第9話
文字数 3,620文字
シノワが通されたのは、天井が三角にとがった、屋根裏のような部屋だった。中にはシンプルなベッドがひとつと、小窓のきわに古びたテーブルと椅子があるだけだった。
その古いテーブルを見て、猫がまたきらきらと目を輝かせ始めたので、シノワは彼が何か言う前に「それは宿の備品ですからね」と釘を刺した。
「あの、毎度のことなんですけど、何かするならちゃんと説明してからにしてくれませんか」
ベッドの上で、かりかりと耳のうしろをかいていたガゼルは、ふとその足を止めてシノワへガラス玉のような目を向ける。
「どうして?」
猫のくせにガゼルはひょいと首をかしげる。その悪びれもしない様子にシノワは脱力した。
「いちいちびっくりするじゃないですか」
ふうん、と生返事をしてガゼル猫はあくびをする。
「聞いてますか?」
「わかったわかった。気をつけるよ。でも、宿泊料金が一人分ですんでよかっただろう? 昔はどこへ行っても司祭は金なんて必要なかったんだけど、今はそういうわけにもいかないだろうからな」
やはり宿泊料金をガゼルが支払うつもりはないらしい。
シノワは一応父親から旅費をいくらかもらってきたのだが、それでも何ヶ月も泊まり歩けるほどの金額ではない。いざとなれば、領主館へ行ってカデンツ領主カイル・エオローの息子であることを証明すれば、少なくとも泊めてはもらえるだろうが、できるだけその手は使いたくない。
そもそも魔法使いの当主は、それぞれの本拠地の領主でもあったが、魔法使いは特別な一族だったため、シノワの父のような一般の領主とは特に深いつながりがあるわけではない。ガゼルが言うには、魔法使いの本拠地ばかりを巡る旅になるという話だから、この手はあまり使えそうにない。
あの時、ガゼルははっきりとどれぐらいの旅になるとは言わなかったのだが、本当のところ、ガゼルがどれくらいの期間を想定しているのか、シノワは恐ろしくて聞けなかった。飛び級試験の話が出たということは、それなりの期間旅を続けるつもりなのだろう。五人の魔法使いの本拠地は全国に散らばっていて、徒歩で全て回るのだとすると、どれぐらいの時間がかかるものなのか、シノワには見当も付かなかった。いつだったか、魔法で走る馬車で全国を回る旅行が、四ヶ月の行程だと聞いた気がしていた。
そんなシノワの不安をよそに、ガゼルは本当に猫らしく毛づくろいをしている。
「あの、いつまで猫になっているんですか?」
「この部屋に二人は息苦しいだろう。ここを出るまではこのままでいるよ。爪研ぎはしないから、安心して君も休め」
そう言ってガゼルはもう一度あくびをすると、丸くなって目を閉じた。シノワは疲れたようにため息をついて、その隣へそっと座った。
それからシノワは、やはり魔法用の器具のそろっていなかった宿の調理場で、食べるものを用意し、食堂でそれを平らげた。食事の提供されない宿なんて、以前のシノワなら途方に暮れていたかもしれないが、この旅に出てからガゼルに野宿と野外調理を強要されてきたため、特に戸惑うこともなかった。竈 がある分、いつもの焚き火より料理がしやすかった。
食事が終わると、全て手動の浴室で、溜まった汚れを洗い流した。
そうして部屋に戻る頃には、ずっしりと体が疲れて、まぶたが下に引っぱられているような気がした。シノワがベッドに寝ころぶと、ガゼルはやはり猫のまま、その横にやってきて丸くなった。
ややあって、シノワの行儀のいい寝息が聞こえ始めると、黒猫はむくりと起き上がり、思い切り伸びをしてベッドから飛び降りた。そして立ち上がったかと思うと、それがぐんぐん伸びてガゼルの姿を取り戻す。と、天井に頭をぶつけてガゼルは小さく苦笑した。小さいとは言わないまでも、ガゼルはそう背が高い方ではない。ガゼルより少し背の低いシノワでもぎりぎりだろうと思って、気持ちよさそうに眠っているシノワに目を落とす。
少し幼さの残る顔は、日に焼けて少し赤くなっていた。
始めに見た時は行儀良く整えられていた明るい栗色の髪も、乱れて少しぱさついている。その寝顔を少しの間眺めていたが、ガゼルは小さく息をついて、窓辺のテーブルに腰かけた。
