第48話
文字数 2,897文字
「ガゼル、僕は今日のこと、後悔しないことにします」
「そう」
「ガゼルがソウェルさんの法印 を壊すより、ずっとよかった」
「どうして?」
「そうしてたら、クロムさんはガゼルをきっと一生許しません。それに、ガゼルだってあんなこと、したかったわけじゃないでしょう?」
ガゼルは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにそれを困ったような笑みに変えた。
「早く泣きやまないと朝になって目が腫れるぞ」
「泣いてません」
言いながら洟をすする。
「さあ、寝言は終わり。寝た寝た」
ガゼルはまた袖先でシノワの顔をゴシゴシと拭って、毛布の中に押し戻すと、そばで丸くなっていたロンを腹の上に放った。ロンは少し恨めしげにガゼルを見たが、そのままシノワの腹の上で丸くなった。そうして窓辺に戻ろうとすると、ガゼル、と呼び止められる。ふり返るとシノワはまだ泣いているような目でガゼルの方を見ていた。
「僕はまだ、自分のことは信用できませんが、ガゼルのことは信じてますからね」
シノワは消え入りそうな声でそんなことを言った。
「ありがとう、シノワ」
しばらくしてシノワの寝息が聞こえ始め、物語の主人公が仇敵の胸に剣を突き立てたところで、ガゼルは物憂げに本を閉じた。そっとその上に頭を載せ、シノワの方をふり返ってみる。
──ガゼルは止めたいと思わなかったんですか
クリフォードが息を引き取った時など、まだましだった。と思う。
もうよく覚えていないが、まだ自分が本当に十五歳で、クリフォードが国王に「魔法を国民に解放する」という証文をわたしてしまった時の方がひどかった。すさまじい怒りがわいてきて、危うく法庁 の庁舎を跡形もなく破壊するところだった。クリフォードは一人きりで生きてきたつもりなのかと。たった数日で、自分の周りにいる友人たちの前から消えるつもりなのかと。
それからクリフォードについて百年の修行に入る日、絶対に魔法なんか覚えてやるもんかと心に誓って行った。自分が司祭を継げなければ、クリフォードも魔法を解放できない。しかし、そんなものは二年と続かなかった。
少しずつそれがしかたのないことのように思えてきて、最初に“今”に戻ってきたときにはどっちつかずの状態で、ただ魔法の腕だけが上がっていた。そして法庁 に戻って、ジーナがいつものように「明日も修行なんだから、夜更かしするんじゃないよ」と言ったとき、急に恐ろしくなった。
ジーナにとっては三十三年前の朝が今日なのだ。“今日”自分は何と言って出かけた? しかし、“今”何を考えている? あれほど強く思って行ったのに、“今”はもう、しかたがない?
“今日”と“今”の、このすさまじい隔たりはいったい何なのだろう。そんなものを飛び越えて、自分はいったい何になろうというのか──
ゆるゆるとため息が口からもれていった。
こんなことを思い出すのは何年ぶりだろうか。
どんなに強い思いでも、いつかはうすらぐ。強ければ強いほど、強烈に褪 せてゆくのだ。しかし、それに執着してはならない。本当に大切なものは、必死ににぎりしめていなくても消えては行かない。後から後からわき出てくるものなのだ。
ぼんやり眺めている視線の先で、シノワの呼吸に合わせてロンの体が緩やかに上下している。
──お前に押しつけておいてなんだが、司祭でなくなるというのはいいもんだな、ガゼル。ここから先は司祭ではなく、ただの老いぼれじじいの言うことだと思って聞くがいい。
これから先お前が顧みられることはないだろう。だから、様々なことが起こるだろうが、お前が何かしてやる必要はないよ。ただ、もしお前がそれでも人間というものを愛せるなら、魔法を封じてやってくれ。
もうそんな声がよみがえってきても、つらくなかった。
***
午後、白い外套の男が当主が訪れることを宿まで告げに来て、その言葉通りにルイスは二人の食事が終わるとすぐに顔を見せた。
ルイスは部屋に入るなり深々と頭を下げた。
「詫びて許されることとも思っていませんが、本当に申し訳ありませんでした」
「どうぞ、おかけください」
ガゼルはいつものように朗らかに言って、部屋の中央にあるテーブルの椅子を引く。そしてそれにルイスが腰を下ろすと、向かい合ったシノワとガゼルの間にルイスが座っている格好になり、シノワは少し緊張した。
今回は少し広めの部屋だとは言え、安宿に当主がいるというのも違和感がある。
「ご子息は落ち着かれましたか」
言いながらガゼルは新たにお茶をいれ、ルイスの前に置くと、彼は会釈を返してそれを一口含む。
