第29話
文字数 3,357文字
なかなか戻ってこないシノワを探しにクロードが部屋を出て行き、やれやれとガゼルもまた屋根から降りる。いったいどこでぼんやりしているのか、と探ってみるが、シノワの気配がどこにもなかった。ガゼルは眉をひそめると、クロードが去ったのとは別の方へと歩き出す。
とある十字路に来たとき、ふとガゼルの目に魔法の気配が映った。ひらひらと舞うそれをしばらく目で追うと、ガゼルはきびすを返した。
ぶしつけに開かれたドアに、ジュスト・ユルはその整った眉をひそめた。
「ユル、シノワの行き先を知っていますね」
入るなりガゼルはそう言って、止めようとする秘書を押しのけて彼の机に大股に歩み寄った。
「騒々しいですね。そんなに心配なら、きちんと見張っておいてくださらないと」
少しぐらいしらをきるかと思ったが、ジュストはそう言っておだやかに微笑した。それにガゼルは何かを読み取って眉をひそめる。
「何をしたんです?」
「そんな目で責められるようなことは何も。私はあの子に本当の危険について教えてあげただけです。これでも教師ですからね、知識は惜しみなく与えてあげなければ。自分はこんなに危険なことをしていたのかと、驚いていましたよ」
「……シノワはどこですか」
「足がすくんでしまったようなので、森で休ませています。心の問題は魔法ではどうしてあげることもできませんからね。まあ、司祭のあなたなら何とかしてあげられるかもしれませんが」
そう言ってジュストが息をつくと、ガゼルの瞳が鋭さを増した。
「あなたがこんな陰湿なことをするなんて思いませんでしたよ」
吐き捨てるように言って、出て行こうとするガゼルをジュストが呼び止める。
「証文を差し上げましょう」そう言ってジュストは軽く息を吸い、ふたたび口を開く。「ユルは魔法の封印に関し、シノワ・エオローの意思を尊重する」
ジュストの口からこぼれ出た光を、ガゼルが両手で受け取った。ダイスに新たに木を意味する夜空色の文字が浮かび上がった。それをガゼルはぐっとにぎりしめた。
「ユルもあの子に期待することにしましょう。私の所へ伴ってくるほど、あなたが認めた子のようですから、きっと正しく判断してくれることでしょう。しかし、これ以上あの子を苦しめないであげてくださいね。このままお兄さんとお家に帰してあげた方がいいと、私は思いますよ」
「ユル、あなたは何か思い違いをしています。私は魔法を封じたいわけじゃありません」
「では何をお望みなのです?」
ガゼルは、ふと、どこか切ない笑い方をした。
「言葉にしても、きっとあなたにはわからない」
その言葉だけを残して、ガゼルは霧のように姿を消した。
気がつくとシノワは真っ暗なところにいた。何か甘い香りがするような気がするが、どこかはわからない。とにかく何ひとつ見えない。ただ感じるのは重苦しさ。みぞおちの奥がひどく重かった。
自分は何をしていたのだったかと考えると、みぞおちがミシミシときしんだ。その痛みに耐えかねて体を丸めるが、本当に体がそこにあるのかもよくわからなくなる。そうなると、自分が今ここに存在しているかどうかすら曖昧に思えてくる。
恐い──
そう思うと同時に体がぐっと沈み込んで、さらなる深みに引き込まれる感覚に総毛立つ。シノワは浮き上がろうとがむしゃらにもがいてみるが、自分が上がったのか下がったのかわからない。何も見えない。
……ワ…………ノワ
かすかな声が聞こえたように思い、シノワは耳を塞ぐ。しかしその声はどんどん大きくなっていく。
──シノワ、シノワ!
その呼び声が恐ろしくて、シノワはいっそう強く耳を塞いだ。しかし声は黙らない。
──聞けシノワ!
「嫌だ」
──聞け!
「嫌だ。恐い」
──誰が恐いって?
