様の邪魔ばかりするんですもの」そう言ったエイラの顔に、さっと怒りの色が差した。「あなたにわかりますか。己の生涯を捧げると誓った者を奪われる苦しみが」
「何の話ですか」
「あなたは私からジュスト様を奪った!」
美しい杖がふり抜かれ、まばゆい光が放たれた。
避けられない──
体に衝撃が走り、何かの大きな音がして、シノワが目を開くと、彼は巨大な竜に咥え上げられていた。
「ありがとう、ロン」
ロンは低く唸りながら、ガゼルを守るようにエイラとの間に立ちはだかると、尻尾で思い切りエイラをはじき飛ばした。しかし彼女は、唐突にわき上がった水流に包まれ、地面に叩きつけられることなく、ふわりと降り立った。そしてまた彼女の杖から放たれた新たな魔法を、ロンがバシリと尻尾で払い落とす。
彼女は明らかにシノワを狙っていた。
シノワがロンの口の間から、彼女を見下ろすと、貫くような視線がシノワを見上げていた。
「学院長……ジュストは、まだ極刑になるとは決まってませんよ」
それを聞くとエイラは声を上げて笑った。
「それが何だと言うの? もうあの美しいお方は失われてしまった。いっそ、極刑となって、この世から消えていただいた方が清々しいくらいです」
シノワは眉を寄せた。この人は一体何を言っているのだろうか。
「ジュスト様は全てが完璧だったのです。頭が切れる上に美しく、当主の血筋、テサ最高学府ノービルメンテの学院長。才能も地位も名誉も持ち合わせていて、一分(いちぶ)の隙もない。あの方以上に優れた人間などこの世に存在しない。彼こそがこの国を統治すべきだった。だから、私はあの方に一生を捧げぬくと決めたのですよ」
「だったら最後まで……」
エイラはいびつな笑い声を上げる。
「司祭が壊してしまったじゃありませんか。あの方の持っていたものをはぎ取ってしまった。地位も名誉も魔法使いの称号すらあの方には残っていない。牢に囚われている哀れな囚人。あれはジュスト様であったものの残骸です」
シノワには彼女の言っている意味がよくわからなかった。確かにジュスト・ユルは全ての地位を奪われ、王城に囚われてはいるが、ちゃんとこの世に存在する。重い病気にかかったわけでもない。ソウェルのように、もう二度と会えないわけではない。そんなに大切に思うなら、刑を軽くしてもらえるよう、訴えることだって可能ではないか。それなのに、この世から消えてほしいと言う。
「──僕にはあなたの言っている意味がわかりません」
そうでしょうね、とエイラは微笑んだ。
「きっとあなた方にはまだおわかりにならないでしょう。この悔しさが。この惨めさが。ですから、教えて差し上げようと思うのです。
ウィルドは、シノワ・エオロー、あなたのことをとても大切にしていたでしょう?」
ぞくりと冷たいものが背筋を這った。
「どういう壊し方がよいかしら」
ザッ、と空気がうなった。
干からびた大地に大量の水が流れ込む。ロンはその水の波を上手に泳いで、エイラを追う。そして再び尻尾ではじき飛ばそうとすると、エイラは素早く杖を振って、シノワの落とした剣を浮かび上がらせると、それを勢いよくロンに突き立てた。
ロンは大きな悲鳴を上げて地面へと落ちていった。開いた口から解き放たれたシノワも一緒に地面へと引き寄せられたが、運良くロンのふさふさしたたてがみの上に落ちた。シノワは、したたかに腹を打ち付けてうめき、どうにか起き上がったが、暴れるロンにふり落とされる。
「ロン!」
シノワは急いで剣を引き抜こうとしたが、ロンは痛みにのたうち回り、なかなか近づけない。
「ロン、お願い、じっとして!」
暴れるロンに足を取られながらも、シノワはどうにか剣の柄をつかみ取り、ロンの体を足で押さえつけて剣を引き抜いた。傷口からロンの血がほとばしる。その傷口を手で必死に押さえながら、シノワはエイラをにらみつけた。
「あなたはおかしい」
ふふっとエイラが小さく笑う。
「私はただ、共感していただきたいだけですのよ」
ロンは次第に小さく縮んでゆき、いつもの小竜の姿に戻ってしまった。ひどい痛みなのだろう。息が荒い。シノワはこらえるようにぎゅっと眉を寄せると、ロンをハンカチでくるみ、そっと上着の内ポケットへ入れた。そして、ロンの血で滑る手を服で拭い、剣の柄をにぎりしめる。その向こうに、エイラが立っている。
魔法はまだ封じられていない。
魔法が封じられれば、ガゼルは魔法が使えない。しかしエイラは魔法を使うことができる。