「時間のかかることと覚悟しております。このたびは、本当にご迷惑をおかけいたしました。息子かわいさに、事を大きくしてしまったことはもとより、もっと早くに当主である私が収めておくべき問題でした。シノワ君にもひどいことを」
申し訳なかったね、とルイスに頭を下げられ、シノワはあわてて首をふった。
「申し訳ありませんが、私としてもこのことを胸にしまっておくわけにはいきませんから、法庁 に報告させていただきますよ」
「ええ、もちろんです。謹んでお受けいたします」
「法庁 と各当主と連絡を取り合いながら審議して、それからの処分になりますから、しばらくかかるでしょう。それまではお二人とも謹慎ということで、ご了承願えますか」
「ええ、もちろんです」
処分、という言葉にシノワはぎくりとしたが、ルイスは穏やかな表情を浮かべていた。彼もまた、重い荷物を肩からおろしたように見えた。
ガゼルはシノワの退学届を書いたときのように、空中の引き出しから紙を取り出すと、それに長い文章を書いて印章を捺す。そしてやはりその辺にいたらしいロンを捕まえると、法庁 へ届けるよう頼んで窓を開けてやる。
「証文の件ですが」とルイスが切り出す。「これとは別と考えていただいてよろしいでしょうか」
「ええ。私もそのことにつけ込むつもりはありませんよ」
ガゼルがにこりとすると、ルイスはガゼルのいれたお茶を一口飲み、息をついた。シノワはテーブルの下で冷たくなった両手をにぎりしめた。
やはり不安だった。彼が反対すれば魔法は封じられない。彼のひと言で、これまでのシノワの旅に結論が出てしまう。そして、この旅も終わってしまう──
そう思うと、胃がキリキリとしめあげられるような心地がした。
「君は、魔法を封じたい気持ちに変わりはないかね」
ルイスは深い目でシノワを見た。
「はい。僕は、魔法を封じる方を選びます」
やはりルイスはクロムによく似ていて、昨日の出来事がありありと思い起こされ、シノワはこらえるように眉を寄せた。
「でも、本当は、ソウェルさんに会って、やっぱりこのまま魔法があった方がいいんじゃないかって迷いました。ソウェルさんのような人を救えるんなら、魔法があった方がいいんじゃないかって。でもソウェルさんは、魔法を封じるべきだと言ったんです。こんなことは間違ってるって。きっと、これまで僕なんかよりたくさん、魔法について考えたはずです。でも、ソウェルさんはそういう答えを出した」
そうか、とルイスはため息のように言った。
「そう」
「ガゼルがソウェルさんの
「どうして?」
「そうしてたら、クロムさんはガゼルをきっと一生許しません。それに、ガゼルだってあんなこと、したかったわけじゃないでしょう?」
ガゼルは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにそれを困ったような笑みに変えた。
「早く泣きやまないと朝になって目が腫れるぞ」
「泣いてません」
言いながら洟をすする。
「さあ、寝言は終わり。寝た寝た」
ガゼルはまた袖先でシノワの顔をゴシゴシと拭って、毛布の中に押し戻すと、そばで丸くなっていたロンを腹の上に放った。ロンは少し恨めしげにガゼルを見たが、そのままシノワの腹の上で丸くなった。そうして窓辺に戻ろうとすると、ガゼル、と呼び止められる。ふり返るとシノワはまだ泣いているような目でガゼルの方を見ていた。
「僕はまだ、自分のことは信用できませんが、ガゼルのことは信じてますからね」
シノワは消え入りそうな声でそんなことを言った。
「ありがとう、シノワ」
しばらくしてシノワの寝息が聞こえ始め、物語の主人公が仇敵の胸に剣を突き立てたところで、ガゼルは物憂げに本を閉じた。そっとその上に頭を載せ、シノワの方をふり返ってみる。
──ガゼルは止めたいと思わなかったんですか
クリフォードが息を引き取った時など、まだましだった。と思う。
もうよく覚えていないが、まだ自分が本当に十五歳で、クリフォードが国王に「魔法を国民に解放する」という証文をわたしてしまった時の方がひどかった。すさまじい怒りがわいてきて、危うく
それからクリフォードについて百年の修行に入る日、絶対に魔法なんか覚えてやるもんかと心に誓って行った。自分が司祭を継げなければ、クリフォードも魔法を解放できない。しかし、そんなものは二年と続かなかった。
少しずつそれがしかたのないことのように思えてきて、最初に“今”に戻ってきたときにはどっちつかずの状態で、ただ魔法の腕だけが上がっていた。そして
ジーナにとっては三十三年前の朝が今日なのだ。“今日”自分は何と言って出かけた? しかし、“今”何を考えている? あれほど強く思って行ったのに、“今”はもう、しかたがない?
