第1話
文字数 3,071文字
シノワは、魔法で手のひらに写し取った地図と、辺りの風景とを見比べながら、不安げに路地を曲がる。地図が示す場所と自分が目指している場所が、どうにも一致しているようには思えなかった。
すすけた壁と、今にも瓦が落ちてきそうな、たわんでかたむいた屋根。道ばたで酒瓶を持ったまま眠る酔っぱらい、その横にうずたかく積まれたゴミの山。やせこけた犬が、シノワの姿に気がつくと、そそくさと路地へと消えていった。
少し魔法を操ってやれば、すぐにきれいな町にできるのに、それをしないで置いてあるということは、ここが魔法を習う余裕のない者の集まる場所だということだった。
この国テサでは、五年前全国民に魔法が開放された。それまではその名が示すとおり、魔法は魔法使いだけがあつかうことのできる特別なものだった。それが全ての者に解放されたことにより、今テサでは魔法の大流行が起こっているのだった。
解放前のことは、当時十歳だったシノワには遠い場所での出来事で、父親から聞いた話によると、各地で魔法解放運動や暴動が起こったり、魔法使い同士の対立などがあり、内戦に発展するのではという危うい状態が続いたらしいのだが、魔法使いのトップである司祭が、魔法の解放を承諾したことによりあっさり収束した。その反動のように、魔法がものすごい勢いで民間に広まったらしい。
三年ほど前からは、全国の学校の授業に魔法の科目が取り入れられているし、大人向けに簡単な呪文 や法印 の組み方を教える学校も流行っている。それらは、専売特許だった魔法が全国民に解放されてしまい、職にあぶれた魔法使いの受け皿ともなっていて、最近では、個人的に公園などで魔法を教える姿もよく見かけた。その授業料も年々値下がりし、魔法使いの中には転職を余儀なくされた者も出てきているという話だった。
そこからもあぶれたらしい、薄汚れた町の様子に、シノワは少し気持ちが折れかけたが、ここまで来たのだからと先を急いだ。
薄暗い路地を、コツコツと靴音を立てて歩くシノワの姿を、酔っぱらいたちはものめずらしそうに見ていた。栗色の髪はきちんと行儀良く整えられていて、休日だというのにぴしりと学院の制服を身にまとった少年の姿は、この薄汚れた路地では浮いて見えた。
手のひらの地図が示す場所は、路地の片隅にあった。ペンキのはげかけたドアには【司祭 】と書かれた、古びた札がかかっていた。あちこち探し歩いて、ようやく見つけた老魔法使いがくれた地図に間違いはない。しかし、その古びた札の醸し出すうさんくささに、シノワは心がずんと重くなった。
「またニセモノ司祭だったらどうしよう」
弱々しいつぶやきと共に、呼び鈴に伸ばしかけた手が止まる。
司祭が行方不明になって五年になる。
司祭とは千人の魔法使いを束ねる、魔法使いの長のことである。とんでもなく強い魔法を使えるらしい、ということ以外、魔法使いでもないシノワには司祭についてほとんど知る術がなく、謎の人物だった。
魔法が解放されたとはいえ、まだ魔法使いの上層部は法庁 で働いているのだが、その魔法使いを統率すべき司祭は、魔法の解放と共に行方不明になってしまったのである。呆れたことに、魔法使いの誰も行方を把握していないようで、シノワがどんなに必死に訪ね歩いても、偽物の司祭にしか出会えないでいるのだった。
本当にこの国はどんどんデタラメになっていく──
シノワは意を決して呼び鈴を鳴らした。
青錆の浮いた青銅のベルは涼やかな音を響かせたが、最近では魔法で鳴るベルが流行していて、青銅のベルなど、今はもうほとんど見かけない。こんな古くさい物を取り付けたままの家に、司祭が住んでいるとも思えない。そしてドアが開かれる様子もなく、返事もまたない。
「こんにちは」
もう一度呼び鈴を鳴らすが、やはり返答はなく、聞こえていないのだろうかと、シノワはふたたび声をかけようと息を吸い込んだ。と、突然ドアが開き、ガツンと派手な音を立ててシノワの顔面を襲った。
「やれやれ、最近の子はドアを手で開けることすら知らないらしい」
のんきな声がして、シノワは垂れた鼻血を拭っていったもの──声の主が放ったらしい魔法──の気配に眉をしかめた。
「ふつう、返事がなければ開けません」
「なるほど」
また声がしたが、肝心の声の主の姿が見あたらず、シノワは部屋の中を見渡し、その光景に肩を落とした。
薄暗い部屋には、分厚い本のぎっしり詰まった本棚が立ち並び、部屋の左端には、二階へ続くらしい天井の四角い穴に、古いハシゴがかかっていた。それはこの辺りの伝統的な建築様式だったが、最近では物置にその形が残っているぐらいで、どの家もハシゴではなく階段を設置している。
