第13話

文字数 3,496文字

「うわあああ!」
 叫んでいる間にも水面はぐんぐん近付いてくる。シノワが死を覚悟しかけた時、ガゼルがシノワの手を強くつかんだ。

 ポヨン

 そんな感覚にシノワが目を開くと、水面は大きくたわんで本当に彼らを受け止めていた。溺れるどころか、ぬれることすらなく、二人は水に浮かぶ落ち葉のように水面に立っていた。そして彼らが落ちた衝撃で起こった波に揺られながら見上げると、ガゼルの笑みにぶつかった。
「ほらね」
 言ってガゼルは広場の端に目をやる。つられてシノワもふり返ると、そこには見覚えのある深緑のドレスがひらめいた。
「ウィルド、それぐらいに」
 水の魔法使いエイラ・ラーグは、やはり静かな目でガゼルたちを水中から見上げていた。そこでシノワはようやく、自分たち以外の人間はみな、溺れるでもなく、水中を右往左往していることに気がついた。彼らには水が見えてもいないようだった。

「申し訳ない。少々やりすぎましたか」
 波に揺られながらガゼルが頭をかくと、エイラは小さく首をふり、手のひらを打ち合わせた。すると潮が引くように水位が下がり始める。
「ここはわたくしに免じてお収めくださいませんか」
「もちろんです」
 ガゼルが低くなった水面から飛び降りると同時に、水は空気に溶けるようにして消えた。当然の如くシノワは支えを失って地面に落ち、情けなく尻もちをついてしまった。

 しかしあらためて見回してみると、あれだけの炎が渦巻き、あれだけの水が押し寄せたのに、どこもこげてはいないし、ぬれてもいない。何かが壊れた様子もないし、ひとつ変わったことと言えば、あれだけ集まっていた市場の人混みがまばらになったことぐらいだった。まだ幻の中にいるような気がして、シノワは何度も頭をふった

「先頃流行している、アクロについてでございますね?」
 エイラは、意識を失ってすぐそばに横たわっているザインに、チラッと目をはわせる。わずかに前髪が焦げて縮れてしまっていた。
「ええ。その商人についてはあなたにお任せします。処分するなり、見逃すなり好きにしてください」
 その言葉にシノワがぎょっとしてふり返ると、ガゼルはなだめるようにシノワの背をポンポンと叩いた。
「ご迷惑かとは思いますが、私たちは明日にもクロワを発ちますから。よろしくお願いします。まあ、その他のことについては、また後ほどあらためてご連絡いたしますよ」
「いえ、これもわたくしの不徳の致すところ。謹んでお受けいたしますわ」
 そう言ってエイラが頭を下げると、ガゼルも礼を返す。
「しかしまあ、旅支度、できそうにもないな」
 ガゼルは苦笑すると、まだ足のガクガクしているシノワを抱えるようにして市場を後にした。


「エイラ様」
 ささやくような声にエイラは顔を上げ、差し出された手に自分のそれを重ねる。執事はすぐ脇にとまった馬車へうやうやしく彼女を導いた。
「大胆にやってくださいましたわね」
 エイラがため息混じりに言うと、執事は忌々しそうにガゼルらが去った方を見やった。
「この建物のひしめく街で炎を使うなど、司祭のなさることとは思えない」
 それを聞くとエイラは、ふふっと笑った。
「お前の目は節穴ね。ウィルドはあえて炎をお選びになったのです。ここクロワは水の魔法使いラーグの街。炎のエレメントは水に勝てません。それは全エレメントの魔法が解放されようと、くつがえすことのできない(ことわり)です。仮にウィルドにその気がおありでも、炎は不利だと思いませんか?」
「浅はかなことを申しました。どうかお許しを」
「こうなってはもう放ってはおけませんから、取り締まりを行います。そちらの準備も頼みますね」
「かしこまりました。あの者たちはいかがいたしますか」
「ひとまずうちで拘束するしかないでしょう」
 そう言ってエイラはザインたちを一瞥し、馬車へと姿を消した。




 部屋の鍵を手渡すと、宿の主人が何か思い出したという風に、ひょいと瞳を天井へ向けてからシノワをふり返った。
「昨日は市場ですごい騒動があったらしいが、巻き込まれなかったかね?」
「ああ、ええ。大丈夫でした」
 シノワが曖昧に笑うと、主人はそれはよかったと言って、シノワの抱いている黒猫ののどをなでた。猫は猫らしくゴロゴロとのどを鳴らす。

