第3話
文字数 2,630文字
「……失礼ですが、おいくつですか?」
「つやつやの二十歳だ」
青年はさわやかに笑って答え、シノワは脱力しながらため息をこぼす。
「司祭になるには百年かかるはずです。だから、あなたが司祭であるはずがない」
「よく知ってるね。だけど、私の時はいろいろと事情があって、奥の手を使ったんだよ。まあ、インチキと言ってもいいね」そう言って青年はおもむろに左の袖口のボタンをはずし始める。「前司祭のクリフォードは、時を渡る古代魔法を密かに復活させていたんだ。私はそれで、三日で百年分の修行をした。実に嫌な、思い出したくもない記憶だけど」
「まさか! 時の魔法は失われたはずです」
シノワが呆れたように言うと青年は「もうひとつ」と人差し指を立てた。
「もう学院でも教えていないのかもしれないが、司祭は星を持って生まれてくるというのを知らないかな」
「ほし……」
呆然とつぶやくシノワに笑って、青年は左腕の袖をまくり上げた。関節の少し上のあたりに、法庁 の壁や旗に描かれている、星を表す紋章と同じ痣があった。痣というよりは、本当に星を持っていると言った方がいいのかもしれない。肌の色が少し濃く、形に合わせて肉が少し盛り上がっているのだ。それは刃物で付けた傷跡のようなものではなく、きれいな直線を描いている。
シノワは痣と青年の顔とを、交互にたっぷり三回は見返した。
「これがその星のしるし。まあ、だから何だと言われればそれまでで、信用するかしないかは君に任せるよ」
そう言って青年はめくった袖を元に戻し、さてさて、と心底楽しそうな顔をした。
「そうと決まれば、君の旅支度だな」
「え、旅に出るって僕も行くんですか?」
「君が行かないでどうするんだ」
「無理ですよ。僕はまだ学院生なんですから」
「ああ、そんなもの辞めてしまえ。あんな所にいても、普通の人間にしかならないぞ」
「何言ってるんですか! そういうわけにはいきません。僕はちゃんと学院を卒業して《塔の学院》に行くんです!」
うろたえるシノワを尻目に、青年は楽しげに引き出しを探ってペンを取り出す。
「クリアーニ学院退学届」
言って、ひょいと腕を持ち上げ、彼が何かをつまむ仕草をすると、まるでそこに引き出しがあるかのように、一枚の紙が何もない所から引き出される。そこにはクリアーニ学院の校章とともに【退学届】の太い文字が書かれていた。
「は? 退学届?」
「司祭の旅に同行するにあたり、クリアーニ学院五回生シノワ・エオローの退学を受理されたし」
青年はさらさらとそんなことを書き付ける。
「ちょっと待って下さい! 退学だなんて、そんなバカなこと! 父にも相談しないと! いや、退学なんて絶対にしません!」
「印章」
今度は後ろに手をやると、その指が何かをつまんだように見えた瞬間、彼の手には丸い印章が現れた。それをポンとサインの隣に捺 す。
「はい、できあがり」
歌うように言って、青年はそれをシノワへ見せると、すぐにそれをくるくると筒状に丸め、蝋 で封をして中央に紐を結びつけた。もうシノワは声も出せなかった。
「ロン」
彼は右腕をのばし、羽虫を捕まえるようにして、また空中からひょいと何か長いものを捕らえる。その手の中でとうねっているものを見て、シノワは反射的に後ずさった。
「ああ、見るのは初めてかい? この子はカリナ国の竜 だよ。ほら、頭に角があるだろう。この辺りの竜 とは違って美しいと思わない?」言いながら丸めた退学届けを竜にくわえさせる。「ロン、これをクリアーニ学院長にわたしてきておくれ。君が行ってくれれば、私からだと言わなくてもきっとわかるよ」
竜がこくりとうなずくと、青年は窓を開けてやり、竜はするりと空へ飛び去った。
あっけにとられて固まっているシノワを、横目に見やって青年はくすくすと笑う。
