第20話
文字数 3,330文字
襲ってくるだろう痛みにシノワが身構えた時、ひらりと、薄緑の法衣 が目の前にはためいた。
ガツッ
鈍い音がしたが、フィンの木剣が打ったのはシノワではなく、ガゼルの手のひらだった。
「そんなに力一杯ふり下ろしたら、シノワが死んでしまうよ」
フィンはまだ力を込め続けていたが、木剣の刃先はガゼルの手につかまれてびくともしなかった。
は、は、とフィンには自分の吐く息の音だけが、やたらと大きく響くような気がした。
「もう終わりでいいね?」
フィンはぎゅっと目を閉じて、ふるえる腕の力を抜き、木剣を納めた。
「何考えてんだ!!」
レジンの怒声に、フィンはびくりと体を強ばらせる。
しかし大股に歩み寄ってきたレジンは、ガゼルの胸ぐらをつかんだ。
「誓約 に割り込むなんて、前代未聞だ!」
「悪かったよ」とガゼルは苦笑する。「だけど、いくらテュールの伝統だからって、私はシノワの命をくれてやるつもりはない」
「フィンがそこまでやるはずないだろ!」
そう言ってレジンがフィンを見やると、彼はびくりと肩をふるわせて、少し怯えたような目でレジンを見上げた。
「レジンさん……! ガゼルを、放してください……」シノワがしぼり出すように言って、痛む腹を押さえながら起き上がる。「僕の負けです。もう、終わったんです。終わってたんです」
声を出すと打たれた腹に響き、シノワはぎゅっと顔をしかめて、うめき声をかみ殺す。
「シノワ、大丈夫かい?」
大丈夫だと答えたかったが、息を吸うだけで腹と脇腹の痛みが全身に刺さるようで、シノワは小さくうなずくので精一杯だった。肋 を一本ぐらい、やってしまったかもしれない。
レジンがガゼルの襟を放すと、ガゼルはシノワのそばにしゃがんで具合を確かめる。この前代未聞の出来事に、固唾 を呑 んで見守っていた観客たちがざわめき始めた。
「審判 、コールを」
シノワの具合をみながらガゼルが言った。レジンは苛立った目をガゼルに向けたが、声を張り上げる。
「この勝負は、ウィルドの乱入により、無効!」
レジンの声が響くと、辺りが一斉に落胆したようにざわめき、不満げな野次も飛び始める。
ガゼルはやれやれと首をふり、立てそうにないシノワを抱え上げた。
「こんな勝負は認められねえよ」
「まあ、それでもいいけど」とガゼルはレジンを見やる。「二人とも本気なんだよ、テュール」
苦々しい顔をしたレジンに背を向けてガゼルが歩き出すと、不機嫌な声が追ってくる。
「ウィルド、あんたはどうなんだ」
ガゼルはひょいと眉を持ち上げ、「さあ」と、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「ああもう!」
レジンはいまいましそうにガリガリと頭をかいた。
運んでくれるのはありがたかったが、ガゼルの肩が打たれた腹に食い込んで、シノワはガゼルが一足歩くたびにうめき声を上げた。
「すみません、ガゼル」うめく合間にシノワがしぼり出すような声で言う。「勝つ、つもり、だったんですけど」
「何言ってるんだ。充分だよ」そう言ってガゼルはふと苦笑する。「君は意外と男の子なんだな」
「バカにしないでください」
ガゼルが笑って肩が揺れ、シノワは悲鳴に近いうめき声を上げた。
それから二日ほど、シノワは一人ではベッドから起き上がれないような状態が続いた。
幸い骨が折れた様子はなかったが、これまでの旅の疲れもあってか、熱を出して寝込んでしまったのだった。その間、打ち身から来る痛みで深く眠ることができずに、妙な夢ばかり見た。しかし、その夢の合間に目を開くと、たいていガゼルがそこにいて、夢と現実とをはっきり区切ってくれていた。
「まだ少し熱があるな」
ガゼルがシノワの額に載せていた手を上げると、シノワは深々とため息をついた。
頑張ったものの、せっかく挑んだ誓約 は無効になってしまい、振り出しに戻ってしまった。いや、怪我をした分、マイナスだ。
「誓約 に割り込んで申し訳なかったね」
