第53話

文字数 3,253文字

***

 いびつにドアをノックする音がして、今日は誰かと会う約束などあっただろうかと、カデンツ領主カイル・エオローは秘書のペンダーの方をふり返った。
 少し離れたデスクにいたペンダーは、ずれたメガネを直しながらカイルを見返した。人の良さそうな丸顔は不思議そうに目を瞬かせていて、その様子からして、やはり来客の予定などは入っていないようだった。そもそも、来客なら門に到着した時に連絡があるはずだ。
 またせわしなくノックする音がして、ペンダーは立ち上がって部屋の外へ出て行った。外でなにやら驚いたような話し声がして、ややあってペンダーが顔を出す。
「誰か訪ねてきたのか?」
「それが……ご子息です」
 ご子息、という言葉が飲み込めないでいる間に、ペンダーの前に割り込むようにして、少年が一人入ってきた。次男のシノワである。
「シノワ!」
 カイルは驚いて立ち上がると、大股にシノワに歩み寄るが、その姿に目を丸くした。
 シノワはあちこち土にまみれ、乱れた髪にはクモの巣と枯れ草が絡まっている。
「どうしたんだ、お前、そんなに汚れて」
 シノワはそこでハッとしたように自分の服をあちこち見やって、少し恥ずかしそうな顔をしたが、何かを決心したように口を引き結ぶと、深々と腰を折った。
「突然押しかけてすみません。父さん、お願いがあります」
「お願い?」
「はい。とても、大事な話なので、少し、その、人払いをお願いできますか」
 カイルはペンダーと顔を見合わせたが、顔を上げないシノワを見やると、ペンダーにうなずいてみせる。ペンダーも会釈を返し、執務室を出て行った。
「一体どうしたんだ」
 肩に触れると、シノワはびくりと少し肩を揺らした。
「父さん、少しの間、奥の部屋を僕に貸してくれないでしょうか」
 カイルはその言葉に目を丸くする。息子がどうしてこんなに汚れているのか、思い至ったからである。
 奥の部屋とは、この領主館にある隠し部屋のことだった。
 この領主館は古くからある建物で、ずいぶん改築されているのだが、基礎の部分は何百年も前に作られた城塞を利用して建てられているのだった。その古い構造の中に、外の隠し通路から続く部屋があり、長く使われてはいなかったが領主の一族の中でだけ、その場所が伝えられているのである。
 通路はとても狭く、大人一人が腰をかがめてやっと通れるほどの狭い穴で、じめじめしていて、虫やクモの巣も多く、気持ちの良い場所ではない。どうやら、シノワはその通路を通ってここまでやってきたらしい。
「お前、隠し通路を通ってきたのか? いったい奥の部屋を何に使うんだ」
 長男のクロードからは、シノワは司祭と共にカルムに行ったと聞いていた。まだ帰ってくるとは聞いていなかったし、どうして正面玄関から入らずに、こんなに泥まみれになってまで隠し通路を通ってきたのか、ひとつも理解できなかった。
「あ、あの、まだ、その……話せなくて」
「どうして」
「ごめんなさい! 少し落ち着いたら、きちんと説明します。お叱りもその時受けますから、今は何も聞かずに奥の部屋を貸してください! お願いします!」
 カイルはわけがわからず首をかしげる。
 シノワはどちらかというと大人しく、いつも身ぎれいにしている真面目な子だった。親に逆らったこともなければ、何か要求したり、あまり自分から意見を言ったりもしないような子だった。
 それが教師と遊学したいと言い出したのには驚いたし、ましてやそれが魔法使いの司祭だったと聞いた時には、にわかには信じられなかった。
 そして今度はこんなに汚れて、必死に頭を下げていることに加え、よく見れば見覚えのない剣を吊っているし、なぜ小汚いクマのぬいぐるみを大事そうに持っているのかがわからない。
「お前は司祭と一緒じゃなかったのか? 何か危ないことをしているのか?」
 びくりとシノワが体を強ばらせたのがわかった。
「危なくならないように、ここに、来ました。ガゼ……司祭は、今は、いません……」
 隠し部屋の存在は歴代の領主とその家族しか知らない。古くからの魔法がかかっているらしく、魔法使いの目からも隠されていると先代から聞いていた。
 シノワはまだ顔を上げない。
 カイルは短く息をつく。
「わかった。お前の好きに使いなさい」
「本当ですか!」
 シノワはぱっと顔を上げ、カイルの腕をつかんだ。
「ただし、後できちんと説明しなさい。三日は待たない」
 シノワは不安げな顔をしたが、こくりとうなずく。
「わかりました」
 それからシノワは、奥の部屋を使うことに加えて、自分が戻ったことを秘密にすること、食堂から少し食べるものを分けてもらうこと、白い小竜を連れた魔法使いが訪ねてきたら通してほしいこと、それ以外の魔法使いは絶対に通さないことなどを頼むと、また深々と腰を折って執務室を出て行った。急いで走って行く靴音が聞こえる。
 シノワの出て行ったドアを、カイルはしばしぽかんと眺めていた。
 そして、ふと、先ほどの真っ黒に日焼けしたシノワの顔を思い出して、小さく吹き出す。
「本当に、勉強してきたわけじゃなさそうだな」


