第36話

文字数 3,275文字

「そんな大変な思いをするんなら、どうしてクリフォードさんは魔法を解放することにしたんですか? そもそも解放なんかしなければよかったんじゃないですか」
「子どもが転びそうになるのを、母親がいちいち手を出して助けてちゃ、子どもはバカになる一方じゃないか。一度転んでみなけりゃ、地面の固さも、すりむいた膝の痛みがどんなものかもわからないだろう。それと同じことだよ。魔法が国中に広まってから、あんたはそれが危険だと気付いた。違うかい?」
 シノワは力なくうなずいた。ジーナの言うとおりだった。

「クリフォードが魔法の解放を決断したことも、あんたが魔法を封じた方がいいと思ったのもきっと正しい。だけど、今はまだその時じゃない。今やれば、まだ魔法を封じることへの不満の方が強い」
「もっとテサ中がダメになってからにしろってことですか?」
「まあ、そうなるかね」と言ってジーナは少し笑った。「とにかく、私は今魔法を封じることには反対だよ。こんなデタラメな国を望んだのは国民や国王自身だからね。もう少しじっくりとデタラメ具合を味わえばいいのさ」
 ジーナはフウと煙を吐くと、カツンとキセルの灰を落とす。そしてじっとカップに残ったお茶に目を落としているシノワに、ふと表情を緩める。
「長話がすぎたかねえ。ガゼルが聞いてたら怒るだろうね」
 そう言ってジーナはまたいつものようにフェッフェと笑ったが、シノワはゆるゆると首をふった。
「ガゼルが怒るとしても、聞いてよかったです。僕は、本当に何も知らなくて」
「あんたはいい子だね」
 シノワはブンブンと首をふった。
「ガゼルみたいなこと言わないでください。僕はただ、何も知らないでいい気になってただけなのに」

──君は幼なじみや、知らない誰かの心配をして、旅を続けた。これが君の一番の財産なのに、君はそれを知らないのかい?

 本当にそんなちっぽけなことが重要なのか、シノワにはよくわからなかった。




 結局夜が明けても、日が高くなっても、ガゼルは起きてこなかった。

 その間シノワは、やはりジーナにあれこれ言いつけられて、休む間もなく働いていたが、それがかえってありがたかった。じっと考え込む暇があったら、どんどん悩みの渦に巻き込まれて、学院長の書斎で見た暗がりにふたたび落ちて行けそうだった。

「やれやれ、やっぱり男の子がいてくれると助かるねえ」ジーナはイモの詰まった箱をシノワに運ばせながら、満足げに煙を吐いた。「クロワにでも行ってかわいいのをたぶらかしてこようかね。ま、別にあんたでもかまわないけど」
 シノワがぎょっとしてふり返ると、ジーナは今にもシノワを取って食いそうな笑みを浮かべていたが、すぐに「冗談だよ」と吹き出した。
「さあ、とっとと片付けちまいな。それが終わったら休憩していいから」

 箱を運び終わると、ジーナはまたおいしいお茶をいれてくれた。一口飲むと、じんわりと体に染みわたっていく。朝からずっと畑を耕して(うね)を作るとか、重い荷物を運ぶとかいう重労働にいそしんでいたので、シノワもこの旅の中でだいぶ体力がついたといえ、さすがにくたびれていた。
 ジーナは、また忙しそうに出て行ってしまったので、シノワはいれてもらったお茶を持って、ガゼルの様子を見にいった。やはりガゼルは気持ちよさそうに寝息を立てていた。シノワはそのすぐ脇の床にそっと座り込む。

──魔法を解放した時、すでにこうなることは予想されていたし、忠告もした。しかし誰もそれを真剣に考えようとはしなかった……それもこれも全て国民が望んだことの結果だ。
──あなたは解放の時反対しなかったんですか? 僕がその時大人だったら絶対に反対しました。

 ガゼルに初めて会った日の会話を思い出してみて、シノワは深々とため息をついた。
 無知というのは恐ろしい。本当に何も知らなかった。魔法が解放になる前、国がどんな風だったのかも、司祭がどういう風に生まれるのかも、どんな風に魔法が解放されたのかも。そもそも、魔法など司祭の力を持ってすれば、本を棚に戻すぐらい簡単に封印できると思っていた。それなのにどうして司祭はほったらかしにしているのだろうかと、お門違いなところへ腹を立てて、立派な人間になった気になっていた。

──君はどうしたい?