守らなければ。この狂った魔法使いから。
シノワは剣をかまえて、ガゼルとエイラとの間に立つ。するとエイラは小さく首をかしげた。
「もしかして、あなたも、ウィルドが大切なのでしょうか」エイラが杖をかまえる。「それなら、壊すのはそちらでも、かまいませんね。私、あの方のいなくなった世界には、もうあまり興味もございませんし」
エイラの腕が左右へふられる。それと同時に法印 が輝いて魔法が駆ける。
魔法は途中で氷の剣に変わり、日の光に反射してきらめきながらシノワへ襲いかかった。しかし、その次の瞬間、魔法はガゼルがかけた守りの魔法に弾かれて、砕け散りながらエイラへ返った。
その氷がエイラを貫くと思われた時、彼女はふと顔に笑みを浮かべ、ふたたび腕をふりぬいた。一瞬遅れて尖った氷がエイラを襲う。
きら、と銀の光が宙にきらめいた。
その刃が向かうのはシノワではなかった。その先にいるのは──
何かを考えることなどできなかった。
鋭い熱さと共に、赤い花びらが宙を舞ったように見えた。
これで、旅が終わる。安堵する心と、それを許さない心がせめぎ合って苦しかった。今ここで、本当のところ、何が終わって何が始まるのだろう──
不意に、ヒュッ、と耳元で風が鳴り、頬にピリと鋭い痛みが走った。
視線の先に小さなナイフが突き刺さる。
この場所には、ガゼルとシノワの他には誰もいないはずだった。
ふり返った先にいた人物を見ても、どこか現実味がなかった。
深い緑に銀の縁取りのある、ひだ使いの華やかなドレス。
「どうして、あなたがここに──?」
白んだ大地に、圧倒的な違和感をまとわせて立っていたのは、まぎれもなくラーグ家当主エイラ・ラーグだった。
「お久しぶりですね」
優雅な口ぶり。その手には美しい装飾の施された杖がにぎられていた。
シノワは反射的に腰に吊っていた剣の柄に手をかけた。ロンが肩に登ってきて、威嚇するように唸った。
切れた頬から血が滴るのを感じた。
「ここに魔法使いは入れない約束のはずです。何をするつもりですか」
彼女が何をしようとしているのか、答えを聞くまでもない気がした。
彼女の表情には明らかな敵意と憎悪が見て取れた。しかし、シノワにはその理由が全くわからない。わからなかったが、シノワは剣を抜いた。ガゼルの邪魔はさせられない。
「あなたは、魔法封じには、“司祭の決めたことなら何であれ従う”って証文をわたしたじゃないですか」
「ええ、そうですね」
「証文に反すると、命を落とすんでしょう。死ぬつもりですか?」
「いいえ」
「私は、私が味わった苦しみを、ウィルドにも味わっていただきたいと思っているのです」
シノワには、まだ彼女が何を言っているのかわからなかった。
耳元でロンが吠え、シノワはエイラの杖から放たれた魔法に剣をふるった。まばゆい光が散って、それと共に砕けた氷の粒が辺りに散らばった。続けて放たれた魔法を転がって避け、目の前に迫っていた魔法を切り裂くと、水滴が辺りにほとばしる。彼女はころころと笑った。
「意外とすばしっこいんですね」
そう言って彼女が軽く杖をふると、シノワのすぐそばに生えていた枯れ草が唐突に伸び、シノワの体に巻き付いた。シノワはもがいたが、草に剣と腕とを絡め取られてしまった。
もがきながらシノワは、その草の唐突な成長にハッとする。
「まさか、王都で襲ってきたユルの魔法使いを手助けしたのは、あなただったんですか?」
「あなたたちは、ジュスト様の邪魔ばかりするんですもの」そう言ったエイラの顔に、さっと怒りの色が差した。「あなたにわかりますか。己の生涯を捧げると誓った者を奪われる苦しみが」
「何の話ですか」
「あなたは私からジュスト様を奪った!」
美しい杖がふり抜かれ、まばゆい光が放たれた。
避けられない──
体に衝撃が走り、何かの大きな音がして、シノワが目を開くと、彼は巨大な竜に咥え上げられていた。
「ありがとう、ロン」
ロンは低く唸りながら、ガゼルを守るようにエイラとの間に立ちはだかると、尻尾で思い切りエイラをはじき飛ばした。しかし彼女は、唐突にわき上がった水流に包まれ、地面に叩きつけられることなく、ふわりと降り立った。そしてまた彼女の杖から放たれた新たな魔法を、ロンがバシリと尻尾で払い落とす。
彼女は明らかにシノワを狙っていた。
シノワがロンの口の間から、彼女を見下ろすと、貫くような視線がシノワを見上げていた。
「学院長……ジュストは、まだ極刑になるとは決まってませんよ」
