第10話

文字数 3,424文字

 外観はさることながら、ラーグの邸宅は部屋の中も相当なものだった。

 建物は真ん中がぽっかりと空いた形になっており、その空間には手入れの行き届いた庭があった。それを回廊が囲み、その奥には広いホールや客間などがあり、居住空間は全て二階より上になっているらしかった。
 美しい絵画のかかった廊下を抜けて、二人が通されたのは、シノワの予想に反して最上級とおぼしき客間だった。
 シミはおろかチリひとつ見あたらないカーペットに、美しい水の流れを虹色の貝で描いたテーブル。座り心地のいいソファには、金の房飾りの付いたクッションがそえられているし、銀糸を織り込んだカーテンが日の光を浴びてきらめいていて、どれをとってもガゼルの自宅とは比べものにならない。もしガゼルがこういう所に住んでいたのだとしたら、すぐに司祭だと認めたのに、とシノワは思った。
 そんなことを考えていると、やはり口が開いたままになっていたらしく、シノワはガゼルにアゴを下からポンと叩かれた。

 しばらくして、扉が開かれ、彼女が姿を見せた。
 ラーグ家当主エイラ・ラーグもまた、深い緑のドレスをまとっていた。しかし、先ほどの女性のそれよりもはるかに質のいい、銀の縁取りのあるひだ使いの華やかな物だった。少し青みを含んだような不思議な茶色の髪は複雑に結い上げられ、所作がとても美しかった。一見少女のようにも見えるが、ずっと年上のようにも見える、不思議な感じのする女性だった。

 貴婦人という言葉は、この人のためにある言葉なのではないかとシノワは思った。こんな相手をアイツ呼ばわりするなんて、やはりガゼルはどうかしている。 彼女の視線が、やはりガゼルの物干し棒をかすめ、シノワは体を強ばらせたが、エイラは優雅な仕草でガゼルに腰を折った。
「お久しぶりでございます、ウィルド」
「久しぶりですね、ラーグ」
 ガゼルはシノワに言うのと同じように朗らかに言い、隣に立ったシノワの方がそわそわと頭を下げる。ガゼルが市場に行くような気軽さで出かけたため、シノワは旅に薄汚れた服を着ていて、正装である制服は家に置いてきてしまったが、もう少しまともな服装で来るべきだったとシノワは少し顔を赤らめた。
「そちらのお方は」
 エイラの静かな目で見すえられて、シノワはがっちりと固まった。その肩をガゼルがぽんぽんと叩いて座らせた。
「彼はシノワ・エオロー。散歩の道連れです」
 このひどい旅が散歩とはなんだと、シノワはガゼルをふり返ったが、ガゼルはにこりと笑う。エイラはガゼルの雑な紹介をさして気にした風でもなく、ふわりと微笑むと、彼らの前に据えられているソファに、やはり緩やかな所作で腰かけた。

「突然のことで驚きましたわ。わざわざお越しにならなくても、お呼びいただければいつでも参りましたのに」
 実際には、家は壊して鹿に変えてしまったのだが、ガゼルは、うちは散らかってますから、と言って笑った。家があったとして、あんな所にこの貴婦人を呼びつけるような無礼は、さすがのガゼルも気が咎めるのかもしれない。

「今日来たのは他でもありません。やっぱり私は魔法を封じようかと思いまして。そこで、まずあなたにおうかがいを立てに来たんですよ」
 反対する者もいるかもしれないと言っておきながら、何て単刀直入なんだとシノワは緊張したが、エイラは、まあ、と言って驚いた顔を作ると、先ほど執事が運んだお茶をひと口含む。
「また急なお話でございますね」
「どう思いますか?」
 ガゼルが問うと、エイラはくすくすと笑う。
「答えはおわかりのはずでしょう?」
「ええ。でも、ちゃんとあなたの口からうかがいたいと思いまして」
 それを聞くと、エイラは少し表情を緊張させたように見えた。
「わかりました。ラーグは、ウィルドがお決めになったことであれば、何であれ従いますわ」
 そう彼女が言った時、彼女の口元から淡い光がこぼれ、ふわりと曲線を描いてガゼルの手のひらに落ちた。
「確かに受け取りました。ありがとうございます、ラーグ」
 ガゼルはその手のひらにある光を大事そうに両手で包むと、法衣(ウルムス)の内側へそっとしまった。

