第58話

文字数 2,736文字

「すみません、ガゼル。父さんにガゼルのこと、バレてしまったかもしれません」
 早足に廊下を進みながら、シノワが謝ると、手元でガゼルが笑う。
「いやいや、父上はわりと初めの方から気づいてたんじゃないかなあ」
 え、と思わずガゼルを持ち上げてみる。
「さっきの話は最初から最後まで、半分は私への牽制だよ。いやはや、耳が痛い」
「そうなんですか?」
「君、これから先、何かあったら、すぐに父上に相談するといいよ。君の父上は勘が鋭いし、なかなかやり手の領主のようだ。きっと何とかしてくださるだろう」
 隠し部屋に戻ると、ジーナは自宅に戻ったらしく姿がなく、机で書き物をしているベオークの姿だけがあった。
「ああ、お帰りなさい」
 シノワの姿に気がつくと、ベオークは思わずほっとしてしまうような顔で笑み、手招きした。手元にはシノワが書いていた、まだ書きかけの法印の紙切れがあった。どうやら書き足してくれていたらしい。
「これ、よく書きましたねえ。難しかったでしょう」
「はい。すごく細かくて」
「普通はもう少し簡単なものから練習するんです。司祭、いくら何でも突然こんなのを書かせるのはひどいですよ」
「しかたないだろう。私にはペンが持てないんだから」
 ガゼルがまあるい手を見せながら言うと、ベオークはぷっと吹き出しかけたのを手で押さえる。
「ふっ…司祭、あとは、し、しばらく、僕が引き継ぎますから……ふふっ……細かい所を…うふっ指示してください」
「ベオーク」
 ガゼルが不満げな声を出すと、ベオークは観念したように吹き出した。
「すみません……司祭。ふふっ……その、あらためて見ると、あまりにも、その、か、かわいらしいお姿なので」
 ガゼルはシノワの手の中でジタバタと暴れたが、ベオークはまだおかしそうに笑っていた。彼はどうも笑いやすい質らしい。
 その二人の様子に、シノワは先ほどまでの緊張から解き放たれて、ガゼルを法印の乗った机の上に下ろしてやった。
 ガゼルが言うには、ベオークは法庁(バーカナン)事務部の係長兼ガゼルの連絡係だという話だった。彼はガゼルが行方不明になる前に、ガゼルから【私書箱】を預かっており、司祭宛の手紙は【私書箱】に入れることによって、ガゼルへ届けられることになっていたらしい。それで、彼の元に国王からの登庁命令書が届いたのである。
 ベオークが大あわてで命令書を【私書箱】に入れたのだが、いっこうに受け取られる気配がなく、日にちも迫り、さらに大あわてしていたところに、ジーナがやってきたのだという。
 再びベオークが法印を書くのに戻り、シノワがお茶をいれていたところに、騒がしい足音が聞こえて、勢いよくドアが開かれた。
 ジーナの家から大股に入ってきたのは、またシノワの知らない男だった。シノワが反射的にガゼルを持ち上げて後ずさると、男は無遠慮に歩み寄ってシノワを壁際に追い込んだ。
「やあ、アレフ。久しぶりだね。ずいぶん早かったじゃないか」
 ガゼルがシノワに抱えられながら、いつものように片手を上げると、男のこめかみに浮いた血管がぞぐりと動いた。
「何をやってるんだお前は!」
 耳をつくような怒声に、シノワはびくりと体を強ばらせた。
「アレフ、あんまり大声を出さないでくれ。シノワがびっくりしてるじゃないか」
「そんなことを言ってる場合か! 行方不明になったあげくに、突然妙な手紙をよこしたと思えば、一体何なんだその姿は!」
「私だって不本意だよ」
「今は遊んでる場合じゃないんだぞ! もっと司祭の自覚を持て!」
 男の言葉が途切れた隙を狙って、あの、とシノワが口を挟む。
「あんまり怒らないであげてください。ガゼルはジーナさんにも、ずいぶんしぼられたんです」
「シノワ! 君は本当に優しい子だよ!」
 ガゼルがシノワの手に抱きつくと、アレフと呼ばれた男は、そこでようやくシノワの存在に気がつき、いらいらと首の後ろをかいた。
「……大きな声を出して悪かった。君がシノワ・エオローか?」
「はい」
 見ず知らずの人間に名前を呼ばれて、シノワが戸惑いながらうなずくと男は、じっと観察するようにシノワを見た。
 彼はガゼルやベオークよりは年上と言った感じで、三十代ではあるのだろうが、ぴしりと着こなした服装のせいか、どこかどっしりと重みのある風貌だった。
「俺はアレフと言う。一応魔法使いだ。それ以外のことは詮索しないでもらいたい。立場上、俺がここにいることが外部にもれるのは、かなり、非常に、とてつもなく、まずい」
 ベオークがおずおずと椅子をすすめると、アレフはどさりと腰を下ろした。
「申し訳なかったね、アレフ」
 ガゼルが謝ると、アレフはぎろりとガゼルを睨む。
「まったくだ。俺の仕事上の立場ももちろんだが、俺がノービルメンテ出身だということも忘れないでほしいね」
 思わずシノワは息を呑んだ。今はあちこちで、ノービルメンテ出身者に重要なポストが移りつつある。もしかすると、アレフもまた渦中の人かもしれないのだ。
「だけど、君が来てくれて嬉しいよ。君以上に法印の理論に詳しい人間はいないからね」
「ジュストほどじゃない」
「ご謙遜を」
 アレフはふんと鼻を鳴らす。
「とりあえず、お前はそこで寝てるのか?」
 アレフがベッドに横たわっているガゼルに歩み寄ると、ガゼルがそっと、アレフは私の法印の先生だったんだよ、とシノワに説明した。
 アレフはガゼルのそばにしゃがみ込むと、目を細めてじっとガゼルの体の周りを見やった。その後ろにベオークも加わり、シノワも恐る恐るガゼルの元へ歩み寄ると、ガゼルの上へクマを降ろしてやる。
 シノワにはただガゼルが横たわっているようにしか見えなかったが、アレフの視線があちこちに移ろっているところを見ると、法印か呪文かが見えているのだろう。
 アレフはじっとガゼルを見ていたが、ややあって、力なく、がくりとうなだれた。
「お手上げだとか言うつもりじゃないだろうね」
「……俺はもう、ジュストのことが心の底から嫌いになりそうだよ」
「そんなにややこしいのかい?」
「実にいやらしい作りだ。途中まではどうにか解けるだろうが、後は呪文(アンスール)の総当たりになるだろう」
「書き出してくれれば、私も見るけど」
 それを聞くとアレフは天を仰いだ。
「こんな物を書き出してたら一月(ひとつき)はかかる」
「登庁命令は明日なんだけど」
「それはあきらめろ。ジーナにでも言い訳してくれるよう頼むんだな」
 きっぱりと言って、アレフは眉を険しく引き寄せて、腕を組む。
「まったく、ジュストは何を考えてるんだ。司祭に成り代われると、本当に思ってるのか」
それっぽい何か(、、、、、、、)にはなれるんじゃないか?」
 アレフは息をつくと、机の上でシノワのカップに首を突っ込んで、お茶を拝借していたロンをちらりと見やった。
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