白かったと思われる漆 喰 の壁は灰色にくすんで、ところどころはがれ落ち、カーテンもまた、百年前からありそうな年代物の模様が織り込まれていた。
本棚と窓辺の大きな机以外には家具らしい家具もなく、その机の上には古めかしい本が、開いたり閉じたりした状態で、何とかバランスを保って積み上がっている。
とにかく何から何まで古びていて、まるで田舎の祖父母の家と言った感じだった。
「ドアを閉めてくれないか」
積み上がった本のすき間から、行儀悪く机の上に乗せた靴の先が揺らめいた。
シノワはようやく我に返り、ドアを閉めると頭を下げた。
「ここは司祭のお住まいとうかがって来たのですが、司祭はいらっしゃいますか」
その半信半疑ですといった口ぶりに、彼はフンと鼻で笑った。
「こんな所まで来なくても、司祭を名乗るやつぐらい他にもいただろう。グルモニア公園の司祭、ヘルタニアの司祭、ヤッカ港の司祭、あとルーベンにもいたか」
そのからかうような響きに、シノワは眉をよせると、大股に机に歩み寄る。
「司祭はこの国にたった一人です。僕は本物の司祭を捜してるんです」
「それは失礼」
声の主は、シノワが想像していたよりずいぶんと若く、腕を枕に、椅子にもたれて机の上に足を上げ、目を閉じていた。座ってるだけでいいから、と言われて無理矢理店番をさせられている青年、といった感じである。
「あの、それで、司祭はこちらにいらっしゃいますか」
片付いているのか散らかっているのかわからない部屋の中をシノワが見回していると、青年はようやく片目を開いてシノワを見た。
「目の前にいる」
思わずシノワは眉根を寄せて、再びあたりを見回してから、ふと相手が最高位の魔法使いであることを思い出す。
「姿を見せていただけないでしょうか。僕は魔法使いの血筋ではないので、姿を消した方を見ることができないんです」
「私が司祭だ」
シノワは思わず、目の前の青年のしかめっ面をもう一度見やり、目を瞬かせた。
そのとまどった顔を見ると、青年は少し意地悪な笑みを口元に浮かべて起き上がる。
「つまり君は、こういう……」
言いながら青年は顔をゴシゴシとこする。その手のひらのすき間からのぞく彼の顔が、どこか老けたように思って、シノワは小首をかしげた。
「品行方正な老人を……」
彼はなおもブツブツ言いながら、今度は頭に手をやり、その麦わら色の髪をすっとなでると、そのまま手に導かれるようにして髪が伸び、さらに銀色に変わった。
「探しに来たわけだね」
そう言って笑った顔は、元いた若者のものではなく、深いシワが刻まれていた。年老いてはいるものの、目には鋭い光をたたえた《賢者》といった風貌に変化していた。それは先ほどまでシノワが、心の中に強くイメージしていた司祭の姿である。
すすけた壁と、今にも瓦が落ちてきそうな、たわんでかたむいた屋根。道ばたで酒瓶を持ったまま眠る酔っぱらい、その横にうずたかく積まれたゴミの山。やせこけた犬が、シノワの姿に気がつくと、そそくさと路地へと消えていった。
少し魔法を操ってやれば、すぐにきれいな町にできるのに、それをしないで置いてあるということは、ここが魔法を習う余裕のない者の集まる場所だということだった。
この国テサでは、五年前全国民に魔法が開放された。それまではその名が示すとおり、魔法は魔法使いだけがあつかうことのできる特別なものだった。それが全ての者に解放されたことにより、今テサでは魔法の大流行が起こっているのだった。
解放前のことは、当時十歳だったシノワには遠い場所での出来事で、父親から聞いた話によると、各地で魔法解放運動や暴動が起こったり、魔法使い同士の対立などがあり、内戦に発展するのではという危うい状態が続いたらしいのだが、魔法使いのトップである司祭が、魔法の解放を承諾したことによりあっさり収束した。その反動のように、魔法がものすごい勢いで民間に広まったらしい。
三年ほど前からは、全国の学校の授業に魔法の科目が取り入れられているし、大人向けに簡単な
そこからもあぶれたらしい、薄汚れた町の様子に、シノワは少し気持ちが折れかけたが、ここまで来たのだからと先を急いだ。
薄暗い路地を、コツコツと靴音を立てて歩くシノワの姿を、酔っぱらいたちはものめずらしそうに見ていた。栗色の髪はきちんと行儀良く整えられていて、休日だというのにぴしりと学院の制服を身にまとった少年の姿は、この薄汚れた路地では浮いて見えた。
