第52話
文字数 2,897文字
酒場の中は昼間だというのに薄暗く、タバコの煙にぼんやりかすんでいてよく見えなかった。
まだ昼間ということもあってか、どうにもだらしのない身なりをした者ばかりが目についた。一人で何かブツブツ言いながら酒をあおる者、何人かで集まって愚痴を言う者、テーブルを枕に眠る者。
それを横目に見ながら、シノワはガゼルを追って店の奥へと入っていった。奥と言ってもたいした広さのない店で、カウンターがあるほかには、テーブルが四つしかない。
そのうちのひとつに、その女の姿があった。金の巻き毛が美しく、大きな目や酒にぬれて艶めいている唇に、シノワは思わずどきりとした。
彼女の肩には、毛皮の襟巻 きのようにして深い毛色の奇妙な獣が乗っていて、それが彼女を少々奇妙に見せている。猫でも犬でもなく、シノワの見たことのない獣だったが、いくらか猫に近いようで、さしずめ巻き毛のある猫と言ったところだろうか。
ガゼルがテーブルの横で立ち止まると、女は長いまつげを持ち上げてガゼルを見た。
「まあ、久しぶりねガゼル」
女はなまめかしく言って微笑んだ。酔っているのか、目の奥がどんよりしている。
「お久しぶりです、ナウシズ様」
ガゼルが軽く会釈すると、彼女はその整った眉をぎゅっとよせた。
「その名前で呼ばないで」
「では、ロゼリア」
彼女は満足げに笑む。
「まだ日も高い内から、こんなに強いお酒をお召しになるとは、いただけませんね」
「まあ、相変わらずつまらないことを言うのね」くすくすと笑って、ロゼリアはグラスをかたむける。「こうして会いに来てくれたということは、私のお願いを聞いてくれる気になったってこと?」
上目遣いに見上げてわずかに首をかしげると、ガゼルは彼女のグラスを取り上げて脇へどけた。
「いいえ、違いますよ」
「じゃあ、何かしら。何か別の遊び方を考えてくれたの?」
「あなたのおっしゃる遊びは、物騒でいけません」
「そうかしら。私はお隣と仲良くしようとしているだけよ。そもそも親戚なんだから、仲良くするのは当然だと思わない?」
「仲良くとおっしゃるのであれば、侵略してはいけませんね」
ロゼリアは少し不快そうに眉をよせた。
「国境の結界を解く気がないんなら、どうして現れたのよ」
シノワはぎょっとしてロゼリアを見返した。国境の結界とは、クリフォードが最後にかけた魔法のことだろうか。
「【星】をお返し願おうと思いまして」
ガゼルがそう言った瞬間、店の中がふと薄暗さを増した気がした。
「なぜ?」
「そろそろ、魔法を封じようと思います。あなたもよく羽を伸ばされたようですし、もう充分でしょう」
「私は戻るつもりなんかないわよ」
「ええ、かまいません。【星】を返していただけるのであれば」
「嫌よ」
「そうでしょうね」
「この子 は私の物よ」
ロゼリアが笑った瞬間、店の景色がぐにゃりと曲がった。それはシノワだけに見えたわけではないらしく、傾いた床にそってテーブルがずれ始め、置いてあったグラスが滑り落ちて割れた。それを合図のようにして、店内が大騒ぎになった。
「わっ」
シノワもまた、曲がった床に足を取られて転びながら、倒れこんできた酔っ払いを何とかよけ、ガゼルを見上げると、ガゼルは斜めになった床に揺らぐことなく立っていた。そして杖を動かそうとしたその時、ロゼリアの首飾りについていた石から、唐突に何かの蔓 のようなものが伸び広がった。
「ずいぶんお待ちしましたよ」
聞き覚えのある、まろやかな声だった。
長い、銀色の髪がなびく。
「ユル──」
ロゼリアを後ろから抱え込むようにして降り立ったのは、まぎれもなくノービルメンテ学院長、ユル家当主ジュスト・ユルだった。手には、真っ直ぐに尖った白く美しい杖があった。
ガゼルが杖をにぎり直した瞬間、ガゼルの足元に淡い光がはしり、シノワはハッとして叫んだ。
「ガゼル!」
何か強い力に突き飛ばされた感覚があり、気がつくとシノワは店の外にいた。あわてて辺りを見回すと、少し離れた場所にガゼルの姿があり、彼は何か驚いた様子で自分の手を見ていた。
そして近づいてくる人影に気がつくと、杖をかまえる。
「あなたは昔から、詰めが甘いんですよ」
そう言って学院長がガゼルに杖を向けた瞬間、目を開けていられないほどのまばゆい光が四方に散り、その光と共にガゼルは吹き飛ばされて、地面に叩きつけられた。
「ガゼル!」
シノワはとっさにガゼルに駆けよろうとしたが、その目の端に映った青い瞳に気づいて、足を踏みしめ、体をひるがえす。まだ何か魔法を使う気なのだとシノワにはわかったのだった。