ガゼルがそう言って苦笑したので、シノワはあわてて首をふった。
「僕こそ、すみません。ガゼルが止めてくれなかったら、もっと痛いことになってました……」
ガゼルは小さく息をつく。
「君、あの子が魔法を使ったの、気づいていたんじゃないのかい?」
シノワはハッとガゼルの方を見たが、何とも言えない顔をして天井を見上げた。
「やっぱり、魔法だったんですね……」
もう少しで追い詰められそうになった時、不自然な風が吹き、目に小さな砂粒が入ったのは確かだった。しかし、テュールの少年が、誓約 の最中にそんなことをするとは信じたくなかった。
「見落としたテュールもテュールだけど、どうしてすぐに言わなかったんだい? せめてコールの前に言っていれば、君の勝ちになったかもしれなかったのに」
「ガゼルだって気づいてたんでしょう?」
「君が言ってほしくなさそうだったからね」
シノワはちらりとガゼルの方を見やる。シノワが口を開くのを待っているガゼルと目が合うと、シノワは深々とため息をついた。
「ただの判断ミスです。気づいてすぐに訴えなかった。だから、僕の負けでいいんです」でも、とシノワはまたため息をつく。「また会議を再開催してもらう方法を考えなくちゃいけませんね」
誓約 の負けは負け。しかし誓約 は手段であって目的ではない。まだシノワはあきらめるつもりはなかった。
それを聞くとガゼルはふっと吹き出した。
「潔いのか、往生際が悪いのか、どっちなんだよ。君はおもしろいね」
笑われて、本当にその通りだなとシノワも自分でおかしくなる。
「あの時、負けるのって嫌だよなって、思ってしまったんですよ」
ガゼルはひょいと眉を持ち上げる。
「フィンは僕より格上でした。テュールの子だし、絶対僕に負けたくないだろうなと思ったんです。僕は試合で一度も兄に勝ったことがなくて、いつも、本当に悔しくて。小さい頃には試合の後によく泣きました。それを思い出してしまったんですよね」
「だからって反則を許すなんて、君はお人好しがすぎるね。本当にあれが当たってたら危なかったんだよ」
「わかってますよ。よくみんなに抜けてるって言われるんです。それに僕だって腹が立ってるんですよ。でも、そんなことに気を取られて隙を突かれたあげくに、ガゼルに助けてもらうハメになったのは僕のミスだから、負けは負けです」
ガゼルはまだ何か言いたげだったが、苦笑してため息をひとつついただけだった。
「ひとまず君は、その怪我を治さないといけないね。あんまりひどいようだと、魔法で治してやってもいいんだけど……」
ガゼルがちらりとシノワに目を滑らせると、シノワは「結構です」と言って仏頂面を作る。じゃあこれを、とガゼルは何とも恐ろしげな色をした液体が、なみなみとつがれたカップを差し出した。とたんにシノワはよせていた眉をハの字に下げる。
「それ、あの、ものすごく変な味のやつですよね」
「痛み止めには、これが一番効く」
「それを飲むことによって、もっと具合が悪くなるような気がします!」
「気のせいだ。飲まないともっと痛いぞ」そう言って、なおも渋い顔をしているシノワにガゼルはニヤリと笑いかける。「それに、早く飲まないとその薬、どんどん臭いがきつくなるぞ」
そんな恐ろしいことを言い残して、ガゼルは水桶を持って部屋から出て行った。シノワはその後ろ姿を恨めしげに見送ると、何とか自力で起き上がり、カップに手を伸ばす。毒々しい液体からは、すでに飲んだら危険だと言わんばかりの香りがただよっている気がした。
「か、神様……」
思わずつぶやいて、シノワは意を決してカップの中身を、一気に口へ流し込む。その時、突然勢いよくドアが開き、シノワは思い切りむせ込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
レジンはあきれつつもベッドに駆けより、シノワの背中をさすった。
「すみません、大丈夫です」
涙目になりながらシノワが何とかそう言うと、レジンは短く息をついた。