窓から外をのぞくと、天には二つの月が昇っていた。ガゼルが、ろうそくの火を吹き消すようにフッと短く息を吐くと、パリンとガラスが割れるような音がして、左側にあった月が割れる。その破片が本物の月の光に照らされて、夜空を星のようにきらきらと舞った。
それを物憂 げに眺め、ガゼルは立てた膝にひたいを乗せた。
どうも、ザインという商人が法印 の詰まった【アクロ】と呼ばれるおもちゃのボールを売っているらしいと、どこから聞いてきたのかガゼルが言った。
それは始め、プレゼント用に作られたもので、表面に書かれた呪文 をなでると、花やぬいぐるみが飛び出すような物だったらしいのだが、少しずつその中身が過激化してきたらしいのだ。
最近では昨日見たタコやワニ、ヘビ、ムカデ、時にはナイフのような危険な物が飛び出す物まであるらしい。
「くだらないことを考えるものだな」
ガゼルはそう言って、その辺の若者と同じように、歩きながらパンをほおばった。猫になっていたため、朝食を食べそびれたのである。その様子に少し眉をひそめながら、シノワはガゼルの隣を歩く。今日は宿に荷物を預けてあるので体が軽い。
「でもあのタコ、護身用にはなっていたじゃないですか」
「害の方が多いと思うけど」
そんなに危ないだろうかと思いつつも、シノワは昨日ポケットにワニボールを入れられたことを思い出して身震いした。
「シノワ、魔法解禁の時に法庁 が出した、甘っちょろい規定を知ってるか?」
出し抜けに問われて、シノワは瞳を空へ向ける。
「命と時の魔法を使うこと、知ること、研究することの禁止。五つのエレメントを操る魔法は魔法使い以外使用禁止。生き物を変質させたり、種族を越えて混ぜ合わることは禁止。法印 の売買の禁止。十歳以下の子どもは使用禁止……」
指折り数えながらそこまで言ってシノワは、あ、とガゼルをふり返る。
「法印 は大きく分けて、円形、方形、多角形の三種。円形は各エレメントを、方形は動力を、多角形は色彩や形などを意味している。つまり、一般人は方形か多角形の法印 しか使用できないことになる。
しかし、あのおもちゃに仕込まれた法印 は円に方形と呪文 を組み合わせてあった。そして、それを子どもから大人まで分け隔てなく売ってる。
まあ、ちょっと見ただけでも、ボンっていう破裂音は、確実に炎のエレメントによるものだろうし、そもそもあのタコだって、あのサイズからして原種とは言い難い。つまり、ほぼ全てが規定違反だ」
ここまで指摘しておきながら、法庁 へ報告するのかとシノワが聞くと、ガゼルは首をふってパンの残りをほおばった。
「どうしてですか? 違反ですよ?」
「どうしてって、君は私たちの目的を忘れたのか?」
確かに魔法を封じてしまえば、どんな規定に違反していようと関係ない。
「でも、だからって違反を野放しにしておくなんて」
シノワの非難めいた口調に、ガゼルは困ったように笑った。
「全てを正そうと思うなら、魔法を封じるしかないさ。こんな規定違反をいちいち全部洗い出してたら、君はおじいちゃんになってしまうよ」
言いながらガゼルは口の周りのパンくずを払い、目の前の豪邸の入り口へシノワを押しやる。
全ての壁を大理石でおおい、そこかしこに流れるようなデザインの彫刻がほどこされている、豪華な扉にシノワは圧倒された。
「何ですか、ここ」
「水の魔法使いラーグ家当主の家だ」
「は? ラーグ家の邸宅なんですか?」
思わずもう一度、目の前にそびえる邸宅を見上げたシノワの背を、ガゼルがぐいと押しやると、シノワはあわててガゼルを押し戻す。
「まずいですよ、何の連絡もなしに押しかけちゃ」
「大丈夫だ。早く行け」
「だって、ラーグ家当主のご自宅なんでしょう? まずいですって!」
「何を言ってるんだ。私は司祭だぞ。多少のことは大目にみてくれるさ」
そう言われてシノワがハッとした顔をすると、ガゼルはぐっと眉をよせた。
「なんだよその顔は。君、まだ私をイカサマ魔法使いか何かだと思ってるんだな」
「あ、いえ、その、だって……」
「だって何だよ」
