第45話
文字数 2,536文字
畑の向こうの道に緑色の法衣 が見えた時、驚くほど心が静かでクロムは内心苦笑した。持っていた水桶を脇へ置くと、すぐそばに立てかけてあった杖を手に取り、彼の方へ向かって歩き出す。
「まいったな、まだカノは来てないみたいだね」ガゼルはそう言って手を挙げた。「シノワは元気にしてるかな」
「昨日は失礼いたしました」
クロムは深々と腰を折り、頭を上げるとともに杖をかまえた。するとガゼルが少しあわてて手をひらひらさせる。
「待て待て。私はシノワと竜 を一匹引き取りに来ただけだ」
「同じことです。俺はまだ彼に答えを聞いていませんから、まだあなたに引き渡すつもりはありません」
ガゼルは短く息をつく。
「君の噂は聞いてるよ。カノの一人息子が、死んだ恋人を魔法で無理矢理この世に引き留めてるって」
「ソウェルは生きています」
クロムの目が鋭さを増し、彼の周りにある空気がチリチリと鳴り始める。
「どんなに複雑な法印 を組んだとしても、【星】は命をあつかうことを許さない。不自然な魔法は、ひどい苦しみをもたらす。こんなことが長く続くはずがない。それは君もわかってるはずだ」
「彼女はまだ死んでなんかない! 俺は彼女を死なせたくない。それだけだ。それの何がいけない」
「彼女は、いつ壊れるかわからない法印 に怯えながらでも生きたいと言ったのかい?」
「知った風なことを!」
叫ぶように言って、クロムは杖をふり上げた。そこからほとばしった炎に、ガゼルは眉をひそめる。昨日の比ではない。紅蓮の炎は辺りを真っ赤に染め上げ、そばに生えていた木や、先ほど彼が植えただろう野菜の苗をも焼き尽くした。
ラグズ
ガゼルの口から呪文 がこぼれ、どぷり、と音がしたと思ったときには、炎は水に食われて消えていた。しかし、クロムは怯むことなく地面に手をつく。
オシラ
と、そこから何万という虫がわき出て、ガゼルの喚んだ水を食らう。
ガゼルが杖の先で土を叩くと、それに答えるように巨大な植物が伸び、茂った葉が虫たちを飲み込んだ。
「クロム。君の父上も君のことを心配しておられたよ」
「そんな話聞きたくありません」
「昨日の三人も君の友人なんだろう? 君のわがままにどれだけの人を巻き込むつもりなんだ」
ティワズ・ザイン
クロムは杖を剣に変え、ガゼルに向かって駆けた。
「育ての親が目の前で死んでいくのを、黙って見ていたあなたには一生わからない」
ガツ、とクロムの剣がガゼルの杖に食らいつく。ただの物干し棒であるはずなのに、切れるでも折れるでもなく刃先を受け止めていた。
「まあ、確かにわからないかもしれない。私は君のように、自分の感情に真っ直ぐには生きられないからね」
そう言ってガゼルが唇を笑みの形にした時、すさまじい力に弾かれてクロムは真っ黒に焼けこげた木の幹にたたきつけられた。背中を強く打ちつけて一瞬息が止まる。目の前に黒い霞がよぎり、クロムは首を打ちふった。
勝ち目があるとは思っていないが、まだ引くわけにはいかない。せめてあの少年が魔法封じをやめると決めるまでは。
ソウェルは今まで出会った人間の中で、最も美しい人だ。あんなに賢くて優しい人間を他に見たことがないし、彼女を悪く言う人間に出会ったことなどない。だからあの少年も、ソウェルと話してみれば、彼女がどれだけ素晴らしい人か、すぐにわかるはずだ。そうすればきっと、彼女を助けたいと思うに違いない。だから、もう少し。もう少しだけ時間をかせがなければ。親も兄弟もいないソウェルを守ってやれるのは、自分だけなのだ。
祈るように彼女の名をつぶやいて、立ち上がろうと体を起こしたところで、不意に体の奥底からわき上がるような衝撃が走った。何がとも、どうしてとも、説明できない、強烈は不安だった。クロムはもうガゼルのことなど見えていないかのように突然かき消えた。