「何でも、今流行りのアクロの店が燃えたらしい。そればかりか、町中のアクロが突然燃え出して、灰になっちまったんだとよ。こりゃ魔法使いのしわざに違いないな。あのおもちゃでザインの野郎ずいぶんともうけてやがったんで、憎らしいかぎりだったが、いろんなツケが回ってきたんだろうなあ」
 いい気味だ、と主人はにやりと笑ってみせた。
「あの、ご主人はあのおもちゃを持っていらっしゃらなかったんですか?」
 シノワが問うと、主人は親指を立ててクイと部屋のすみを指す。そこには小さな飾り棚がこしらえてあり、その上には色鮮やかな花束が飾られていた。
「アクロが出始めの頃、女房にひとつ買ってやったんだ。たいそう喜んで、いまだにああして飾ってやがるんだよ。もうずいぶん前の話だが、きれいなもんだろう?」
 そう言って主人は少し照れくさそうに笑う。それを少し複雑な思いで聞くと、シノワは主人に丁寧に礼を言って宿を後にした。

「当主はザインたちをどうするんでしょうか」
 シノワはいろいろなことに思いを巡らせながら、ぽつりと言葉をこぼす。
「さあね」ガゼルは何でもない風に言って、複雑な顔をしたシノワに笑った。「ザインは多分、本当にただの商人だ。そしてアクロの元締めはラーグ当主、商売相手もどこかの当主ってところだろう。あんな物騒な物を何に使うつもりなのか知らないけど、まあ、売れれば金になる」
「まさか!」
「昨日も言ったけど、本拠地で当主の目を盗んで、あんなに大きな魔法の商売ができるはずないじゃないか。まったく、あんなにおおっぴらに規定違反をして、私が黙ってると思ってるとは心外だ」
「放っておこうとしてたじゃないですか」
 そもそも取り締まるどころか法庁(バーカナン)にもいないで、行方不明になっていたではないか。
「ものには限度ってものがある」
 と、ガゼルは口を尖らせた。

「でも、結局当主本人に全部任せてしまって、どうするんですか?」
法庁(バーカナン)の方から、正式に厳重注意処分とアクロの販売禁止命令を出すよ」
 それを聞くと、シノワは素直に安堵の表情を見せた。
「よかった。これで丸く収まりますね」
 ガゼルはやれやれと首をふる。
「甘いな、君は」
「何がです?」
「たぶん他の当主も関わってるって言ったじゃないか。解決と言うにはまだ早いよ」
「どうして商売相手は他の当主だと思うんです?」
「こんな大きな規定違反の商売を一般人ができるはずないって。元締めのラーグのいるクロワはともかく、よその土地でやったら、他の当主に咎められる危険があるじゃないか。実入りのいい商売ってのは、やっかまれるもんだからね。さっきも宿屋のご主人だって、いい気味だって言ってたろう。そういう話がこれまで出てきてないってことは、他の当主が関わってるんだよ」
「そんな……」
「それに、もうアクロの害はなくなったが、楽しみもなくなった。宿屋のご主人のように、ただ楽しみのために買った人たちもたくさんいたんだ」
「で、でも、不正はダメですよ」
「もっと言えば、この一件で失業して、路頭に迷うはめになった人がどれぐらいいると思う? 規定違反でも、あれで町は潤ってたんだ。彼らにとっては私は商売をつぶした悪人でしかないじゃないか。他の規定違反も山ほどあるのに、どうしてアクロだけ取り締まったんだって言われたら、私もごめんねって謝るしかないし」
「それは……」
「この世は微妙なバランスの上に成り立ってる。良いか悪いか、はっきり分けられるものなんて、そんなに多くはないんだよ、シノワ」

 シノワは何か言い返そうと何度か口を開きかけたが、結局何と言うこともできずにうつむいた。
 そうして二人が黙ると、とたんに、ガタゴトと荷車の車輪の音が大きく響く気がした。あれだけひしめいていた家々もまばらになり、道の先には緩やかな丘が待ちかまえている。

「さて、日が暮れるまでにはあの丘を越えよう。丘の向こうを半日も行けば湖があるぞ。たどり着いたら魚でも釣ろう」
 ガゼルは目の上に手をかざして朗らかに言った。
「でも、やっぱり、ガゼルのしたことは間違ってないと思います」
 ぽつりとシノワが言うと、そう? とガゼルがふり返る。
「はい。きっと」
 シノワがいくらか力を込めて言うと、君はいい子だね、と言ってガゼルはおかしそうに笑ったが、その足取りの軽いところを見ると、まんざらでもないようだった。
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