第56話

文字数 3,228文字

 ジーナが法庁(バーカナン)へ行っている間、シノワはガゼルの指示で法印(タウ)を書いて過ごしていた。クマの手では上手くペンが持てず、ガゼルが言葉で説明するものをくみ取って書いているので、作業はなかなか進まなかった。
「魔法使いって、いつもこんなものを作ってるんですか?」
 いいかげん嫌になってシノワがペンを投げ出す。
「子どもの頃からみっちりやるんだ。私も嫌いで、よく脱走したもんだよ」
 脱走と聞いてシノワはふっと吹き出した。シノワがかねてから思っていた通りの、悪ガキのガゼルを想像したからである。
 魔法使いの扱う複雑な法印は、もっと幾何学的な物だとシノワは思っていたのだが、ガゼルに言われて書いているものは、ほとんど絵といってもいいようなものだった。細かにうねった文様がびっしりと並んでいて、しかも、少しも位置を間違えてはいけないのだという。
「これって、何の法印なんですか?」
「まだ法印になってないよ、さあ、続けて」
 シノワがふくれると、外の方で何やらあわただしい足音が聞こえ、勢いよくドアが開かれた。
「司祭!」
 叫ぶような大声で言ったのは、シノワの知らない若い男で、シノワは思わず腰を浮かせた。
 男はシノワの方を見もしないで、ベッドに横たわっているガゼルに歩み寄る。
「あ、あの……」
 シノワが止めようと席を立つと、ガゼルが「大丈夫だ」とシノワの手をポフポフと叩いた。
「ああ、司祭……」
 男は目を閉じているガゼルとのぞき込むと、ほとんど声にならない声で言った。走ってきたのだろう、肩で息をして、髪が乱れてあちこちはねている。
「ベオーク、ベオーク、こっちだ」
 ガゼルが短い手をふると、ベオークと呼ばれた男は弾かれたようにふり返った。そして「久しぶりだね」と手を上げて見せたクマを見て、彼は真っ青になって口元を手でおおった。
「なんてこと……」
 その時、ようやくジーナがドアを開けて戻ってきた。
「えらいことになったよ、ガゼル」
「何があったんだ」
 ジーナは黙ってベオークにアゴをしゃくる。
「私に手紙が届いたかい、ベオーク」
 ベオークはコクコクと小刻みにうなずいて、ふるえる手で抱えていた鞄を探る。
「こ、こ、国王、国王陛下から、司祭に、法庁(バーカナン)への登庁命令が届きました」
「登庁命令?」
 シノワが驚いてガゼルをふり返るが、クマはいつものように微笑んでいて、表情はうかがえない。
 ベオークはようやく鞄から封筒を取り出すと、中を開いてガゼルの目の前に広げた。そこには美しい飾り文字と共に、二日後に法庁(バーカナン)へ登庁するようにという文章が綴られていた。そして。
「命令に応じない場合は、職務放棄とみなして、司祭の代理を置くと……」
「ガゼルの代理って……」
 シノワがジーナをふり返ると、彼女は肩をすくめた。
「ジュストがやるに決まってるだろ。ジュストのやつ、どうにかして国王を丸め込んだみたいだね。さて、法庁へ行くかい、司祭?」
 重苦しい沈黙が落ち、三人の「クマではな……」という視線を感じたガゼルが腰に手を当てる。
「みんなで私をそんな目で見るのはやめたまえ。そもそも、この命令書は妙だ。国王とは書かれてるが、署名がない」
 ベオークがあわてて書面をのぞき込む。
「あ、本当ですね」
「筆跡も国王のものとは違う気がするし、ユルが王家と一緒になって何か企んでるのかな。だけど、この書式は確かに王家の物だから、無視するわけにもいかないな」
「しかし、司祭……あんなに複雑な法印を問題なく解くには時間が必要です。二日でなんてとても……」
 ベオークはまだ、このクマがガゼルだという事実が受け入れられないのか、「司祭」という言葉をぎこちなく言った。
「このクマを持って行けば、この憎らしい口調でガゼルだと証明はできるだろうけどね」
「でも、このまま学院長の前に連れて行くなんて、絶対に危険ですよね」
「絶対ダメです。もし、隙を突いて魂を囚われてしまったりしたら……」
 ガゼルはやれやれという風に首をふった。