馬小屋に連なった物置小屋の前に来ると、そこにソウェルの姿を見つけてクロムは夢中で駆けより、何よりもまず彼女を抱きしめた。
「ソウェル、よかった」
先ほどの言いしれぬ不吉な予感がはずれたことに、クロムは心の底からほっと息をついた。しかし、そこですぐ脇に少年がたたずんでいるのに気付き、クロムは目を丸くする。
「ソウェル、鍵を開けたのか?」
「もういいの、クロム。充分よ」
「じゃあ、魔法封じをやめると?」
クロムがふり返るとシノワはハッとしたように顔を上げ、首をふった。それにクロムの表情が険しくなる。
「ソウェル、これはどういう……」
体を離そうとしたクロムに首をふって、ソウェルはクロムの背中に回した手に力をこめた。
「シノワを傷つけてはダメよ。彼は私たちを助けてくれたのよ。それと、お父様とちゃんと話してね。当主は立派な方よ。きっとあなたをわかってくださるわ」
「何を言ってるんだ、ソウェル」
「ありがとう、クロム。大好きよ。ずっと一緒にいましょうね」
ソウェルがそう言い終えたとき、パリン、と何かが割れる音がして、法印 が壊れたときに見られる光がほとばしった。その瞬間、抱きしめている体がずしりと重みを増す。
「ソウェル」
答える声は聞こえない。そして、ずるずると彼女はクロムの腕からずり落ちてゆく。それを必死に抱え上げながら、クロムは何度も彼女の名を呼んだ。しかしそれに彼女は答えなかった。
「どうして、ソウェル、どうして、何でだ、ソウェル」
「ソウェルさんは、あなたのことが本当に大切だったんです」
クロムの見開かれた目が、シノワを捕らえた。
「お前がやったのか? お前が法印 のつなぎ目を教えた?」
「はい」クロムの血走った目に、後ずさりそうになるのを必死にこらえながら、シノワはクロムを見返した。「ソウェルさんはもうこんなことをやめてほしかったのに、どうして聞いてあげなかったんですか」
「黙れ」
その静かな声とともに、彼の背後に炎が揺らめき、それが数百の矢のようになってシノワへ向かって駆けた。シノワはぐっと歯をかみしめると、それを待ちかまえた。その炎がシノワを貫こうとした時、炎とは別の魔法の光がほとばしり、それをまるで鏡が光をはね返すように弾いた。そして炎は主の元へと駆ける。
「クロムさん!!」
シノワが叫んだときには、炎はクロムに襲いかかっていた。
「まいったな、まだカノは来てないみたいだね」ガゼルはそう言って手を挙げた。「シノワは元気にしてるかな」
「昨日は失礼いたしました」
クロムは深々と腰を折り、頭を上げるとともに杖をかまえた。するとガゼルが少しあわてて手をひらひらさせる。
「待て待て。私はシノワと
「同じことです。俺はまだ彼に答えを聞いていませんから、まだあなたに引き渡すつもりはありません」
ガゼルは短く息をつく。
「君の噂は聞いてるよ。カノの一人息子が、死んだ恋人を魔法で無理矢理この世に引き留めてるって」
「ソウェルは生きています」
クロムの目が鋭さを増し、彼の周りにある空気がチリチリと鳴り始める。
「どんなに複雑な
「彼女はまだ死んでなんかない! 俺は彼女を死なせたくない。それだけだ。それの何がいけない」
「彼女は、いつ壊れるかわからない
「知った風なことを!」
叫ぶように言って、クロムは杖をふり上げた。そこからほとばしった炎に、ガゼルは眉をひそめる。昨日の比ではない。紅蓮の炎は辺りを真っ赤に染め上げ、そばに生えていた木や、先ほど彼が植えただろう野菜の苗をも焼き尽くした。
ラグズ
ガゼルの口から
オシラ
と、そこから何万という虫がわき出て、ガゼルの喚んだ水を食らう。
ガゼルが杖の先で土を叩くと、それに答えるように巨大な植物が伸び、茂った葉が虫たちを飲み込んだ。
「クロム。君の父上も君のことを心配しておられたよ」
「そんな話聞きたくありません」