「もう痛みは治まったのか?」
「だいぶ治まりました。ガゼルも、明日には外を歩けるだろうって言ってました」
レジンは心底ほっとしたという顔をした。
「まったく、魔法で治さないやつなんて久々だからさ。どうも、こう……」
レジンは首の後ろに手をやって、モゴモゴ言った。
ガツッ
鈍い音がしたが、フィンの木剣が打ったのはシノワではなく、ガゼルの手のひらだった。
「そんなに力一杯ふり下ろしたら、シノワが死んでしまうよ」
フィンはまだ力を込め続けていたが、木剣の刃先はガゼルの手につかまれてびくともしなかった。
は、は、とフィンには自分の吐く息の音だけが、やたらと大きく響くような気がした。
「もう終わりでいいね?」
フィンはぎゅっと目を閉じて、ふるえる腕の力を抜き、木剣を納めた。
「何考えてんだ!!」
レジンの怒声に、フィンはびくりと体を強ばらせる。
しかし大股に歩み寄ってきたレジンは、ガゼルの胸ぐらをつかんだ。
「
「悪かったよ」とガゼルは苦笑する。「だけど、いくらテュールの伝統だからって、私はシノワの命をくれてやるつもりはない」
「フィンがそこまでやるはずないだろ!」
そう言ってレジンがフィンを見やると、彼はびくりと肩をふるわせて、少し怯えたような目でレジンを見上げた。
「レジンさん……! ガゼルを、放してください……」シノワがしぼり出すように言って、痛む腹を押さえながら起き上がる。「僕の負けです。もう、終わったんです。終わってたんです」
声を出すと打たれた腹に響き、シノワはぎゅっと顔をしかめて、うめき声をかみ殺す。
「シノワ、大丈夫かい?」
大丈夫だと答えたかったが、息を吸うだけで腹と脇腹の痛みが全身に刺さるようで、シノワは小さくうなずくので精一杯だった。
レジンがガゼルの襟を放すと、ガゼルはシノワのそばにしゃがんで具合を確かめる。この前代未聞の出来事に、
「
シノワの具合をみながらガゼルが言った。レジンは苛立った目をガゼルに向けたが、声を張り上げる。
「この勝負は、ウィルドの乱入により、無効!」
レジンの声が響くと、辺りが一斉に落胆したようにざわめき、不満げな野次も飛び始める。
ガゼルはやれやれと首をふり、立てそうにないシノワを抱え上げた。
「こんな勝負は認められねえよ」
「まあ、それでもいいけど」とガゼルはレジンを見やる。「二人とも本気なんだよ、テュール」
苦々しい顔をしたレジンに背を向けてガゼルが歩き出すと、不機嫌な声が追ってくる。
「ウィルド、あんたはどうなんだ」
ガゼルはひょいと眉を持ち上げ、「さあ」と、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「ああもう!」
レジンはいまいましそうにガリガリと頭をかいた。
運んでくれるのはありがたかったが、ガゼルの肩が打たれた腹に食い込んで、シノワはガゼルが一足歩くたびにうめき声を上げた。
「すみません、ガゼル」うめく合間にシノワがしぼり出すような声で言う。「勝つ、つもり、だったんですけど」
「何言ってるんだ。充分だよ」そう言ってガゼルはふと苦笑する。「君は意外と男の子なんだな」
「バカにしないでください」
ガゼルが笑って肩が揺れ、シノワは悲鳴に近いうめき声を上げた。
それから二日ほど、シノワは一人ではベッドから起き上がれないような状態が続いた。
幸い骨が折れた様子はなかったが、これまでの旅の疲れもあってか、熱を出して寝込んでしまったのだった。その間、打ち身から来る痛みで深く眠ることができずに、妙な夢ばかり見た。しかし、その夢の合間に目を開くと、たいていガゼルがそこにいて、夢と現実とをはっきり区切ってくれていた。
「まだ少し熱があるな」
ガゼルがシノワの額に載せていた手を上げると、シノワは深々とため息をついた。
頑張ったものの、せっかく挑んだ
「
ガゼルがそう言って苦笑したので、シノワはあわてて首をふった。
「僕こそ、すみません。ガゼルが止めてくれなかったら、もっと痛いことになってました……」