「学院に通いながら魔法が封じられるなんて、そんな簡単なことだと考えてたのかい? それとも、声を上げさえすれば、他人が何とかしてくれると思ってたとか? 甘いねえ。まあ、心配するな。学ぶ気さえあれば、いつからでも遅すぎるということはない。本当の学問は逃げも隠れもしないものだからな。旅から戻ってもまだ学院に未練があるなら、それから通えばいいだけだ」
壁にかけてあった薄い緑の魔法使いの法衣 を羽織り、青年はシノワに向き直る。
「さあ、行こうかシノワ」
青年がコツコツと軽く叩くと、一斉に壁がガラガラと崩れ始めた。
「うわっ!」
思わず飛び退いたシノワの腕を青年がつかんで、まるで透明の大きな手が動かしているかのように、勝手に積み上がり始めた壁石の上に引き上げる。机や本棚、カーテン、窓枠、ゴミ箱まで引き込んで、それは建物から何か別の形に組み合わさっていく。
「おっと、忘れるところだった」
青年は壁石の波に呑まれそうになっていた、古い折りたたみのハシゴを拾い上げ、それをすぐ横に生えてきた木に引っかける。
もう何が何だかわからないシノワは、あわてふためきながら彼にしがみついているしかなかった。
「このまま行方不明というのはまずいから、とりあえず君のご両親に挨拶にうかがおうか」
デタラメなのか真面目なのかわからないことを言って、青年は、どう? と隣に生えた木を叩く。
「なかなかいい鹿だろう。君の大きな鹿 の名になぞらえたんだ」
そばに生えている二本の木だと思ったものは、鹿の角にあたるらしかった。
確かにエオローという名前は、テサの古い言葉で大きな鹿を意味するが、それと家を鹿の形に作り替えることと、どういう関係があるのか。しかも残念なことに、遠目に見れば石造りの巨大な鹿に見えたのだが、その上に乗っているシノワには壁石の寄せ集めにしか見えなかった。
「し、鹿。え、あ、あ、あの、まさか、動かないですよね?」
シノワはしどろもどろになりながら、彼方に見える地面をのぞき込むと、あまりの高さに目を回しそうになった。
「大丈夫、大丈夫。デタラメがまかり通ってる国だ。少々大きな鹿が闊歩したところで誰も驚きやしないさ」
「あ、いえ、司祭、お願いですから動かさないでください。領主館までは、歩いてもすぐの距離ですから」
「おや、ようやく司祭と認めたのかい?」青年はおかしそうにシノワをふり返る。「しかし、私は司祭と呼ばれるのがそれほど好きではない。私の名はガゼル・ウィルドだ。ガゼルと呼びたまえ」
それを合図のようにして、大鹿は鹿らしく素晴らしい跳躍を見せ、後にはシノワの悲鳴がこだました。
「つやつやの二十歳だ」
青年はさわやかに笑って答え、シノワは脱力しながらため息をこぼす。
「司祭になるには百年かかるはずです。だから、あなたが司祭であるはずがない」
「よく知ってるね。だけど、私の時はいろいろと事情があって、奥の手を使ったんだよ。まあ、インチキと言ってもいいね」そう言って青年はおもむろに左の袖口のボタンをはずし始める。「前司祭のクリフォードは、時を渡る古代魔法を密かに復活させていたんだ。私はそれで、三日で百年分の修行をした。実に嫌な、思い出したくもない記憶だけど」
「まさか! 時の魔法は失われたはずです」
シノワが呆れたように言うと青年は「もうひとつ」と人差し指を立てた。
「もう学院でも教えていないのかもしれないが、司祭は星を持って生まれてくるというのを知らないかな」
「ほし……」
呆然とつぶやくシノワに笑って、青年は左腕の袖をまくり上げた。関節の少し上のあたりに、
シノワは痣と青年の顔とを、交互にたっぷり三回は見返した。
「これがその星のしるし。まあ、だから何だと言われればそれまでで、信用するかしないかは君に任せるよ」
そう言って青年はめくった袖を元に戻し、さてさて、と心底楽しそうな顔をした。
「そうと決まれば、君の旅支度だな」
「え、旅に出るって僕も行くんですか?」
「君が行かないでどうするんだ」
「無理ですよ。僕はまだ学院生なんですから」
「ああ、そんなもの辞めてしまえ。あんな所にいても、普通の人間にしかならないぞ」
「何言ってるんですか! そういうわけにはいきません。僕はちゃんと学院を卒業して《塔の学院》に行くんです!」