その笑いを含んだ声音に、ふと耳を塞ぐ手をゆるめると、その声をよく知っていることに気がついた。
「誰? ガゼル?」
──そう。そんなところで何してる。
「わかりません。ただ、暗くて何も見えないんです。ガゼル、どこにいるんですか?」
──何も見えないのは君が目を閉じてるからだ。とにかく目を開け。
言われて反射的に目を開こうとすると、とてつもない重みがみぞおちに広がった。
「い、嫌です」
──どうして? そうして目をつぶって、暗闇を眺めてるより恐いことなんかないぞ。
からかうような口ぶりに、シノワは恐る恐る目を開く。そこは相変わらず暗かったが、革の靴が片方目に入る。いつもガゼルが履いている靴である。
──ひどいな君は。私の容姿で一番印象に残ってるのが靴だなんて。
言いながら靴はバタバタと地面を踏みならす。
「すみません。初めて見たのが靴だったので」
そう言ってシノワは頭をかき、それと同時に頭がそこに存在するということを確信する。シノワの体は、やはりここにあった。
──まあいい。とにかく話そうじゃないか。
そう言われて、シノワは自分の胸に巣くっているものが何なのか、少し思い出す。と同時に焼かれるような重みがみぞおちに生まれ、シノワはまた耳を塞ごうと手をやった。
──待て待て。まだ何も言ってない。とにかく聞けよ。
あわてた声にシノワは耳から手を放す。
「すみません、ガゼル。僕は、やっぱりダメです」
──何がダメなんだ。
「ダメなんです。僕のことはもう放っておいてください。僕はもうダメなんです。何もできません」
──聞きなさい。
ぴしゃりと言われて、黙る。
──私は君の信念のほどを見定めると言ったけど、少し言葉が足りなかったかもしれないな。君がここで旅をやめる、魔法封じをやめると言っても、私は腹を立てる気も、君を責めるつもりもないんだよ。
「でも」
──それも一意見として尊重する。だから、もしここで君がもうやめると言ったからって、君にガッカリしたりもしないよ。
「……やっぱりガゼルは、魔法を封じない方がいいと思っているんですか?」
シノワが泣きそうな声を出すと、ガゼルはチチッと舌打ちをする。
──前にも言っただろう、良いか悪いかはっきりと分けられるものは多くないって。世界は複雑にできてるんだ。だから、魔法を封じるのも封じないのも正解で、どちらも間違いだ。
「何ですかそれ」
──どちらを選ぶにせよ、良いことも悪いこともあるってことだ。魔法を封じれば、デタラメな事件や事故は起こらなくなるけど、不便なことも戻ってくる。封じなければ便利な生活が送れるけど、デタラメな事件も増えていくだろう。そしてどちらにも改善の余地はあるし、どちらを選んでも誰かは必ず感謝して、誰かは必ず文句を言う。
ガゼルの言葉がするすると心に落ちてゆき、なるほど、とシノワが思ったときには目の前に物干し棒が立っていた。
──重要なのは、君が何を考えてどっちを選択するかで、君が旅を続けるかどうかじゃない。だから、どっちの未来を選ぶかは君にまかせるよ。君はどうしたい?
ガゼルの姿が全て見えていたら、彼はきっと首をかしげて見せたに違いない。シノワがそう思ったとき、薄い緑の法衣 が現れる。しかしまだ顔は見えない。
「それは僕なんかが決めてしまっていいことなんでしょうか。僕はもう学院を辞めてしまった。もう何にもなれないのに」
またみぞおちのあたりがミシミシときしみ、気がつくと先ほど見えていた薄緑の法衣 が、また闇に呑まれようとしている。
すると、またチチッと軽い舌打ちが聞こえる。
──何言ってるんだ。君は学院を出なければ人間になれないとでも思ってるのか?
「そうじゃないですか。もう僕は兄さんの仕事を手伝うこともできない。ガゼルがいいと言っても、きっと父さんは許してくれないでしょう」
──バカ言うな。私は学院になんて通った覚えはないぞ。そもそも、君は本当に領主の補佐官になりたいのか?
「なりたいです」
──本当にそれが君の望み? それとも、父上やクロードがそれを望むから君も望むのか?
