第65話

文字数 2,019文字

「サリー文書の、クシナの巻はあまり読んだことがありませんでした」
「クシナの部分は置いてない図書館もあるからね。読んでみるかい?」シノワがうなずくと、ガゼルはクシナの後巻の方を取り出して、適当に開いてすぐ横に置いた。「塔の学院の入学試験なんかには、サリー文書から出題されることもあるし、一度は目を通しておくのもいいかもね。めくってほしくなったら声をかけてくれ」
「ありがとうございます」

 シノワは不自由な体でどうにか本の上によじ登ると、そこには詩の項目について書かれているようだった。見たこともない文字と言葉なので、いい詩なのか悪い詩なのかさっぱりわからなかったが、細かい説明が添えられているので意味は全てくみ取ることができた。このクシナの詩は主に、自然の情景を描写したものに、書き手の心情を重ねたものが多いようだった。

「面白いですね。たった三文字のクシナの言葉が、テサの言葉に訳すと二十三文字も必要だなんて」
 ガゼルがひょいとのぞき込む。
「文字の仕組みが全く違うからね。六万文字作ってせっせと覚える方がいいか、五十一文字で毎回つらつらと長い文章を書く方がいいか」
 ガゼルはおかしそうに言って、シノワの見ているページの文字もついでに書き写す。
「む、め、めぃ。プレイオリスは、クシナの言葉ではムメィと呼ぶんですね」
「なかなか発音が難しいだろう。プレイオリスの花の詩は人気があったみたいで、たくさんあるんだよ」

 《白いプレイオリスが人知れず森の奥で咲いている、雪のようにその花びらを散らせて。吐く息が白い、冬はまだ残っているのに、花が咲いている》……(誰にも知られず寒い冬に咲くプレイオリスに、報われることなく詩を書く自分を重ねた詩)

 発音が奇妙なので本当のところはよくわからないが、クシナの言葉で読むと独特のリズムがあるらしい。それに、花の咲く様子に、自分の心情を重ねるというような書き方がテサにはないため、このやるせない詩もシノワには新鮮に思えた。

 そうしてクシナの詩を読みふけっているシノワを、文字を書き写しながらガゼルはおもしろそうに見つつ、時々ページをめくってやった。

 そうして一時間ほどが経った頃、不意にカチリと静まりかえった書庫の中に鍵の開く音が響いた。シノワがふり返ると、ガゼルは黙っているようにと唇の前に指を立て、散らばった紙を素早く折りたたんでポケットにしまった。
 コツコツと高い靴音が響き、ゆっくりと衣擦れの音が近づいてきた。

「あら、お人形遊び?」
 本棚の陰から姿を見せたのはロゼリアだった。

「本当にこんな所まで入り込むなんて思わなかったわ。でも、あいつの言う通りになったわね」
 彼女はにっこりと意地悪い笑みを浮かべ、その緑の瞳がガゼルの持っているクマを見る。ロゼリアは、右手に何か黒い物を持っていた。
「そこにいるのね、ガゼル」
「ロゼリア、やめなさい」
「噛み付いて!」
 ロゼリアが命じると、いつものように首元に襟巻きのようにして巻き付いていた黒い獣が伸び上がり、ガゼルへ飛びかかった。そして、ロゼリアは手に持った黒い何かをふり上げる。が、獣がガゼルの腕に噛み付こうとした瞬間、バチンと何かの力にはじき飛ばされ、獣はロゼリアにぶつかった。ロゼリアはバランスを崩して倒れ込みそうになる。

「ガゼル!」
「きゃっ」

 彼女は小さな悲鳴を上げたが、その次の瞬間には、ロゼリアとクマの姿がその場から消え失せていた。そして、その代わりにころりと手のひらに載るような、小さな黒い箱だけが残されていて、ガゼルはあわててそれを拾い上げる。箱のようではあったが、どこにも開け口がないことを確かめ、ガゼルはうめいて天を仰いだ。
「なんてことだ」

 ドサドサと騒がしい音がして、ふり返ると、先ほどの衝撃で縮み上がったらしい黒い獣が暴れ回り、書庫の本を落として回っているのだった。
「あれは、私にはどうしても触れないしなあ」
 貴重な本を守ってやりたかったが、ガゼルは思いとどまって大急ぎでメモの続きを書き、鞄に黒い箱をしまって扉の方へ向かう。
 表の方でバタバタと数人の足音がして、何やら言い合う声が聞こえた。黒い獣が暴れて、本の落ちる音が外にも響いているのだろう。

 ガゼルは鞄を探って一枚の法印(タウ)を取り出すと、扉に耳を当てて慎重に外の様子をうかがう。そして紙をドアノブに置いて、また小さく言葉をつぶやく。
 カチリ
 そっと扉を開いて、その場に人の姿がないことを確かめると、するりと外へ出て行った。すぐ近くにロゼリアの侍女らしき若い女が、おろおろした様子で立っていたが、幸い他のことに気を取られていて、ガゼルには気づいていないようだった。彼女はそわそわとしきりに下の階を気にしており、ちらりと見やると、下の階にはもう一人の侍女の姿があり、司書を呼びに向かっているようだった。
 ロゼリアがいなくなったことはすぐに気づかれるだろう。

 ガゼルは急いでベオークの元へ向かった。
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