第11話

文字数 2,988文字

 男は突進してくる二人を見ると、急いで懐へ手を入れた。
「シノワ、跳ぶぞ」
「は?」
「ちょっと高めに跳ぶから、しっかりついてこい」
「え?」
「大丈夫。君の足は大鹿(エオロー)の足。瞬く間に天まで届く!」
 男まであと十歩というところで、男の懐から魔法がはじけて光がこぼれ出す。と同時に、ガゼルはタンと小気味よい音を立てて地面を蹴り、跳び上がった。飛んだと言った方がいいかもしれない。男の法印(タウ)が放った刃物が敷石につき刺さった時には、ガゼルたちは男の頭のはるか上を飛んでいた。
 シノワは息をするのを忘れていた。目の前には青い空とクロワの街との境界が見える。その見開いた目が、先ほどまで足元にあったはずの石畳を、はるか彼方に認識したとき、ガクンとシノワの体が沈む。
 落ちる──!
「こら、そんなイメージをふくらませるな!」
 ガゼルのあわてた声がして、腕がちぎれるほど強く引っぱられたと思った時には、シノワは石畳に座り込んでいた。心臓が恐ろしいスピードで打ち、息が上がっていた。
「立てるか?」
 はっと我に返って辺りを見回すと、薄い緑の法衣(ウルムス)が目に入った。見上げるとガゼルが手のひらを差し出していた。反射的にその手をつかむと、ぐいと引き立たされる。まだどこか足がふわふわと、地面が柔らかくなっている気がしてシノワはよろめいた。
「高いところは苦手なのかい?」
「苦手も何も、あんなに高く跳び上がるなんて!」
 ガゼルは「悪い悪い」と笑って、そのまま何事もなかったかのように、市場を目指して歩き始めた。
「あの、さっきの人……」
 辺りを見回しても先ほどの男の姿はなかった。というか、シノワは見たこともない場所にいた。一体どれだけの距離を跳び越えたのだろうか。
「うまく撒(ま)けただろう。そんなことより市場へ急ごう」
 そんなこと、で済ませていいことだろうかと思いつつも、シノワはずんずん歩き始めてしまったガゼルの後を追って行った。
 市場へ向かう道すがら、先ほどの男は、例のアクロ商人の差し金だろうとガゼルは言った。どうしてアクロ商人に襲われなければならないのか、シノワには見当もつかなかったが、ガゼルが言うには、ラーグ邸の前で規定違反について話していた時、先ほどの男が小道の陰に立っていたらしい。魔法使いの正式な法衣(ウルムス)を身につけたガゼルに、シノワが法庁(バーカナン)に報告するとかしないとか言ったことを、切れ切れに聞いたのかもしれなかった。
「軌道に乗った商売に水を差されないよう、ちょっとおどかしておこうってところだろう」
「そんなバカな。刃物でしたよ? あんなの、まともに当たったら死にますよ」
「そうだね」
「やっぱり法庁(バーカナン)に報告しましょう!」
 シノワが意気込むと、ガゼルはおかしそうに笑った。
「君は法庁(バーカナン)の誰に報告するつもりなんだよ」
 あ、とシノワが口ごもると、ガゼルは声を上げて笑った。
 やはりシノワには、まだガゼルが司祭だとは思えないのだった。