ガゼルは小さく息をつく。
「君、あの子が魔法を使ったの、気づいていたんじゃないのかい?」
シノワはハッとガゼルの方を見たが、何とも言えない顔をして天井を見上げた。
「やっぱり、魔法だったんですね……」
もう少しで追い詰められそうになった時、不自然な風が吹き、目に小さな砂粒が入ったのは確かだった。しかし、テュールの少年が、
「見落としたテュールもテュールだけど、どうしてすぐに言わなかったんだい? せめてコールの前に言っていれば、君の勝ちになったかもしれなかったのに」
「ガゼルだって気づいてたんでしょう?」
「君が言ってほしくなさそうだったからね」
シノワはちらりとガゼルの方を見やる。シノワが口を開くのを待っているガゼルと目が合うと、シノワは深々とため息をついた。
「ただの判断ミスです。気づいてすぐに訴えなかった。だから、僕の負けでいいんです」でも、とシノワはまたため息をつく。「また会議を再開催してもらう方法を考えなくちゃいけませんね」
それを聞くとガゼルはふっと吹き出した。
「潔いのか、往生際が悪いのか、どっちなんだよ。君はおもしろいね」
笑われて、本当にその通りだなとシノワも自分でおかしくなる。
「あの時、負けるのって嫌だよなって、思ってしまったんですよ」
ガゼルはひょいと眉を持ち上げる。
「フィンは僕より格上でした。テュールの子だし、絶対僕に負けたくないだろうなと思ったんです。僕は試合で一度も兄に勝ったことがなくて、いつも、本当に悔しくて。小さい頃には試合の後によく泣きました。それを思い出してしまったんですよね」
「だからって反則を許すなんて、君はお人好しがすぎるね。本当にあれが当たってたら危なかったんだよ」
「わかってますよ。よくみんなに抜けてるって言われるんです。それに僕だって腹が立ってるんですよ。でも、そんなことに気を取られて隙を突かれたあげくに、ガゼルに助けてもらうハメになったのは僕のミスだから、負けは負けです」
ガゼルはまだ何か言いたげだったが、苦笑してため息をひとつついただけだった。
「ひとまず君は、その怪我を治さないといけないね。あんまりひどいようだと、魔法で治してやってもいいんだけど……」
ガゼルがちらりとシノワに目を滑らせると、シノワは「結構です」と言って仏頂面を作る。じゃあこれを、とガゼルは何とも恐ろしげな色をした液体が、なみなみとつがれたカップを差し出した。とたんにシノワはよせていた眉をハの字に下げる。
「それ、あの、ものすごく変な味のやつですよね」
「痛み止めには、これが一番効く」
「それを飲むことによって、もっと具合が悪くなるような気がします!」
「気のせいだ。飲まないともっと痛いぞ」そう言って、なおも渋い顔をしているシノワにガゼルはニヤリと笑いかける。「それに、早く飲まないとその薬、どんどん臭いがきつくなるぞ」
そんな恐ろしいことを言い残して、ガゼルは水桶を持って部屋から出て行った。シノワはその後ろ姿を恨めしげに見送ると、何とか自力で起き上がり、カップに手を伸ばす。毒々しい液体からは、すでに飲んだら危険だと言わんばかりの香りがただよっている気がした。
「か、神様……」
思わずつぶやいて、シノワは意を決してカップの中身を、一気に口へ流し込む。その時、突然勢いよくドアが開き、シノワは思い切りむせ込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
レジンはあきれつつもベッドに駆けより、シノワの背中をさすった。
「すみません、大丈夫です」
涙目になりながらシノワが何とかそう言うと、レジンは短く息をついた。
「もう痛みは治まったのか?」
「だいぶ治まりました。ガゼルも、明日には外を歩けるだろうって言ってました」
レジンは心底ほっとしたという顔をした。
「まったく、魔法で治さないやつなんて久々だからさ。どうも、こう……」
レジンは首の後ろに手をやって、モゴモゴ言った。