第55話

文字数 2,496文字

 ジーナに言いつけられた用事をいろいろとこなし、食器を抱えて再び隠し部屋へ戻って来る頃には、日が暮れかかっていた。ランタン三つに火を灯して、食器を戸棚に入れ、やれやれと椅子に腰掛けると、テーブルの上でクマがしょげかえっていた。隣でロンも気遣わしげな目をしている。
 のぞき込むと、クマは綺麗に洗い上がっていて、焦げ茶色の布に、うっすら格子模様があることがわかった。

「あの、大丈夫ですか?」
「長いこと生きてきたけど、天日干しにされたのは初めてだよ……」
「お日様のいい匂いがしますよ」
 シノワがぎこちなく笑うと、ガゼルは顔を上げる。
「見てくれよ。ジーナが右耳だけ洗濯ばさみではさんで干したから、右耳がつっぱってしまって」
 あらためて見ると、なるほど、右側に洗濯ばさみの型が付いて引きつれていた。そして、ロンがくわえたときに牙が刺さったのか、頭にほんの小さな穴がふたつ開いていたが、それは言わないでおいた。
「あ……でも、すごく綺麗になってますよ。良かったですね」
「君、自分の体に石けんがしみこんでいく感覚を、想像したことがあるかい?」
 さすがに気の毒になって、シノワはクマの背中を指先でなでてやった。そしてつっぱった右耳をもみほぐしていると、ジーナが鍋を持って戻ってきた。途端に辺りに良い匂いが広がった。

 久々の温かな食事を終え、シノワが食器を片付けてしまうと、ジーナは煙管に火を付けた。
「ひとまず、私は明日法庁(バーカナン)へ行ってみるよ。カデンツにジュストが何か手を回してくる気配はないが、もう二日経ってるんだから、何か動かしてるかもしれない」
「そうしてくれ」
 ガゼルがふてくされたように言ったが、クマの顔が少し微笑んだ作りになっているので、妙な感じだった。

 ジーナは煙と一緒にため息を吐き出し、シノワをふり返る。
「シノワ、お前はもうここで手を引いてもいいんだよ」
 シノワはジーナに驚いた目を向ける。
「ここまで来て、そんなこと……」
「魔法封じはともかく、こんな魔法使い同士のもめごとに、お前みたいな一般の子どもを巻き込みたくない」
「でも」
「よく考えておくれ。万が一ジュストとやり合うようなことがあったとき、私にも動かせる魔法使いはたくさんいるが、そこにお前が一緒にいれば、誰かがお前を守らなけりゃならない。ガゼルならともかく、当主はほぼ互角の魔力しか持たないから、お前のお守りは当主でも荷が重い」
「それは……」
「嫌な言い方をするねえ」
「本当のことさ。私たちには大人として、シノワを無事に父上の元へお返しする義務がある。お前は今のこの事態がちゃんと片付いたら、国王の所へ行くなり何なりして、魔法を封じてやればいいだけだ。こうなった以上、ジュストとのことにわざわざシノワを同行させる意味なんかないだろう」
「まあ、そうだけど」
 とにかく、とジーナはカツンと灰皿に煙管の灰を落とす。
「この部屋を借りてる以上、私も強くは言えない。だけど、ちゃんと考えておくれよ。私はシノワを巻き込みたくはない」




 明かりを消して、ベッドへ潜り込み、耳が痛くなるような静けさに包まれると、どうしてもシノワは隣のベッドに気持ちが吸い寄せられてしまう。
 かすかな、本当にかすかな寝息が聞こえる。ガゼルはクマの中にいるのに、体はわずかに呼吸をしている。その弱々しい呼吸が不意に止まってしまいそうで、シノワは恐ろしかった。

「シノワ」

 思いのほか近い所でガゼルの声がして、シノワはびくりとする。
「恐いなら見るんじゃない」
 やわらかな手でポフッと額を叩かれる。
「はい」
 素直に返事をして、シノワは寝返りを打ってガゼルに背を向ける。と、その振動でクマがころりとベッドの上から転がり落ちた。
「ああ、すみません」
 シノワはガゼルを拾い上げると、今度は落ちないように壁際に座らせた。

 思わず笑いがこぼれる。
「いつもは建物の上まで飛び上がれるガゼルが、ベッドにも登れないなんて」
「君、面白がってるね」
「少し」
 暗がりの中で、クマは相変わらずほんのり笑っていたが、きっとガゼルは顔をしかめているだろう。

「ねえ、ガゼル。学院長がガゼルに魔法を使った時、どうして証文は発動しなかったんですか? 学院長は、魔法封じを邪魔しましたよね?」
 ガゼルは舌もないのにチチッと舌打ちをした。
「ダイスに集めた証文は、私が魔法を封じているその瞬間にしか効力がないんだよ。証文を違えると命を落とすんだから、そんなに曖昧な範囲にまで効力があったら、命がいくつあっても足りないよ」
 そういうものなのか、とシノワは暗がりの中で眉を寄せた。当主の証文を集め終わったものの、まだ邪魔される可能性は充分にあるということだった。

「ガゼル」
「なに」
「ガゼルも、僕はもう手を引いた方がいいと思いますか」
「まあ、一緒にいるのはあまりおすすめはしないね。ユルが中途半端なことをするとは思えないし、今は私が役に立たないのも確かだしね」
 ふっとシノワが吹き出す。
「何言ってるんですか、魔法しかとりえがないみたいに」
 今度はガゼルが笑う。
「それもそうだ。年の功でなんとか頑張るよ」
「ガゼル、僕は魔法使いじゃないし、まだ何でも親の許可がいる子どもです。でも、もしかしたら、魔法使じゃない方が役に立てることが、何かあるんじゃないかと思うんですよ」

 具体的に、何ができるかはまだわからないが、魔法使いの一族や自分の立場に縛られないでいる方が、都合の良いことがあるのではないかという気がしたのだ。この隠し部屋のことも、もしシノワが魔法使いの一族だったら、当主に迫られれば隠し通すことができなかったかもしれない。

「【星】だって、僕みたいに魔法を使う気のない一般人が持ってた方がいいわけですし、やっぱり、僕は魔法が封じられるまでちゃんと全部見ておきたいんです。だから、僕に本当にやることがなくなるまで、一緒にいますね」
 ガゼルが黙ってしまったので、顔を持ち上げて見やると、やはりクマは微笑んでいた。

「頼りにしてるよ」
「はい」
 ガゼルにそんなことを言われるのは初めてで、少しくすぐったい気持ちに包まれながら、シノワは目を閉じた。
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