第59話

文字数 4,238文字

 昼頃クロードから隠し部屋に手紙が届き、シノワがそっと抜け出して隠し通路の辺りへ向かうと、待ち構えていた兄のクロードが駆けてきて、シノワに抱きついた。父からあらかた話を聞いたらしかった。

 ルイス・カノの本拠地カルムへ向かっていた頃、カデンツではシノワが偽司祭にさらわれて行方不明になったという噂が流れ、その対応などを手伝うためにクロードは塔の学院を休学して、領主館に滞在していたらしい。ガゼルが言った通り、この噂もやはり学院長の差し金で間違いないだろうと思われた。シノワとガゼルをカデンツにおびき寄せて、ガゼルを襲うつもりだったに違いない。噂が流れてすぐに二人がカデンツへ戻らなかったのは、少々誤算だったかもしれないが。

 いろいろとクロードに迷惑をかけたことを思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、クロードはさして気にした様子もなく、ノービルメンテへの進学をとりやめたことについても、自分で決めたことだからと笑っていた。あれだけ猛勉強していたクロードがそんなことを言い出すとは、シノワは信じられなかった。ラメールでもあんなにシノワに怒っていたのだ。

 シノワの噂が広まってから、クロードは父と共に国内の状況を調べていたらしく、そのことについても教えてくれた。父から聞いてはいたが、やはりノーベルメンテ出身者の人事異動が激しく、役所の重役の半分ほどが既に出身者に変更になっているようだという話だった。もちろんそれに対する反発も起きていて、役所によっては逆に出身者を閉め出すような所もあり、全体的に落ち着かない状況らしい。
 それでも父はクロードを進学させるつもりでいたらしいのだが、そういう一連の状況を見て、クロードはノービルメンテへの進学を取りやめたのだという。

「兄さん、本当にそれでいいの?」
「確かにノービルメンテはこの国の最高学府だけど、今の様子を見てると、どうもあの学院はおかしい。内情を探りに行ってもいいんだけど、反発する動きも大きくなってきてるから、とにかく今は近づかない方が賢明だと思ったのさ」
「そうだね。学院長も良い人間とは言えないし」
 シノワはいろいろな出来事を思い出して、鼻にシワを寄せた。
 普段他人を悪く言ったりすることのない弟のめずらしい表情を、クロードは少し意外そうに見ていた。

「とにかく、僕と父さんも協力するから、お前も何か動きがあればすぐに報告してくれ」
 シノワが真剣な面持ちでうなずくと、クロードはもう一度シノワを抱きしめ、いたわるように背中をなでてから、一度実家にも戻るようにと言った。その言葉にシノワは胃が縮み上がるような思いがしたが、カデンツに戻ってきた以上は、一度家にも戻らなければならないだろう。戻ったことを、あまり長く母に秘密にしておくのはよろしくない。

 とはいえ、シノワが一人でカデンツを歩くのも危険だということで、ガゼルとベオークも家まで一緒についてくることになった。ベオークはカデンツにいる魔法使いがほとんどいないことを確かめてくれ、ユルの魔法がどこかにひそめられていないかも入念に調べてくれた。ベオークはユル家の魔法使いであり、ユルの魔法については詳しいのだった。

 そうして半年ぶりの帰路についたのだが、シノワの足取りはとても重かった。
「どうかしたのかい?」
 ポケットの中からガゼルが言った。
「アナシに行くとき、ガゼルがすごくゆっくり歩いてた気持ちが、ちょっとわかったところです」
 ガゼルはおかしそうに笑った。

 何とか自宅の門の前にたどり着いたものの、シノワは憂うつそうに足を止め、ベオークをふり返った。
「すみませんが、ここで待っててくれますか」
「どうして?」
「きっと大変なことになります」
「大変なことって?」
「うちの親、いろいろ厳しいんです」
 シノワはついて来ようとするベオークを押しとどめて庭のベンチに座らせ、ガゼルを預けようとすると、彼はもそもそとポケットの奥に潜り込んでしまった。そうしていてくれるならいいかと、シノワはガゼルを預けるのをあきらめて、重い気持ちを引きずるように庭を通り抜け、静かに玄関のドアを開く。静まりかえった玄関には、ひんやりとした静かな空気が漂っていた。

「ただいま」

 遠慮がちな声だったが、それを聞きつけたらしい母のマンナが、奥のドアから顔を出した。そしてシノワの姿を見出すと、足早に歩みより、バシッと鋭い音を立ててシノワの頬を打った。
「お前はいったい何を考えてるの!」
 その形相はすでに、温厚な市長夫人で通っているマンナ・エオローのものではなかった。

「母さん、あの……」
「突然出て行ったかと思えば、こんなことをしでかして戻ってくるなんて! お前がどこで何をしようとかまわないけど、クロードはあんなに必死に勉強してノーベルメンテ候補生になったのに! それをめちゃめちゃにするなんていったいどういうつもりなの!」
 そう言ってマートルは、またシノワの頭を打つ。
「母さん、ちょっと、話を聞いて」
「お前の話なんか聞きたくないわ! クロードの人生を台無しにした上に、魔法を封じようなんて大それたことを言ってるそうじゃない! 勉強しに行くと言っておきながら、偽物の司祭に騙されて、お前はいったい何をしてきたの! お父様にまで迷惑をかけて、変な噂も広がって、もう恥ずかしくて表を歩けないじゃない!」
 そう言ってマンナがふたたび腕をふり上げたが、シノワその腕をつかんで止めた。
「母さん、それぐらいにして」
「放しなさい!」
 マンナが怒鳴るが、シノワはつかんだ手を放さなかった。