「それじゃあ、失礼するとしようか、シノワ」
「もうお帰りになるのですか」
「ええ。また、いつお会いできるかわかりませんが、お元気で」
 そう言ってガゼルが頭を下げると、エイラは引き留めるようにガゼルの名を呼んだ。
「本当におやりになるのですか?」
 ええ、とガゼルが笑ってみせるが、エイラの表情は硬かった。
「わたくしは今申し上げた通り、ウィルドのお考えに従いますが、他にはそうお考えにならない方もいらっしゃいますよ」
「わかっています。彼らの意見も尊重するつもりですよ」
 そう言ってガゼルはもう一度腰を折り、また固まっているシノワの腕を引いて、執事の開いた扉から出て行った。




「なんだ、まだ緊張しているのか?」
 シノワは先ほどから胸の辺りをさすってばかりいた。
「だって、本当にラーグ家の当主にお会いするだなんて、思ってもみませんでしたから」
「私に会うのは緊張しなかったのか?」
「だってふつう、あんな路地裏に司祭がいるとは思いません」
「君は案外、見た目に惑わされやすいんだな」
「ガゼルこそ、司祭だと思われたいなら、もう少しそれっぽくしたらどうですか。その法衣だって下っ端の魔法使いの法衣(ウルムス)でしょう? 階級が上がるごとに色が濃くなるって本に書いてありましたよ」
 ガゼルはやれやれと息をついた。

「さあ、シノワ。今日の内に市場で旅支度をしておこう。明日にはここを発つぞ」
「もう発つんですか?」
「用は済んだ。何をこんなところで粘る必要がある」
 え、と言ってシノワは目を丸くする。
「さっきの口約束で終わりなんですか? 何か誓約書みたいなものを……」
 シノワの言葉をさえぎるように、ガゼルはまたチチッと舌打ちをする。
「ちゃんともらった」
 言いながらガゼルは法衣(ウルムス)の下から小さなダイスのようなものを取り出し、シノワの目の前につき出して見せる。何かの石でできているらしいその六面体には、深い緑の文字がひとつ光っていた。(ラーグ)を意味する古い文字である。
「これが証文だ。さっきラーグの口から言葉の法印(タウ)が出たのを見ただろう」
「あれって、そういう意味があったんですか」
「これが魔法使いの証文だ」
 シノワは手のひらにダイスをもらうと、コロコロと転がしてみる。見れば見るほど不思議なダイスで、文字は彫ってあるのかと思ったが、表面に光が浮いているらしく、傾けるたびにゆらゆらときらめいた。

「この手の証文は、約束を守らないと命を落とすから、大抵の場合は守ってもらえる」
「ええ! そんな物騒な代物なんですか?」
 ラーグの当主はあっさりと証文をくれたが、命がけだなんてそんなものをあんなに簡単にわたしてしまっていいのだろうかと、シノワは心配になった。
「これは約束を守ってもらうための物だからね。これは古代魔法だから君にも作れるよ。さあ、そんなことより市場へ行こう。ちゃんとした旅支度というものを教えてやる」
 意地悪く笑って、ガゼルは口をとがらせているシノワの手から、ダイスをつまんで法衣(ウルムス)のポケットにしまった。



 細い小道を抜け、少し広いが薄暗い通りに出たところで、シノワは小さな足音を聞いたように思った。何気なくふり返ってみるが、そこには敷石が鈍く日の光を返すだけで、誰の姿もない。気のせいかとシノワが納得しかけたところで、ガゼルがくすりと笑う。
「気がついたかい?」
 何に、とシノワが言いかけると、またコツコツと小さな靴音が耳へ届き、今度はさらさらと衣擦れの音がそれに続いた。それは薄暗い路地の風景と相まって、不穏なものをはらんでいるように思われた。
「何だろう」
 なかば独り言のように言って、シノワはもう一度後ろをふり返る。
「ずっとついてきているんだ。いったい何の用があるんだろうね。人違いだといいんだけど」
 ガゼルはどこか楽しげに言い、ぴたりと歩みを止めた。
 すると直角に交差した小道から、どうにも善人には見えない風体の男が姿を見せた。
「これはこれは」
 ガゼルはシノワの腕をつかむと、唐突にかけだし、シノワはつんのめるようにしてそれについて走る。
「どうしたんですか?」
「あいつはまずい。物騒な法印(タウ)を持ってる」
「は?」
 シノワはますます混乱してガゼルを見る。男が物騒な法印(タウ)を持っているのなら、なぜガゼルは彼に向かって走っているのか。
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