それを聞くとエイラは声を上げて笑った。
「それが何だと言うの? もうあの美しいお方は失われてしまった。いっそ、極刑となって、この世から消えていただいた方が清々しいくらいです」
シノワは眉を寄せた。この人は一体何を言っているのだろうか。
「ジュスト様は全てが完璧だったのです。頭が切れる上に美しく、当主の血筋、テサ最高学府ノービルメンテの学院長。才能も地位も名誉も持ち合わせていて、一分(いちぶ)の隙もない。あの方以上に優れた人間などこの世に存在しない。彼こそがこの国を統治すべきだった。だから、私はあの方に一生を捧げぬくと決めたのですよ」
「だったら最後まで……」
エイラはいびつな笑い声を上げる。
「司祭が壊してしまったじゃありませんか。あの方の持っていたものをはぎ取ってしまった。地位も名誉も魔法使いの称号すらあの方には残っていない。牢に囚われている哀れな囚人。あれはジュスト様であったものの残骸です」
シノワには彼女の言っている意味がよくわからなかった。確かにジュスト・ユルは全ての地位を奪われ、王城に囚われてはいるが、ちゃんとこの世に存在する。重い病気にかかったわけでもない。ソウェルのように、もう二度と会えないわけではない。そんなに大切に思うなら、刑を軽くしてもらえるよう、訴えることだって可能ではないか。それなのに、この世から消えてほしいと言う。
「──僕にはあなたの言っている意味がわかりません」
そうでしょうね、とエイラは微笑んだ。
「きっとあなた方にはまだおわかりにならないでしょう。この悔しさが。この惨めさが。ですから、教えて差し上げようと思うのです。
ウィルドは、シノワ・エオロー、あなたのことをとても大切にしていたでしょう?」
ぞくりと冷たいものが背筋を這った。
「どういう壊し方がよいかしら」
ザッ、と空気がうなった。
干からびた大地に大量の水が流れ込む。ロンはその水の波を上手に泳いで、エイラを追う。そして再び尻尾ではじき飛ばそうとすると、エイラは素早く杖を振って、シノワの落とした剣を浮かび上がらせると、それを勢いよくロンに突き立てた。
ロンは大きな悲鳴を上げて地面へと落ちていった。開いた口から解き放たれたシノワも一緒に地面へと引き寄せられたが、運良くロンのふさふさしたたてがみの上に落ちた。シノワは、したたかに腹を打ち付けてうめき、どうにか起き上がったが、暴れるロンにふり落とされる。
「ロン!」
シノワは急いで剣を引き抜こうとしたが、ロンは痛みにのたうち回り、なかなか近づけない。
「ロン、お願い、じっとして!」
暴れるロンに足を取られながらも、シノワはどうにか剣の柄をつかみ取り、ロンの体を足で押さえつけて剣を引き抜いた。傷口からロンの血がほとばしる。その傷口を手で必死に押さえながら、シノワはエイラをにらみつけた。
「あなたはおかしい」
ふふっとエイラが小さく笑う。
「私はただ、共感していただきたいだけですのよ」
ロンは次第に小さく縮んでゆき、いつもの小竜の姿に戻ってしまった。ひどい痛みなのだろう。息が荒い。シノワはこらえるようにぎゅっと眉を寄せると、ロンをハンカチでくるみ、そっと上着の内ポケットへ入れた。そして、ロンの血で滑る手を服で拭い、剣の柄をにぎりしめる。その向こうに、エイラが立っている。
魔法はまだ封じられていない。
魔法が封じられれば、ガゼルは魔法が使えない。しかしエイラは魔法を使うことができる。
守らなければ。この狂った魔法使いから。
シノワは剣をかまえて、ガゼルとエイラとの間に立つ。するとエイラは小さく首をかしげた。
「もしかして、あなたも、ウィルドが大切なのでしょうか」エイラが杖をかまえる。「それなら、壊すのはそちらでも、かまいませんね。私、あの方のいなくなった世界には、もうあまり興味もございませんし」
エイラの腕が左右へふられる。それと同時に
魔法は途中で氷の剣に変わり、日の光に反射してきらめきながらシノワへ襲いかかった。しかし、その次の瞬間、魔法はガゼルがかけた守りの魔法に弾かれて、砕け散りながらエイラへ返った。
その氷がエイラを貫くと思われた時、彼女はふと顔に笑みを浮かべ、ふたたび腕をふりぬいた。一瞬遅れて尖った氷がエイラを襲う。
きら、と銀の光が宙にきらめいた。
その刃が向かうのはシノワではなかった。その先にいるのは──
何かを考えることなどできなかった。
鋭い熱さと共に、赤い花びらが宙を舞ったように見えた。