「これはまいったね。司祭になれるのは私だけだって、ユルには言っておいたんだけどねえ」
「のんきなことを言って。ジュストが司祭代理になんかなったら、何をやらかされるかわからないよ」
「あの、司祭が命令したら、当主は絶対従わないといけないんでしょうか?」
 シノワが問うと、ガゼルは、うーん、とアゴに短い手をやる。
「絶対ってわけでもないけど」
「我々のようなただの魔法使いには、ほぼ絶対ですよ」とベオーク。
「通常なら、当主五人で司祭と対等とされてる。だから、司祭の意見を覆そうと思うなら、当主五人で反対すれば司祭はもう一度再考しなければならない、という具合だね。だから、ジュストが代理をするなら、他の当主四人で対等ってことになるのかねえ」と、ジーナは眉間にしわを寄せる。「二日後には、当主も全員法庁へ顔を出すことにはなってるけど、ガゼルに何かあれば私が面倒を見ると知ってるから、ジュストは私が動けないように、何か手を打ってくるかもしれない。まあ、シノワがこれほど早く私を呼んだとは思ってないかもしれないがね」
「僕が法庁に行くのはどうでしょうか。僕が、学院長がガゼルにおかしな魔法を使ったって、みんなの前で証言するんです。そうすれば、少なくとも王様に学院長への不信感を持ってもらえるんじゃないかと思うんですが」
 ジーナがあわてて首をふる。
「何言ってるんだい。危険すぎるよ」
「私もそれには反対だよ」ガゼルもまた首をふる「またうっかり変な種をポケットに入れられないとも限らないし」
「万が一ここへ入られてしまえばおしまいですよ。それだけは絶対に避けないと」とベオークが青い顔をする。
「でも、きっと学院長はいずれここへも来ますよ。もし、行方不明のガゼルが僕と一緒にいたのを見た、行方を知らないか、と言って訪ねてこられたら、さすがに父さんも学院長を追い返すわけにはいかないと思うんですよ」
「それはその通りですね……」
 ベオークがまた青ざめながらふり返ると、とにかく、と言ってガゼルが腰に手を当てる。
「私が元に戻る以外にはどうしようもなさそうだ。今の私には法印が少しも見えないから、誰か代わりに見てくれないかい?」
「そうは言っても、私は目が悪くて、よく見えないし……」
 と言ってジーナがお前はどうだという風にベオークをふり返ると、彼はあわててぶるぶると首と両手をふった。
「法印は見えますが、僕は特に詳しいわけじゃないので、正確にお伝えできるとは思えません。それに、こんな複雑なものは司祭でも何日もかかるんじゃないでしょうか」
「困りましたね」シノワは眉間にしわを寄せて腕を組む。
「仕方ない、彼を呼ぼう。法印の専門家をね」
 そう言ってガゼルはジーナをふり返るが、ジーナは渋い声を出して唸った。
「大丈夫かねえ」
「他に適任者はいないよ」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、彼はロンに呼んできてもらうとして」とガゼルが言うと、ロンは嫌そうにヒゲを下げた。「どう考えても二日後の登庁は現実的じゃないから、ひとまずあきらめよう。ジーナは司祭代理の動きに注意しておいてくれ。何かあったらすぐに報告してほしい。そして、ベオークももう少し付き合ってほしいんだけど、何日か休暇を取れるかい?」
「三日ぐらいならなんとか」
「ああ、君んところの上司はいろいろ口うるさいんだったね。まあ、私が元に戻れたら、君の上司の上司である私が何とか言ってあげよう。じゃあ、すまないができるだけ長く休暇を取ってくれたまえ。
 あとは、しばらくはここを動けそうにないから、カデンツ領主にことの次第を説明する必要があるね。三日は待たない、とおっしゃっていたから、申し訳ないけど、シノワとジーナ、頼めるかい?」
 それを聞くと、今度はシノワが青ざめた。
「シノワ、やっぱりここで手を引くというなら、私らで何とかするよ。ひとまず、そこの扉が私の家には通じてるからね」
 ジーナの言葉に、シノワはぐっと口を引き結んで顔を上げた。
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