美しい杖から魔法の光がほとばしる。
シノワは腰に吊った剣を抜き放った。
魔法など斬ったことはない。けれど。
振り抜いた剣にしびれるような手応えがあり、パリンとガラスが割れるような音がして、光が砂のように粉々に砕けて舞い散った。
学院長の青い瞳が驚きに見開かれるが、シノワは動きを止めなかった。
続けざまに振った剣が、カンと鳴って、彼の杖を中程で切断する。
しかし、その切り落とされた杖の先が地面に落ちたときには、学院長の姿はその場からかき消えていた。
激しい鼓動と共に荒い息をつき、シノワは辺りの様子をうかがったが、先の切り落とされた杖と、枯れた草が残されているだけで、もう学院長の気配はどこにもなかった。この騒ぎで店にいた人々が、酔っておぼつかない足取りで逃げ惑っていたが、ロゼリアの姿もまた消え失せていた。
それを確認した瞬間、背筋をぞっと冷たいものが這い上って、シノワは剣をにぎったまま、転 ぶようにしてガゼルの元へ駆け寄った。
「ガゼル!」
呼んでも、ガゼルは力なく地面に横たわったまま動かなかった。
どくりと、耳の奥に鼓動が響く。
「ガゼル! ガゼル!」
揺さぶってみるが、ガゼルは固く目を閉じたままで、指先ひとつ動かさない。司祭はすぐに傷も治るはずだったが、顔には擦り傷ができ、まだ血がにじんでいた。のどの奥がひゅっと鳴った。
「ガゼル! 起きてください! ガゼル!」
ガゼルの法衣 をつかんで揺さぶると、バシッと何かが額に当たった。それを振り払うと、またバシッと額を叩かれてよろめく。見れば、そこにはロンの姿があった。
「ロン! ガゼルが! どうしよう!」
ロンはしきりに何か言っていたが、やはりシノワにはその言葉がわからない。
「ロン、ちょっと後にして。どうしよう、早く医者に……」
シノワがおろおろと立ち上がろうとすると、ロンが何かわめきながら、ビシビシとしっぽでシノワの額を打った。
「もう、何なんだよ!」
イライラとロンの方を見ると、ロンは何か小汚い塊を口にくわえて、後ろ足に持った小さな紙きれをシノワの目の前に突き出した。そこにはあわてて書いたような汚い字で「ガゼル」と書いてあった。
「なに? ガゼル?」
シノワが眉を寄せると、ロンがくわえている薄汚れた塊が、もそりと動いた。よく見れば、それは汚れて片目の取れかかったクマのぬいぐるみだった。
「や、やあ、シノワ……」
シノワはぽかんと口を開けたまま固まった。
まぎれもなくそれは、ガゼルの声だった。
まだ昼間ということもあってか、どうにもだらしのない身なりをした者ばかりが目についた。一人で何かブツブツ言いながら酒をあおる者、何人かで集まって愚痴を言う者、テーブルを枕に眠る者。
それを横目に見ながら、シノワはガゼルを追って店の奥へと入っていった。奥と言ってもたいした広さのない店で、カウンターがあるほかには、テーブルが四つしかない。
そのうちのひとつに、その女の姿があった。金の巻き毛が美しく、大きな目や酒にぬれて艶めいている唇に、シノワは思わずどきりとした。
彼女の肩には、毛皮の
ガゼルがテーブルの横で立ち止まると、女は長いまつげを持ち上げてガゼルを見た。
「まあ、久しぶりねガゼル」
女はなまめかしく言って微笑んだ。酔っているのか、目の奥がどんよりしている。
「お久しぶりです、ナウシズ様」
ガゼルが軽く会釈すると、彼女はその整った眉をぎゅっとよせた。
「その名前で呼ばないで」
「では、ロゼリア」
彼女は満足げに笑む。
「まだ日も高い内から、こんなに強いお酒をお召しになるとは、いただけませんね」
「まあ、相変わらずつまらないことを言うのね」くすくすと笑って、ロゼリアはグラスをかたむける。「こうして会いに来てくれたということは、私のお願いを聞いてくれる気になったってこと?」
上目遣いに見上げてわずかに首をかしげると、ガゼルは彼女のグラスを取り上げて脇へどけた。
「いいえ、違いますよ」
「じゃあ、何かしら。何か別の遊び方を考えてくれたの?」
「あなたのおっしゃる遊びは、物騒でいけません」
「そうかしら。私はお隣と仲良くしようとしているだけよ。そもそも親戚なんだから、仲良くするのは当然だと思わない?」
「仲良くとおっしゃるのであれば、侵略してはいけませんね」
ロゼリアは少し不快そうに眉をよせた。
「国境の結界を解く気がないんなら、どうして現れたのよ」