ガゼルがたじろいでいるシノワに、ずいっと詰め寄ったところで、扉が重々しくきしんで開いた。
「どうぞ、お入りくださいませ、司祭様」
深い緑のドレスをまとった女性が姿を見せ、にこりと微笑んで彼らを屋敷の中へと招いた。ガゼルはそれ見たことかとシノワを見やり、彼女に軽く会釈をすると屋敷に足を踏み入れた。その女性の目がちらりとガゼルの物干し棒を見やったのに気付いて、シノワはじわりと冷や汗をにじませた。
その様子を、小道の影から静かにうかがっている者がいたことに、シノワは少しも気付かなかった。
その古いテーブルを見て、猫がまたきらきらと目を輝かせ始めたので、シノワは彼が何か言う前に「それは宿の備品ですからね」と釘を刺した。
「あの、毎度のことなんですけど、何かするならちゃんと説明してからにしてくれませんか」
ベッドの上で、かりかりと耳のうしろをかいていたガゼルは、ふとその足を止めてシノワへガラス玉のような目を向ける。
「どうして?」
猫のくせにガゼルはひょいと首をかしげる。その悪びれもしない様子にシノワは脱力した。
「いちいちびっくりするじゃないですか」
ふうん、と生返事をしてガゼル猫はあくびをする。
「聞いてますか?」
「わかったわかった。気をつけるよ。でも、宿泊料金が一人分ですんでよかっただろう? 昔はどこへ行っても司祭は金なんて必要なかったんだけど、今はそういうわけにもいかないだろうからな」
やはり宿泊料金をガゼルが支払うつもりはないらしい。
シノワは一応父親から旅費をいくらかもらってきたのだが、それでも何ヶ月も泊まり歩けるほどの金額ではない。いざとなれば、領主館へ行ってカデンツ領主カイル・エオローの息子であることを証明すれば、少なくとも泊めてはもらえるだろうが、できるだけその手は使いたくない。
そもそも魔法使いの当主は、それぞれの本拠地の領主でもあったが、魔法使いは特別な一族だったため、シノワの父のような一般の領主とは特に深いつながりがあるわけではない。ガゼルが言うには、魔法使いの本拠地ばかりを巡る旅になるという話だから、この手はあまり使えそうにない。
あの時、ガゼルははっきりとどれぐらいの旅になるとは言わなかったのだが、本当のところ、ガゼルがどれくらいの期間を想定しているのか、シノワは恐ろしくて聞けなかった。飛び級試験の話が出たということは、それなりの期間旅を続けるつもりなのだろう。五人の魔法使いの本拠地は全国に散らばっていて、徒歩で全て回るのだとすると、どれぐらいの時間がかかるものなのか、シノワには見当も付かなかった。いつだったか、魔法で走る馬車で全国を回る旅行が、四ヶ月の行程だと聞いた気がしていた。
そんなシノワの不安をよそに、ガゼルは本当に猫らしく毛づくろいをしている。
「あの、いつまで猫になっているんですか?」
「この部屋に二人は息苦しいだろう。ここを出るまではこのままでいるよ。爪研ぎはしないから、安心して君も休め」
そう言ってガゼルはもう一度あくびをすると、丸くなって目を閉じた。シノワは疲れたようにため息をついて、その隣へそっと座った。
それからシノワは、やはり魔法用の器具のそろっていなかった宿の調理場で、食べるものを用意し、食堂でそれを平らげた。食事の提供されない宿なんて、以前のシノワなら途方に暮れていたかもしれないが、この旅に出てからガゼルに野宿と野外調理を強要されてきたため、特に戸惑うこともなかった。
食事が終わると、全て手動の浴室で、溜まった汚れを洗い流した。
そうして部屋に戻る頃には、ずっしりと体が疲れて、まぶたが下に引っぱられているような気がした。シノワがベッドに寝ころぶと、ガゼルはやはり猫のまま、その横にやってきて丸くなった。
ややあって、シノワの行儀のいい寝息が聞こえ始めると、黒猫はむくりと起き上がり、思い切り伸びをしてベッドから飛び降りた。そして立ち上がったかと思うと、それがぐんぐん伸びてガゼルの姿を取り戻す。と、天井に頭をぶつけてガゼルは小さく苦笑した。小さいとは言わないまでも、ガゼルはそう背が高い方ではない。ガゼルより少し背の低いシノワでもぎりぎりだろうと思って、気持ちよさそうに眠っているシノワに目を落とす。
