第68話

文字数 2,043文字

 城から離れて、カデンツで暮らす。それはロゼリアにとって悪くない提案だった。確かに、いくらジュストが作ったとはいえ、司祭であるガゼルなら、いつかは元に戻って、この箱を開けることができるかもしれない。シノワも一緒に閉じ込められているのだから、このまま放っておくとは考えられない。となると、全てが露見してガゼルが国王を解放してしまったら、自分が罪人になるのはほぼ確実だ。それを免れ、なおかつ城を出て暮らす、というシノワの提案は願ってもないことである。それにカデンツやその近郊の街には王族が住んでいないし、それほど不便な街でもない。隠れ住むにはちょうどいい街なのだ。

 しかし、ロゼリアにはシノワの意図が全くつかめなかった。彼女を自宅にかくまうための証文を、自分を陥れようとした人間にわたそうとしている。しかもそれは魔法を捨てるためだと言う。そもそもシノワは魔法使いではないし、魔法を封じれば魔法は一切使えなくなるはずだ。
 ガゼルとの間に、自分だけに魔法を残してもらう約束などがあるのだろうか。そうでもなければ、シノワが魔法を封じたい理由がわからない。

 どのみち、しくじった自分をジュストが助けに来るとも思えない。ロゼリアが失敗したと知れば、すぐに次の手を考える。そういう男だ。
 ジュストの報告によれば、ガゼルはこの何でもないような少年を相当気に入っているという話だったし、もしロゼリアの身を守らなければ、シノワが命を落とすとなれば何かしら協力するかもしれない。

 シノワの目的がわからないし、そもそも彼にどれほどの能力があるのか謎だったが、ここで証文をもらっておくに越したことはなさそうだった。
「覚悟はあるの?」
 とりあえず聞いてみる。
「はい」
「本当に……私がカデンツで暮らしていけると思うの?」
「きっと大丈夫です」
「ガゼルが反対したらどうするの?」
「反対するなら、他にもっといい方法があるってことですよ」

 そのシノワの黒いボタンの瞳を射るように見すえ、ロゼリアはシノワのまあるい手をつまんだ。そしてその手の上に法印(タウ)を描こうとしたが、ロゼリアはふと指を止め、途中で投げ出された法印(タウ)は宙へ消えた。
「やっぱり嫌よ」
「どうしたんですか?」
「魔法を封じたら、また元の醜い姿に戻らなくちゃならない」

 どうやら先ほどシノワが感じた違和感は真実らしかった。ロゼリアのこの姿は、本当の彼女の姿ではないのだ。
「大丈夫ですよ。酒場での騒ぎのこともありますし、姿が変わってる方が都合がいいですよ。新しく始めましょう」ロゼリアはなるほどと少し表情を緩める。「それに、ガゼルはどんなにきれいでも、魔法の加わった花よりは原種が好きな人ですよ」
 そうね、と言いかけてロゼリアは弾かれたように顔を上げた。その驚いた顔が、暗がりでもわかるほどに赤くなった。
「どういう意味よ! ガゼルは関係ないじゃない!」
「え、いや、あの……すみません」
 何よりその反応がシノワの推測を肯定しているのだが、ロゼリアは乱暴にシノワの手をつかみ直すと、手に法印(タウ)を描く。

「それを呑み込みなさい。それから口にする言葉が証文になるわ」
「あの、今さらなんですけど、このクマの状態でやっても大丈夫でしょうか」
「言葉に反応する古代魔法だから、声が出るならきっと大丈夫よ」
 シノワは軽くうなずくと、手の法印(タウ)を呑み込んだ。
「ロゼリアさんが【星】を返して、魔法を封じることを許可してくれるなら、シノワ・エオローはロゼリアさんが牢獄とお城へ行かなくていいように、できるだけのことをします」
 シノワの口からこぼれた光を、ロゼリアは右手にはめた指輪に受け取った。そこに浮かんだシノワの名をしばらくじっと見つめていた。

「ロゼリアさん、本当にありがとうございます」
 ロゼリアはフンと鼻を鳴らして膝を抱えこむ。
「あの、それで、【星】は……」
「【星】は箱の外よ」
「まさか、学院長が?」
 ロゼリアは不機嫌そうに首をふって、自分の首元を指さした。
「私がずっと肩に乗せてた黒い獅子(シン)。あの子が飲み込んでるの。私が【星】を出してと言わなければ吐き出さないから、あの子を捜し出して私のところへ連れてくるのね」
 ずっと彼女が襟巻きのように巻き付けていた、黒い獣のことらしかった。ひとまず【星】が学院長の手に渡っていなかったことに、シノワはほっと息をついた。

 とはいえ、ここから出られないことには、証文も意味を成さない。どうにか早くガゼルがこの箱を開けてくれるよう祈りながら、シノワは黒い床の上に寝転がると、くたびれてそのまま眠ってしまった。




 どれぐらい時間が経ったのか、唐突にそれはやってきた。

 ジョキン

 間の抜けた音が響いた。
 音に目を覚ましたシノワが、音のした方を見上げてみると、天井の隅に白い三角が浮かんでいた。予感はあったが、それを何と判別することもできずに、呆然と眺めていると、少しずつ部屋が縮み始め、しだいにその三角に体が強く引かれ始める。シノワはあわててロゼリアの腕にしがみついた。
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