「昨日の三人も君の友人なんだろう? 君のわがままにどれだけの人を巻き込むつもりなんだ」
ティワズ・ザイン
クロムは杖を剣に変え、ガゼルに向かって駆けた。
「育ての親が目の前で死んでいくのを、黙って見ていたあなたには一生わからない」
ガツ、とクロムの剣がガゼルの杖に食らいつく。ただの物干し棒であるはずなのに、切れるでも折れるでもなく刃先を受け止めていた。
「まあ、確かにわからないかもしれない。私は君のように、自分の感情に真っ直ぐには生きられないからね」
そう言ってガゼルが唇を笑みの形にした時、すさまじい力に弾かれてクロムは真っ黒に焼けこげた木の幹にたたきつけられた。背中を強く打ちつけて一瞬息が止まる。目の前に黒い霞がよぎり、クロムは首を打ちふった。
勝ち目があるとは思っていないが、まだ引くわけにはいかない。せめてあの少年が魔法封じをやめると決めるまでは。
ソウェルは今まで出会った人間の中で、最も美しい人だ。あんなに賢くて優しい人間を他に見たことがないし、彼女を悪く言う人間に出会ったことなどない。だからあの少年も、ソウェルと話してみれば、彼女がどれだけ素晴らしい人か、すぐにわかるはずだ。そうすればきっと、彼女を助けたいと思うに違いない。だから、もう少し。もう少しだけ時間をかせがなければ。親も兄弟もいないソウェルを守ってやれるのは、自分だけなのだ。
祈るように彼女の名をつぶやいて、立ち上がろうと体を起こしたところで、不意に体の奥底からわき上がるような衝撃が走った。何がとも、どうしてとも、説明できない、強烈は不安だった。クロムはもうガゼルのことなど見えていないかのように突然かき消えた。
馬小屋に連なった物置小屋の前に来ると、そこにソウェルの姿を見つけてクロムは夢中で駆けより、何よりもまず彼女を抱きしめた。
「ソウェル、よかった」
先ほどの言いしれぬ不吉な予感がはずれたことに、クロムは心の底からほっと息をついた。しかし、そこですぐ脇に少年がたたずんでいるのに気付き、クロムは目を丸くする。
「ソウェル、鍵を開けたのか?」
「もういいの、クロム。充分よ」
「じゃあ、魔法封じをやめると?」
クロムがふり返るとシノワはハッとしたように顔を上げ、首をふった。それにクロムの表情が険しくなる。
「ソウェル、これはどういう……」
体を離そうとしたクロムに首をふって、ソウェルはクロムの背中に回した手に力をこめた。
「シノワを傷つけてはダメよ。彼は私たちを助けてくれたのよ。それと、お父様とちゃんと話してね。当主は立派な方よ。きっとあなたをわかってくださるわ」
「何を言ってるんだ、ソウェル」
「ありがとう、クロム。大好きよ。ずっと一緒にいましょうね」
ソウェルがそう言い終えたとき、パリン、と何かが割れる音がして、
「ソウェル」
答える声は聞こえない。そして、ずるずると彼女はクロムの腕からずり落ちてゆく。それを必死に抱え上げながら、クロムは何度も彼女の名を呼んだ。しかしそれに彼女は答えなかった。
「どうして、ソウェル、どうして、何でだ、ソウェル」
「ソウェルさんは、あなたのことが本当に大切だったんです」
クロムの見開かれた目が、シノワを捕らえた。
「お前がやったのか? お前が
「はい」クロムの血走った目に、後ずさりそうになるのを必死にこらえながら、シノワはクロムを見返した。「ソウェルさんはもうこんなことをやめてほしかったのに、どうして聞いてあげなかったんですか」
「黙れ」
その静かな声とともに、彼の背後に炎が揺らめき、それが数百の矢のようになってシノワへ向かって駆けた。シノワはぐっと歯をかみしめると、それを待ちかまえた。その炎がシノワを貫こうとした時、炎とは別の魔法の光がほとばしり、それをまるで鏡が光をはね返すように弾いた。そして炎は主の元へと駆ける。
「クロムさん!!」
シノワが叫んだときには、炎はクロムに襲いかかっていた。