少し幼さの残る顔は、日に焼けて少し赤くなっていた。
始めに見た時は行儀良く整えられていた明るい栗色の髪も、乱れて少しぱさついている。その寝顔を少しの間眺めていたが、ガゼルは小さく息をついて、窓辺のテーブルに腰かけた。
窓から外をのぞくと、天には二つの月が昇っていた。ガゼルが、ろうそくの火を吹き消すようにフッと短く息を吐くと、パリンとガラスが割れるような音がして、左側にあった月が割れる。その破片が本物の月の光に照らされて、夜空を星のようにきらきらと舞った。
それを
どうも、ザインという商人が
それは始め、プレゼント用に作られたもので、表面に書かれた
最近では昨日見たタコやワニ、ヘビ、ムカデ、時にはナイフのような危険な物が飛び出す物まであるらしい。
「くだらないことを考えるものだな」
ガゼルはそう言って、その辺の若者と同じように、歩きながらパンをほおばった。猫になっていたため、朝食を食べそびれたのである。その様子に少し眉をひそめながら、シノワはガゼルの隣を歩く。今日は宿に荷物を預けてあるので体が軽い。
「でもあのタコ、護身用にはなっていたじゃないですか」
「害の方が多いと思うけど」
そんなに危ないだろうかと思いつつも、シノワは昨日ポケットにワニボールを入れられたことを思い出して身震いした。
「シノワ、魔法解禁の時に
出し抜けに問われて、シノワは瞳を空へ向ける。
「命と時の魔法を使うこと、知ること、研究することの禁止。五つのエレメントを操る魔法は魔法使い以外使用禁止。生き物を変質させたり、種族を越えて混ぜ合わることは禁止。
指折り数えながらそこまで言ってシノワは、あ、とガゼルをふり返る。
「
しかし、あのおもちゃに仕込まれた
まあ、ちょっと見ただけでも、ボンっていう破裂音は、確実に炎のエレメントによるものだろうし、そもそもあのタコだって、あのサイズからして原種とは言い難い。つまり、ほぼ全てが規定違反だ」
ここまで指摘しておきながら、
「どうしてですか? 違反ですよ?」
「どうしてって、君は私たちの目的を忘れたのか?」
確かに魔法を封じてしまえば、どんな規定に違反していようと関係ない。
「でも、だからって違反を野放しにしておくなんて」
シノワの非難めいた口調に、ガゼルは困ったように笑った。
「全てを正そうと思うなら、魔法を封じるしかないさ。こんな規定違反をいちいち全部洗い出してたら、君はおじいちゃんになってしまうよ」
言いながらガゼルは口の周りのパンくずを払い、目の前の豪邸の入り口へシノワを押しやる。
全ての壁を大理石でおおい、そこかしこに流れるようなデザインの彫刻がほどこされている、豪華な扉にシノワは圧倒された。
「何ですか、ここ」
「水の魔法使いラーグ家当主の家だ」
「は? ラーグ家の邸宅なんですか?」
思わずもう一度、目の前にそびえる邸宅を見上げたシノワの背を、ガゼルがぐいと押しやると、シノワはあわててガゼルを押し戻す。
「まずいですよ、何の連絡もなしに押しかけちゃ」
「大丈夫だ。早く行け」
「だって、ラーグ家当主のご自宅なんでしょう? まずいですって!」
「何を言ってるんだ。私は司祭だぞ。多少のことは大目にみてくれるさ」
そう言われてシノワがハッとした顔をすると、ガゼルはぐっと眉をよせた。
「なんだよその顔は。君、まだ私をイカサマ魔法使いか何かだと思ってるんだな」
「あ、いえ、その、だって……」
「だって何だよ」
ガゼルがたじろいでいるシノワに、ずいっと詰め寄ったところで、扉が重々しくきしんで開いた。
「どうぞ、お入りくださいませ、司祭様」
深い緑のドレスをまとった女性が姿を見せ、にこりと微笑んで彼らを屋敷の中へと招いた。ガゼルはそれ見たことかとシノワを見やり、彼女に軽く会釈をすると屋敷に足を踏み入れた。その女性の目がちらりとガゼルの物干し棒を見やったのに気付いて、シノワはじわりと冷や汗をにじませた。
その様子を、小道の影から静かにうかがっている者がいたことに、シノワは少しも気付かなかった。