どうだろう、どうだっただろうか。もうそんなことすら忘れてしまった。
古く、領地争いのあった頃は領主の兄弟は荘園を経営したりもしていたが、現在では領地の変動がなく荘園制度もほぼなくなったため、補佐官や側近を務めるのが一般的で、特別な理由でもない限り、そうするものだとシノワは思っていた。他の何かになることなど、考えたことがなかったのかもしれない。
とある十字路に来たとき、ふとガゼルの目に魔法の気配が映った。ひらひらと舞うそれをしばらく目で追うと、ガゼルはきびすを返した。
ぶしつけに開かれたドアに、ジュスト・ユルはその整った眉をひそめた。
「ユル、シノワの行き先を知っていますね」
入るなりガゼルはそう言って、止めようとする秘書を押しのけて彼の机に大股に歩み寄った。
「騒々しいですね。そんなに心配なら、きちんと見張っておいてくださらないと」
少しぐらいしらをきるかと思ったが、ジュストはそう言っておだやかに微笑した。それにガゼルは何かを読み取って眉をひそめる。
「何をしたんです?」
「そんな目で責められるようなことは何も。私はあの子に本当の危険について教えてあげただけです。これでも教師ですからね、知識は惜しみなく与えてあげなければ。自分はこんなに危険なことをしていたのかと、驚いていましたよ」
「……シノワはどこですか」
「足がすくんでしまったようなので、森で休ませています。心の問題は魔法ではどうしてあげることもできませんからね。まあ、司祭のあなたなら何とかしてあげられるかもしれませんが」
そう言ってジュストが息をつくと、ガゼルの瞳が鋭さを増した。
「あなたがこんな陰湿なことをするなんて思いませんでしたよ」
吐き捨てるように言って、出て行こうとするガゼルをジュストが呼び止める。
「証文を差し上げましょう」そう言ってジュストは軽く息を吸い、ふたたび口を開く。「ユルは魔法の封印に関し、シノワ・エオローの意思を尊重する」
ジュストの口からこぼれ出た光を、ガゼルが両手で受け取った。ダイスに新たに木を意味する夜空色の文字が浮かび上がった。それをガゼルはぐっとにぎりしめた。
「ユルもあの子に期待することにしましょう。私の所へ伴ってくるほど、あなたが認めた子のようですから、きっと正しく判断してくれることでしょう。しかし、これ以上あの子を苦しめないであげてくださいね。このままお兄さんとお家に帰してあげた方がいいと、私は思いますよ」
「ユル、あなたは何か思い違いをしています。私は魔法を封じたいわけじゃありません」
「では何をお望みなのです?」
ガゼルは、ふと、どこか切ない笑い方をした。
「言葉にしても、きっとあなたにはわからない」
その言葉だけを残して、ガゼルは霧のように姿を消した。
気がつくとシノワは真っ暗なところにいた。何か甘い香りがするような気がするが、どこかはわからない。とにかく何ひとつ見えない。ただ感じるのは重苦しさ。みぞおちの奥がひどく重かった。
自分は何をしていたのだったかと考えると、みぞおちがミシミシときしんだ。その痛みに耐えかねて体を丸めるが、本当に体がそこにあるのかもよくわからなくなる。そうなると、自分が今ここに存在しているかどうかすら曖昧に思えてくる。
恐い──
そう思うと同時に体がぐっと沈み込んで、さらなる深みに引き込まれる感覚に総毛立つ。シノワは浮き上がろうとがむしゃらにもがいてみるが、自分が上がったのか下がったのかわからない。何も見えない。
……ワ…………ノワ
かすかな声が聞こえたように思い、シノワは耳を塞ぐ。しかしその声はどんどん大きくなっていく。
──シノワ、シノワ!
その呼び声が恐ろしくて、シノワはいっそう強く耳を塞いだ。しかし声は黙らない。
──聞けシノワ!
「嫌だ」
──聞け!
「嫌だ。恐い」
──誰が恐いって?