「これ見てシノワ!」
「もう、今度は何ですか?」
 うんざりと言って、シノワはとりあえずガゼルの手元をのぞき込む。
「見てよ、ネジ巻き時計だ」
 ガゼルはうっとりと言うが、シノワは長いため息をつく。ガゼルの手のひらには、古びた置き時計がひとつ載っていた。
 旅支度がどうとか偉そうに言ったくせに、先ほどからガゼルが右へ左へ誘い込まれているのは、シノワにとってがらくた商売にしか見えない、骨董商の店ばかりだった。
「いや、兄さん。若いのにお目が高いね。それは手工芸の町クリエで作られた値打ち物だよ」
 オヤジは、ツヤツヤと日焼けした顔中を笑みにして言った。
「そうだろうとも。この細工の細かさ、(しん)(ちゅう)のいぶされた感じ、()(たん)のなまめかしいツヤ」
 ガゼルはブツブツ言って、時計を様々な角度から観察する。
 ほとんどの店がきちんと屋根を張って棚の上に品物を並べる中、地べたにくたびれたカーペットを敷き、がらくたとしか思えない物が何とも無秩序に並ぶ。どこか抜け目のなさそうなオヤジの顔も、シノワは好きになれなかった。
「そんな古い時計なんていりません。だいたい、今時ネジを巻かなくちゃ動かない時計なんて使う人いませんよ」
「だからいいんじゃないか」
「坊主はまだお子様だなあ」
 オヤジが笑い、シノワはそれにカチンと来てガゼルの腕を引く。
「旅支度をするんでしょう? 時計ならちゃんと持っていますから、そんなもの必要ありません!」
「あのねえ、シノワ」
 ガゼルが(こう)(しゃく)を垂れようとした時、すぐ近くでまた何かが破裂する音が響いた。しだいにざわめきの中に悲鳴が混じり始め、ガゼルはふと笑みを収める。
「またアクロだな」オヤジはうんざりしたように言った。「まったく、あの音を聞かない日はないね。最近じゃナイフの出るものまであって、それを強盗に使う野郎まで出てきたんだ。俺みたいな貧乏商人には縁のうすい話だが、困ったもんだよ」
 ガゼルは時計をオヤジの膝元にそっと戻すと、人が集まり始めた方へ向かった。
 人垣の内側には少女がひとり、うつぶせに倒れ込んでいた。顔は白くなり、その体の下には赤い血だまりが広がっている。
「誰か! 医術の法印(タウ)を持っているやつはいないか! ちくしょう、キリエしっかりしてくれ!」
 少女を抱えた父親らしい男が必死の形相で叫んでいた。
 ガゼルはその様子をうかがっていたが、シノワが不安げな顔でふり返ると、その人垣をかき分けて彼らの元へしゃがみこんだ。
「どうなさったんです?」
「ああ、あんた魔法使いか。頼む、娘を助けてくれ」 父親は血だらけの手でガゼルの法衣(ウルムス)にすがりつく。「ボールが、近所のガキが投げたアクロが娘に当たったんだ。ナイフの入ったやつだ。娘の腹をつきぬけちまって。早くしねえと死んじまう!」
 男は今にも泣き出しそうな声で切れ切れに説明した。ガゼルはそっと男から娘を抱き取ると、その腹を探って首をかしげてみせる。
「気のせいじゃないですか? そんな大けがなんて見あたりませんよ」
「何言ってんだ、あんた! こんなに血が出てるのに!」
 男は怒鳴ると、娘の作った血だまりを指さした……はずだったのだが、そこには乾いた敷石があるだけで、血だまりなどどこにも見あたらない。
「いや、確かに……あれ?」
 男は指さした格好のまま固まった。
「ね? ほら、お腹の傷もたいしたことありませんよ。かすり傷です」
 そう言ってガゼルは少女の腹を指さす。そこにはナイフが貫通したような傷などなく、ガゼルの言ったとおり小さなかすり傷があるだけだった。
「あ、ああ」
 男は腰が抜けたようになってその場にへたり込み、その腕にガゼルが娘を返した。
「きっと、大怪我をしたように見せる法印(タウ)が入っていたんでしょう。本当に人騒がせなおもちゃですね」
 ガゼルがにこりと笑むと、男はよかったと言って娘を抱きしめた。その様子を見守っていた人だかりも、興ざめだと言わんばかりに首をふりふり散っていき、後には呆然と立ちすくんでいるシノワだけが残った。
「行こう」
 小さく言ってガゼルはシノワの腕を引いた。その手に引っぱられながらふり返ってみると、父親はまだ娘を抱きしめながら、しきりに名を呼んでいた。
「さっき、魔法使いましたよね?」
 ガゼルが少女を抱えたとき、わずかに魔法が光ったのにシノワは気付いていた。
 ガゼルは、おもむろに顎に手をやると小さく息をつく。
「やっぱり取り締まるかな」
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