うろたえるシノワを尻目に、青年は楽しげに引き出しを探ってペンを取り出す。
「クリアーニ学院退学届」
言って、ひょいと腕を持ち上げ、彼が何かをつまむ仕草をすると、まるでそこに引き出しがあるかのように、一枚の紙が何もない所から引き出される。そこにはクリアーニ学院の校章とともに【退学届】の太い文字が書かれていた。
「は? 退学届?」
「司祭の旅に同行するにあたり、クリアーニ学院五回生シノワ・エオローの退学を受理されたし」
青年はさらさらとそんなことを書き付ける。
「ちょっと待って下さい! 退学だなんて、そんなバカなこと! 父にも相談しないと! いや、退学なんて絶対にしません!」
「印章」
今度は後ろに手をやると、その指が何かをつまんだように見えた瞬間、彼の手には丸い印章が現れた。それをポンとサインの隣に
「はい、できあがり」
歌うように言って、青年はそれをシノワへ見せると、すぐにそれをくるくると筒状に丸め、
「ロン」
彼は右腕をのばし、羽虫を捕まえるようにして、また空中からひょいと何か長いものを捕らえる。その手の中でとうねっているものを見て、シノワは反射的に後ずさった。
「ああ、見るのは初めてかい? この子はカリナ国の
竜がこくりとうなずくと、青年は窓を開けてやり、竜はするりと空へ飛び去った。
あっけにとられて固まっているシノワを、横目に見やって青年はくすくすと笑う。
「学院に通いながら魔法が封じられるなんて、そんな簡単なことだと考えてたのかい? それとも、声を上げさえすれば、他人が何とかしてくれると思ってたとか? 甘いねえ。まあ、心配するな。学ぶ気さえあれば、いつからでも遅すぎるということはない。本当の学問は逃げも隠れもしないものだからな。旅から戻ってもまだ学院に未練があるなら、それから通えばいいだけだ」
壁にかけてあった薄い緑の魔法使いの
「さあ、行こうかシノワ」
青年がコツコツと軽く叩くと、一斉に壁がガラガラと崩れ始めた。
「うわっ!」
思わず飛び退いたシノワの腕を青年がつかんで、まるで透明の大きな手が動かしているかのように、勝手に積み上がり始めた壁石の上に引き上げる。机や本棚、カーテン、窓枠、ゴミ箱まで引き込んで、それは建物から何か別の形に組み合わさっていく。
「おっと、忘れるところだった」
青年は壁石の波に呑まれそうになっていた、古い折りたたみのハシゴを拾い上げ、それをすぐ横に生えてきた木に引っかける。
もう何が何だかわからないシノワは、あわてふためきながら彼にしがみついているしかなかった。
「このまま行方不明というのはまずいから、とりあえず君のご両親に挨拶にうかがおうか」
デタラメなのか真面目なのかわからないことを言って、青年は、どう? と隣に生えた木を叩く。
「なかなかいい鹿だろう。君の
そばに生えている二本の木だと思ったものは、鹿の角にあたるらしかった。
確かにエオローという名前は、テサの古い言葉で大きな鹿を意味するが、それと家を鹿の形に作り替えることと、どういう関係があるのか。しかも残念なことに、遠目に見れば石造りの巨大な鹿に見えたのだが、その上に乗っているシノワには壁石の寄せ集めにしか見えなかった。
「し、鹿。え、あ、あ、あの、まさか、動かないですよね?」
シノワはしどろもどろになりながら、彼方に見える地面をのぞき込むと、あまりの高さに目を回しそうになった。
「大丈夫、大丈夫。デタラメがまかり通ってる国だ。少々大きな鹿が闊歩したところで誰も驚きやしないさ」
「あ、いえ、司祭、お願いですから動かさないでください。領主館までは、歩いてもすぐの距離ですから」
「おや、ようやく司祭と認めたのかい?」青年はおかしそうにシノワをふり返る。「しかし、私は司祭と呼ばれるのがそれほど好きではない。私の名はガゼル・ウィルドだ。ガゼルと呼びたまえ」
それを合図のようにして、大鹿は鹿らしく素晴らしい跳躍を見せ、後にはシノワの悲鳴がこだました。