その笑いを含んだ声音に、ふと耳を塞ぐ手をゆるめると、その声をよく知っていることに気がついた。
「誰? ガゼル?」
──そう。そんなところで何してる。
「わかりません。ただ、暗くて何も見えないんです。ガゼル、どこにいるんですか?」
──何も見えないのは君が目を閉じてるからだ。とにかく目を開け。
言われて反射的に目を開こうとすると、とてつもない重みがみぞおちに広がった。
「い、嫌です」
──どうして? そうして目をつぶって、暗闇を眺めてるより恐いことなんかないぞ。
からかうような口ぶりに、シノワは恐る恐る目を開く。そこは相変わらず暗かったが、革の靴が片方目に入る。いつもガゼルが履いている靴である。
──ひどいな君は。私の容姿で一番印象に残ってるのが靴だなんて。
言いながら靴はバタバタと地面を踏みならす。
「すみません。初めて見たのが靴だったので」
そう言ってシノワは頭をかき、それと同時に頭がそこに存在するということを確信する。シノワの体は、やはりここにあった。
──まあいい。とにかく話そうじゃないか。
そう言われて、シノワは自分の胸に巣くっているものが何なのか、少し思い出す。と同時に焼かれるような重みがみぞおちに生まれ、シノワはまた耳を塞ごうと手をやった。
──待て待て。まだ何も言ってない。とにかく聞けよ。
あわてた声にシノワは耳から手を放す。
「すみません、ガゼル。僕は、やっぱりダメです」
──何がダメなんだ。
「ダメなんです。僕のことはもう放っておいてください。僕はもうダメなんです。何もできません」
──聞きなさい。
ぴしゃりと言われて、黙る。
──私は君の信念のほどを見定めると言ったけど、少し言葉が足りなかったかもしれないな。君がここで旅をやめる、魔法封じをやめると言っても、私は腹を立てる気も、君を責めるつもりもないんだよ。
「でも」
──それも一意見として尊重する。だから、もしここで君がもうやめると言ったからって、君にガッカリしたりもしないよ。
「……やっぱりガゼルは、魔法を封じない方がいいと思っているんですか?」
シノワが泣きそうな声を出すと、ガゼルはチチッと舌打ちをする。
──前にも言っただろう、良いか悪いかはっきりと分けられるものは多くないって。世界は複雑にできてるんだ。だから、魔法を封じるのも封じないのも正解で、どちらも間違いだ。
「何ですかそれ」
──どちらを選ぶにせよ、良いことも悪いこともあるってことだ。魔法を封じれば、デタラメな事件や事故は起こらなくなるけど、不便なことも戻ってくる。封じなければ便利な生活が送れるけど、デタラメな事件も増えていくだろう。そしてどちらにも改善の余地はあるし、どちらを選んでも誰かは必ず感謝して、誰かは必ず文句を言う。
ガゼルの言葉がするすると心に落ちてゆき、なるほど、とシノワが思ったときには目の前に物干し棒が立っていた。
──重要なのは、君が何を考えてどっちを選択するかで、君が旅を続けるかどうかじゃない。だから、どっちの未来を選ぶかは君にまかせるよ。君はどうしたい?
ガゼルの姿が全て見えていたら、彼はきっと首をかしげて見せたに違いない。シノワがそう思ったとき、薄い緑の
「それは僕なんかが決めてしまっていいことなんでしょうか。僕はもう学院を辞めてしまった。もう何にもなれないのに」
またみぞおちのあたりがミシミシときしみ、気がつくと先ほど見えていた薄緑の
すると、またチチッと軽い舌打ちが聞こえる。
──何言ってるんだ。君は学院を出なければ人間になれないとでも思ってるのか?
「そうじゃないですか。もう僕は兄さんの仕事を手伝うこともできない。ガゼルがいいと言っても、きっと父さんは許してくれないでしょう」
──バカ言うな。私は学院になんて通った覚えはないぞ。そもそも、君は本当に領主の補佐官になりたいのか?
「なりたいです」
──本当にそれが君の望み? それとも、父上やクロードがそれを望むから君も望むのか?
どうだろう、どうだっただろうか。もうそんなことすら忘れてしまった。
古く、領地争いのあった頃は領主の兄弟は荘園を経営したりもしていたが、現在では領地の変動がなく荘園制度もほぼなくなったため、補佐官や側近を務めるのが一般的で、特別な理由でもない限り、そうするものだとシノワは思っていた。他の何かになることなど、考えたことがなかったのかもしれない。