“今日”と“今”の、このすさまじい隔たりはいったい何なのだろう。そんなものを飛び越えて、自分はいったい何になろうというのか──
ゆるゆるとため息が口からもれていった。
こんなことを思い出すのは何年ぶりだろうか。
どんなに強い思いでも、いつかはうすらぐ。強ければ強いほど、強烈に
ぼんやり眺めている視線の先で、シノワの呼吸に合わせてロンの体が緩やかに上下している。
──お前に押しつけておいてなんだが、司祭でなくなるというのはいいもんだな、ガゼル。ここから先は司祭ではなく、ただの老いぼれじじいの言うことだと思って聞くがいい。
これから先お前が顧みられることはないだろう。だから、様々なことが起こるだろうが、お前が何かしてやる必要はないよ。ただ、もしお前がそれでも人間というものを愛せるなら、魔法を封じてやってくれ。
もうそんな声がよみがえってきても、つらくなかった。
***
午後、白い外套の男が当主が訪れることを宿まで告げに来て、その言葉通りにルイスは二人の食事が終わるとすぐに顔を見せた。
ルイスは部屋に入るなり深々と頭を下げた。
「詫びて許されることとも思っていませんが、本当に申し訳ありませんでした」
「どうぞ、おかけください」
ガゼルはいつものように朗らかに言って、部屋の中央にあるテーブルの椅子を引く。そしてそれにルイスが腰を下ろすと、向かい合ったシノワとガゼルの間にルイスが座っている格好になり、シノワは少し緊張した。
今回は少し広めの部屋だとは言え、安宿に当主がいるというのも違和感がある。
「ご子息は落ち着かれましたか」
言いながらガゼルは新たにお茶をいれ、ルイスの前に置くと、彼は会釈を返してそれを一口含む。
「時間のかかることと覚悟しております。このたびは、本当にご迷惑をおかけいたしました。息子かわいさに、事を大きくしてしまったことはもとより、もっと早くに当主である私が収めておくべき問題でした。シノワ君にもひどいことを」
申し訳なかったね、とルイスに頭を下げられ、シノワはあわてて首をふった。
「申し訳ありませんが、私としてもこのことを胸にしまっておくわけにはいきませんから、
「ええ、もちろんです。謹んでお受けいたします」
「
「ええ、もちろんです」
処分、という言葉にシノワはぎくりとしたが、ルイスは穏やかな表情を浮かべていた。彼もまた、重い荷物を肩からおろしたように見えた。
ガゼルはシノワの退学届を書いたときのように、空中の引き出しから紙を取り出すと、それに長い文章を書いて印章を捺す。そしてやはりその辺にいたらしいロンを捕まえると、
「証文の件ですが」とルイスが切り出す。「これとは別と考えていただいてよろしいでしょうか」
「ええ。私もそのことにつけ込むつもりはありませんよ」
ガゼルがにこりとすると、ルイスはガゼルのいれたお茶を一口飲み、息をついた。シノワはテーブルの下で冷たくなった両手をにぎりしめた。
やはり不安だった。彼が反対すれば魔法は封じられない。彼のひと言で、これまでのシノワの旅に結論が出てしまう。そして、この旅も終わってしまう──
そう思うと、胃がキリキリとしめあげられるような心地がした。
「君は、魔法を封じたい気持ちに変わりはないかね」
ルイスは深い目でシノワを見た。
「はい。僕は、魔法を封じる方を選びます」
やはりルイスはクロムによく似ていて、昨日の出来事がありありと思い起こされ、シノワはこらえるように眉を寄せた。
「でも、本当は、ソウェルさんに会って、やっぱりこのまま魔法があった方がいいんじゃないかって迷いました。ソウェルさんのような人を救えるんなら、魔法があった方がいいんじゃないかって。でもソウェルさんは、魔法を封じるべきだと言ったんです。こんなことは間違ってるって。きっと、これまで僕なんかよりたくさん、魔法について考えたはずです。でも、ソウェルさんはそういう答えを出した」
そうか、とルイスはため息のように言った。