第85話

文字数 2,052文字

***

 今日もカデンツはよく晴れていた。
 日の光をまばゆく照り返す石畳の上を、シノワは軽い足取りで歩く。父から近所の親戚の家に用を頼まれ、久々にカデンツの街に出ていた。

 魔法の封印から五年が経ち、カデンツは以前のようなのどかな街に戻っていた。多少の問題はあっても、もう家が降ってくる心配もないし、昼が二度も繰り返すなんてことももうない。魔法のある生活がたった五年で終わってしまったために、人々は案外早く元の生活に戻って、それに馴染んでいった。

 先日、エイラ・ラーグが亡くなったと新聞の記事で知った。彼女はシノワから跳ね返った自分の魔法を浴びて、命は取り留めたものの、長く臥せっていた。あの後すぐに、ラーグ家当主はサイカ・ラーグがエイラの跡を継ぎ、エイラが司祭を襲った件に関しては、本人の回復を待って裁きが行われる予定だったが、結局ラーグ家への厳重注意のままに終わった。

 ジュスト・ユルはあの後、王位簒奪の騒ぎを起こした罪を問われて、禁固六十年を言い渡され、まだ王城に囚われている。
 ノービルメンテはガゼルが命じた通りに、組織の中枢からユル家の人間が排除され、まだ混乱してはいるものの、未だにテサの最高学府として存続している。
 まだ時々各地で小さな小競り合いがあったりもして、何も不安がないとも言えないが、魔法を封じた直後、いつ何が起こるかわからず戦々恐々としていた頃がウソのようで、平和になったものだとシノワは穏やかに思った。

 昨日、試験の合格通知が届いた。塔の学院を卒業すれば、シノワは教師になる。言語学が専門だが、中等学院での教員免許が取れたので、学院では一般的なテサの言葉を教えることになるだろう。
 自分が先生などと呼ばれるのは変な感じだが、身が引き締まる思いがした。これで一歩前へ進める。しかし、まだまだこれからだ、とも思う。

 長く悩んだが、シノワは兄の補佐官にはならなかった。少しぐらい叱られるかと思ったが、シノワの選択を父も兄も応援してくれている。母には泣かれてしまったのだが、長い話し合いの末に、どうにか納得してくれたようだった。

 シノワが教師になるなんて、ガゼルに言えば、何と言っただろうか。思って、顔を上げると、古い家のひしめく酒場の近くまで来ていた。

──君の大きな鹿(エオロー)の名になぞらえたんだ

 懐かしい景色にそんな言葉が呼び起こされて、シノワはふっと笑みをこぼす。
 ガゼルは本当にとんでもないことを、何でもない風にやってしまう人だった。あの大鹿には気を失いかけるほど驚かされたが、その後に見せられた様々なものを考えてみれば、そうたいしたことではなかった気もする。本当に旅の間中、驚いてばかりいた。

 あの時はずいぶん長いように感じていたが、ガゼルと旅をしたのはたった半年ほど。ただついて行くのに必死で、いつも息切れしていたような気がする。しかし、何て楽しい日々だったのだろう。
 ガゼルがいなくなって、一緒にいた時間の何倍もの月日が瞬く間に流れていった。その間にはやはり様々なことがあって、本当に大変だった。あの旅の間には乗り越えられたと思ったことも、またつらく感じられる。そもそも、そこにガゼルがいない。

 それでも、何か大変だと思うことがあったとしても、それに立ち向かおうと腹をくくる覚悟ができれば、たいていのことは何とか乗り越えていけた。

──君ならきっと間違わないと、私はそう思ってるんだよ。だから、恐れずに君は君の答えを出せばいい

 どんな時でも、ガゼルの言葉は鈍い痛みを伴ってやってきた。それが心強くもあり、苦しくもあった。

 未だにあの時のことを夢に見ることがある。白っぽい灰色の砂地にガゼルが倒れていて、その体の下に真っ赤な血が広がってゆく。シノワは決まって飛び起きて、自分の部屋にいることを確かめると、ガゼルはもう元気に暮らしているのだと、どうにか自分をなだめて再び眠りにつく。いつかはそれも、遠い過去になってゆくだろう。

 前に一度、あの路地裏に、ガゼルを見つけたあの場所に行ってみたことがある。あのガゼルのことだから、何でもない風にあの古い部屋に戻っていて、行くと「やあ」と笑いそうな気がしたのだ。
 しかし、そこには立ち並んだ住居の間にぽっかりと空き地が広がっているだけで、あの古びたドアは見つけられなかった。

──手紙を書いてもいいですか?
──もちろん。また渋るかもしれないけど、ロンに配達を頼もう

「ウソつき」
 ぽつりと言って苦笑する。手紙ぐらいよこしてくれてもいいではないかと、シノワは少し腹を立てていた。言いたいことは山のようにある。ありがとうとすら、まだ言ってない。
 きっとウソをつくつもりはなかったのだろう。きっと何かがうまくいかなかった。

「まあ、元気にしてるんならいいか」
 苦笑して、シノワは路地に背を向ける。


 あの場所には、今日もきっと空き地が広がっている。
 今日も、本当によく晴れている。
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