 隠し部屋の重い扉を閉めると、シノワは深々と息をついた。
「首尾良くいってよかった」
 手元でガゼルの声がする。
 シノワは恐る恐る部屋の奥にあるベッドに歩み寄ると、そこに横たわるガゼルをのぞき込んで、息を詰める。
 ガゼルは目を閉じていた。かろうじて呼吸していることがわかるが、血の気がなく、カルムで見たソウェルの顔と重なって、シノワは思わずぎゅっと目を閉じた。
「大丈夫だよ、シノワ」
 ガゼルの声が言って、手元のクマがポスポスとシノワの手を叩く。
「でも、顔の怪我、治りませんよ?」
「血が付いたままになってるだけで、ちゃんと治ってるよ」
 シノワは外套のポケットからハンカチを取り出すと、ガゼルの顔をそっとぬぐう。すると、乾いた血が拭われて、その下からつるりとした無傷の肌が現れた。
「良かった──」
 シノワは全身の力が崩れる落ちるような気がして、その場にへたり込んだ。クマの目の前に、ぽたりと雫が落ちる。
「大丈夫かい?」
「大丈夫ですよ」
 シノワはぐいっとこぼれ落ちた雫を手のひらで拭った。
 あの時、酒場で一体何が起こったのか、シノワにはさっぱりわからなかったが、ガゼルの体から中身が抜けて、この小汚いクマのぬいぐるみと入れ替わってしまったようなのだった。
 学院長が戻って来る様子はなかったが、そのまま路地裏の家に戻るのも危険に思えて、シノワは領主館に隠れようと提案したのだった。
 魔法使いの当主は、地位としては一般の領主と対等であるため、正当な理由もなく他の地域の領主館に入ったり、中を調べたりすることはできない。
 それに領主館には古くからの隠し部屋があって、魔法で守られているのだと、いつだったか亡くなった祖父に聞いた覚えがあったのだ。ひとまずここにいれば、学院長に見つかることもないし、見つかったところで簡単に手出しできない。
 酒場での、学院長の楽しげな顔が思い起こされて、体の芯から冷たくなるような、強い不安がよみがえる。地面に倒れ込んでいるガゼルを見た時、シノワは本当に心臓をつかまれたような気がして、息ができなかった。
「本当に、死んじゃったかと思いましたよ」
「大丈夫だよ。ちょっとしくじったけど、司祭がそんなに簡単に死んだりするわけないだろう」
「そういうことじゃないんですよ!」
 なんだか笑っていそうなガゼルの口ぶりに腹が立って、シノワはクマを指で(はじ)くと、クマは「わっ」と声を上げてシノワの膝から転がり落ちた。
 クマはおぼつかない足取りでシノワの膝によじ登ると、シノワの腹の辺りをぽんぽんと叩いた。本当は涙を拭いてやりたかったが、手が届かなかった。
「ごめん。悪かったよ。今日は君にとても助けられた。君がユルの魔法を斬ってくれなかったら、本当にちょっと危なかった。ありがとう、シノワ」
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