手のひらの地図が示す場所は、路地の片隅にあった。ペンキのはげかけたドアには【
「またニセモノ司祭だったらどうしよう」
弱々しいつぶやきと共に、呼び鈴に伸ばしかけた手が止まる。
司祭が行方不明になって五年になる。
司祭とは千人の魔法使いを束ねる、魔法使いの長のことである。とんでもなく強い魔法を使えるらしい、ということ以外、魔法使いでもないシノワには司祭についてほとんど知る術がなく、謎の人物だった。
魔法が解放されたとはいえ、まだ魔法使いの上層部は
本当にこの国はどんどんデタラメになっていく──
シノワは意を決して呼び鈴を鳴らした。
青錆の浮いた青銅のベルは涼やかな音を響かせたが、最近では魔法で鳴るベルが流行していて、青銅のベルなど、今はもうほとんど見かけない。こんな古くさい物を取り付けたままの家に、司祭が住んでいるとも思えない。そしてドアが開かれる様子もなく、返事もまたない。
「こんにちは」
もう一度呼び鈴を鳴らすが、やはり返答はなく、聞こえていないのだろうかと、シノワはふたたび声をかけようと息を吸い込んだ。と、突然ドアが開き、ガツンと派手な音を立ててシノワの顔面を襲った。
「やれやれ、最近の子はドアを手で開けることすら知らないらしい」
のんきな声がして、シノワは垂れた鼻血を拭っていったもの──声の主が放ったらしい魔法──の気配に眉をしかめた。
「ふつう、返事がなければ開けません」
「なるほど」
また声がしたが、肝心の声の主の姿が見あたらず、シノワは部屋の中を見渡し、その光景に肩を落とした。
薄暗い部屋には、分厚い本のぎっしり詰まった本棚が立ち並び、部屋の左端には、二階へ続くらしい天井の四角い穴に、古いハシゴがかかっていた。それはこの辺りの伝統的な建築様式だったが、最近では物置にその形が残っているぐらいで、どの家もハシゴではなく階段を設置している。
白かったと思われる
本棚と窓辺の大きな机以外には家具らしい家具もなく、その机の上には古めかしい本が、開いたり閉じたりした状態で、何とかバランスを保って積み上がっている。
とにかく何から何まで古びていて、まるで田舎の祖父母の家と言った感じだった。
「ドアを閉めてくれないか」
積み上がった本のすき間から、行儀悪く机の上に乗せた靴の先が揺らめいた。
シノワはようやく我に返り、ドアを閉めると頭を下げた。
「ここは司祭のお住まいとうかがって来たのですが、司祭はいらっしゃいますか」
その半信半疑ですといった口ぶりに、彼はフンと鼻で笑った。
「こんな所まで来なくても、司祭を名乗るやつぐらい他にもいただろう。グルモニア公園の司祭、ヘルタニアの司祭、ヤッカ港の司祭、あとルーベンにもいたか」
そのからかうような響きに、シノワは眉をよせると、大股に机に歩み寄る。
「司祭はこの国にたった一人です。僕は本物の司祭を捜してるんです」
「それは失礼」
声の主は、シノワが想像していたよりずいぶんと若く、腕を枕に、椅子にもたれて机の上に足を上げ、目を閉じていた。座ってるだけでいいから、と言われて無理矢理店番をさせられている青年、といった感じである。
「あの、それで、司祭はこちらにいらっしゃいますか」
片付いているのか散らかっているのかわからない部屋の中をシノワが見回していると、青年はようやく片目を開いてシノワを見た。
「目の前にいる」
思わずシノワは眉根を寄せて、再びあたりを見回してから、ふと相手が最高位の魔法使いであることを思い出す。
「姿を見せていただけないでしょうか。僕は魔法使いの血筋ではないので、姿を消した方を見ることができないんです」
「私が司祭だ」
シノワは思わず、目の前の青年のしかめっ面をもう一度見やり、目を瞬かせた。
そのとまどった顔を見ると、青年は少し意地悪な笑みを口元に浮かべて起き上がる。
「つまり君は、こういう……」
言いながら青年は顔をゴシゴシとこする。その手のひらのすき間からのぞく彼の顔が、どこか老けたように思って、シノワは小首をかしげた。
「品行方正な老人を……」
彼はなおもブツブツ言いながら、今度は頭に手をやり、その麦わら色の髪をすっとなでると、そのまま手に導かれるようにして髪が伸び、さらに銀色に変わった。
「探しに来たわけだね」
そう言って笑った顔は、元いた若者のものではなく、深いシワが刻まれていた。年老いてはいるものの、目には鋭い光をたたえた《賢者》といった風貌に変化していた。それは先ほどまでシノワが、心の中に強くイメージしていた司祭の姿である。