「母さん、心配かけたのは悪かったよ。でも、僕は恥ずかしいことなんか何もしてない。僕が出会ったのは、本物の司祭だった。噂の方が間違ってるんだ。僕は司祭と一緒に旅をしてきたんだよ」
 マンナは首をふると、その瞳に涙がわき上がっていく。
「本物の司祭かどうかなんて、どうでもいいわよ。もう、この家はおしまいよ」
 そう言ってマンナが涙をこぼし、シノワはつかんでいた腕を放した。

「大丈夫だよ、母さん。父さんも、兄さんも協力してくれるし、僕もがんばるから、大丈夫。大丈夫だから……」
 そのままマンナがしくしくと泣き始めてしまい、シノワはやれやれとメイドのルイを呼び、マンナを居間へ連れて行ってもらうと、台所でお茶を入れ、戸棚にあったお菓子をふたつほど一緒に持って行ってやった。こうしてかんしゃくを起こした母親をなだめるのは、たいていルイとシノワの役目だった。そうして、大丈夫だと母をなだめすかして、二階の自分の部屋に戻る頃には、シノワはかなりくたびれていた。

 部屋に荷物を置くと、シノワはそのままベッドに倒れ込んだ。
「大丈夫かい?」
 ガゼルがポケットから這い出して、顔をのぞき込む。
「さすがにちょっと疲れました」
 シノワがへにゃりと情けない笑みを浮かべると、ガゼルがまあるい手を伸ばして少し赤くなった頬をなでた。くすぐったくて、シノワはいつもガゼルがそうするように、ふふっと笑った。

 ざっ、と風が吹く音がして見やると、外には晴れわたった青空が広がっていた。ガゼルは窓際までトコトコ歩いていくと、器用に桟によじ登った。
「これが、君がずっと眺めてた景色なんだな」
 ガゼルは外を眺めながら、感慨深げにそう言った。シノワは見慣れた部屋をぐるりと見やって、帰って来たのだなとあらためて思い、のろのろと起き上がると窓を開け放った。そよそよとやわらかい風が吹き込む。

 母に、自分がここへ戻ってきたことを口止めすることを忘れていたが、表を歩けないとまで言われたのだから、わざわざシノワがここにいることを他人に言ったりしないだろう。そう思うと少し安心したものの、なんだかやさぐれた気持ちになった。
 母はいつもああなのだ。シノワの話を少しも聞いてくれない。

「どうもすみませんでした。母さん、いつもはあんな風じゃないんですけど」
「君とそっくりじゃないか」
「僕はあんなにヒステリックじゃありません」
 心外だとばかりにしかめっ面になったシノワに、ガゼルはチチッと舌打ちをする。
「母上も、びっくりして、恐くなって、あわててるだけだ」
 ああ、と気の抜けた声を出してシノワはよせた眉を下げる。自分がよく、びっくりして、恐くなって、あわてていることはよくわかっている。

「あんな風にあわてた人の言うことを、あんまり気にするんじゃないよ。母上は息子のことをみんなに褒めてもらいたかっただけさ。どんなに年を取っても、褒められたいのはみんな同じなんだよ」
「ガゼルもですか?」
「もちろん」
 ガゼルがうなずくと、シノワはやさぐれた気持ちが何となく拭われて、ふっと吹き出した。
「ガゼルって、なんだか変な先生ですよね」
「先生?」
「僕には司祭というより、そんな感じです」
 なるほど、とガゼルはおもしろそうに言った。どうやらまんざらでもないらしい。
「時間のゆったりした時に、もう一度ちゃんと母上と話すんだよ」
「わかりました」

 ガゼルが不意にシノワの肩越しに壁の方を見やったので、つられて目をやると、そこにはクリアーニ学院の制服が、半年前と同じようにかけてあった。いつでも着られるよ、とでも言うように。懐かしいような思いがよぎったが、シノワはそれをはずしてクローゼットにしまった。

「旅が終わったらどうするか、決めたのか?」
 シノワは一瞬手を止めたが、緩く首をふった。
「学院に戻って補佐官になる勉強をするべきかどうか、よくわからなくなってきたんです。兄さんを手伝いたいとは思うんですけど、補佐官の他にも、何かできることがあるかもしれないと思って」
「じっくり悩みたまえ。君が一生懸命考えて出した答えなら、私は何であれ賛成だよ」

 ああそうか、と思う。ガゼルがいつも自分がどうしたいとか、どうすべきだとか言わないのは、シノワを惑わせたいわけでも、悩ませたいわけでもないのだ。

──君ならきっと間違わないと、私はそう思ってるんだよ
 そう言われた意味が、この時ようやくシノワにはわかったのだった。
 
それからシノワは新たな着替えなどの荷物を持って、ベオークと共に領主館へ戻った。シノワはひとまず夕食を作りに食堂へ降りて、そこにいたクロードと一緒に夕食をとった。母のことを話すと、クロードはいろいろなことが察せられたのか、静かにうなずいて、またいたわるようにシノワの肩を叩いた。きっと彼も母と壮絶な一戦を交えたに違いなかった。
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