 ガゼルは本当のところ、一体何を思っているのだろうか。どうしていつもシノワがどうするかに重点を置くのだろう。そんなことをぐるぐると考えていると、そっと睡魔が忍び寄ってきてまぶたが下がる。今とても大事なことを考えているというのに、眠気に負けそうになる自分にシノワは自己嫌悪がつのった。

「眠るならベッドへ行きたまえよ」

 声が聞こえた気がしたが、シノワの意識は吸い込まれるように眠りの底に沈んでいった。
 シノワの規則正しい寝息が聞こえ始め、ガゼルはやれやれとソファから体を起こすと、だるそうに額に手をやった。

「目が覚めたかい」
 顔を上げると戸口にジーナの姿があった。
「たぶん」
 ガゼルがだるそうに答えると、ジーナはそばのテーブルにお茶の入ったカップを置きながら「こっちは寝ちまったのか」とソファにもたれて眠ってしまったシノワに笑った。そしてシノワにブランケットをかけると、ガゼルをのぞき込む。
「本当にお前はこの土地が合わないね」
「どうもここはダメだね」
「きっと魂に傷があるんだよ。誰にだってそういうことはあるもんさ」
「司祭にもそんなものがあるのかな」
 ガゼルが自嘲気味に笑うと、ジーナはカップを手渡し、ガゼルは濃いめに煮出したお茶をすすった。

 命は全て、天にある星から降りてくる。夜空で輝いている無数の星である。魔力の根源である【星】と区別するために、命の根源を【天の星】、魔力の源を【地の星】と分けて呼ぶこともある。

 この【天の星】は多くの命が集まってひとつの【星】になっている。そこからひとつずつ戻ってきた魂が地上で生き、命を全うすると再び【天の星】の元に戻る。そして、また時が来れば地上に降りて生きるのだ。それがこの世の生命の繰り返しだった。

 星から戻って来るたびに、それまでのことを全て忘れて全く別の人間となり、全く別の人生を生きるのだが、かつての人生の傷を引きずってしまうことがあるらしい。かつて自分が大怪我をした部分が痛んだり、自分を殺した人物の魂を忘れられず、初めて会った瞬間から嫌悪感を感じてしまう人がいたり、苦しい思い出のある場所を覚えていたり。そういうものを古くから《魂の傷》と呼んでいるのである。

 しかし、司祭はそういった普通の人々の輪廻の外にいる存在であり、司祭は何度生まれ変わっても司祭にしかなれない。そういうものだった。だから、そんな自分に《魂の傷》などというものがあるのかガゼルにはわからなかったが、どうもアナシに来ると、得体の知れない重みと息苦しさに苛まれるのも確かなのだった。

「でも、アナシがジーナの所で良かったよ。これがラメールだったら、本当にまいってたところだ」
「もうジュストの所へ行ったんだろう? 魔法封じに協力するって証文をわたしたって聞いたけど、本当かい? あの人が素直にお前に協力するとは思えないけど」
「ユルはシノワの意志に従うってさ」
「なんだいそりゃ」
 小首をかしげるジーナに、ラメールでのことを話すと、ジーナは不安げな顔つきになる。
「相変わらずだね、あの人は。お前、本当に気をつけなくちゃいけないよ」
「もう宣戦布告された」とガゼルは肩をすくめる。「自分の力を過信するなって、わざわざ私に言ってきたから、何か考えがあるんだろう」
 そう言ったところで、ガゼルはふと何かに気づいた様子で眉をひそめ、シノワのブランケットをはぎ取って、彼の上着のポケットに手を突っ込んだ。
「わっ、な、な、何ですか」
 目を覚ましたシノワが何事かと、寝起きで力の入らない手足をじたばたさせている間に、ガゼルはポケットに入っていたらしい何かを、思いきり窓の外に放り投げた。

 パリン、と何かが割れる音がした。ややあって、木々が風に吹かれてざわめくような音が広がる。
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