シノワはぎょっとしてロゼリアを見返した。国境の結界とは、クリフォードが最後にかけた魔法のことだろうか。
「【星】をお返し願おうと思いまして」
ガゼルがそう言った瞬間、店の中がふと薄暗さを増した気がした。
「なぜ?」
「そろそろ、魔法を封じようと思います。あなたもよく羽を伸ばされたようですし、もう充分でしょう」
「私は戻るつもりなんかないわよ」
「ええ、かまいません。【星】を返していただけるのであれば」
「嫌よ」
「そうでしょうね」
「
ロゼリアが笑った瞬間、店の景色がぐにゃりと曲がった。それはシノワだけに見えたわけではないらしく、傾いた床にそってテーブルがずれ始め、置いてあったグラスが滑り落ちて割れた。それを合図のようにして、店内が大騒ぎになった。
「わっ」
シノワもまた、曲がった床に足を取られて転びながら、倒れこんできた酔っ払いを何とかよけ、ガゼルを見上げると、ガゼルは斜めになった床に揺らぐことなく立っていた。そして杖を動かそうとしたその時、ロゼリアの首飾りについていた石から、唐突に何かの
「ずいぶんお待ちしましたよ」
聞き覚えのある、まろやかな声だった。
長い、銀色の髪がなびく。
「ユル──」
ロゼリアを後ろから抱え込むようにして降り立ったのは、まぎれもなくノービルメンテ学院長、ユル家当主ジュスト・ユルだった。手には、真っ直ぐに尖った白く美しい杖があった。
ガゼルが杖をにぎり直した瞬間、ガゼルの足元に淡い光がはしり、シノワはハッとして叫んだ。
「ガゼル!」
何か強い力に突き飛ばされた感覚があり、気がつくとシノワは店の外にいた。あわてて辺りを見回すと、少し離れた場所にガゼルの姿があり、彼は何か驚いた様子で自分の手を見ていた。
そして近づいてくる人影に気がつくと、杖をかまえる。
「あなたは昔から、詰めが甘いんですよ」
そう言って学院長がガゼルに杖を向けた瞬間、目を開けていられないほどのまばゆい光が四方に散り、その光と共にガゼルは吹き飛ばされて、地面に叩きつけられた。
「ガゼル!」
シノワはとっさにガゼルに駆けよろうとしたが、その目の端に映った青い瞳に気づいて、足を踏みしめ、体をひるがえす。まだ何か魔法を使う気なのだとシノワにはわかったのだった。
美しい杖から魔法の光がほとばしる。
シノワは腰に吊った剣を抜き放った。
魔法など斬ったことはない。けれど。
振り抜いた剣にしびれるような手応えがあり、パリンとガラスが割れるような音がして、光が砂のように粉々に砕けて舞い散った。
学院長の青い瞳が驚きに見開かれるが、シノワは動きを止めなかった。
続けざまに振った剣が、カンと鳴って、彼の杖を中程で切断する。
しかし、その切り落とされた杖の先が地面に落ちたときには、学院長の姿はその場からかき消えていた。
激しい鼓動と共に荒い息をつき、シノワは辺りの様子をうかがったが、先の切り落とされた杖と、枯れた草が残されているだけで、もう学院長の気配はどこにもなかった。この騒ぎで店にいた人々が、酔っておぼつかない足取りで逃げ惑っていたが、ロゼリアの姿もまた消え失せていた。
それを確認した瞬間、背筋をぞっと冷たいものが這い上って、シノワは剣をにぎったまま、
「ガゼル!」
呼んでも、ガゼルは力なく地面に横たわったまま動かなかった。
どくりと、耳の奥に鼓動が響く。
「ガゼル! ガゼル!」
揺さぶってみるが、ガゼルは固く目を閉じたままで、指先ひとつ動かさない。司祭はすぐに傷も治るはずだったが、顔には擦り傷ができ、まだ血がにじんでいた。のどの奥がひゅっと鳴った。
「ガゼル! 起きてください! ガゼル!」
ガゼルの
「ロン! ガゼルが! どうしよう!」
ロンはしきりに何か言っていたが、やはりシノワにはその言葉がわからない。
「ロン、ちょっと後にして。どうしよう、早く医者に……」
シノワがおろおろと立ち上がろうとすると、ロンが何かわめきながら、ビシビシとしっぽでシノワの額を打った。
「もう、何なんだよ!」
イライラとロンの方を見ると、ロンは何か小汚い塊を口にくわえて、後ろ足に持った小さな紙きれをシノワの目の前に突き出した。そこにはあわてて書いたような汚い字で「ガゼル」と書いてあった。
「なに? ガゼル?」
シノワが眉を寄せると、ロンがくわえている薄汚れた塊が、もそりと動いた。よく見れば、それは汚れて片目の取れかかったクマのぬいぐるみだった。
「や、やあ、シノワ……」
シノワはぽかんと口を開けたまま固まった。
まぎれもなくそれは、ガゼルの声だった。