第47話
文字数 3,592文字
糸が切れたように力が抜けていく体と、それを抱きしめるクロムの驚愕と絶望の入りまじった顔。目を閉じても、どれだけ寝返りを打っても薄れていかなかった。人の命が消えてゆくのを見たのは初めてだった。
シノワは震える吐息をそろそろと吐き出す。
法印 のつなぎ目を指し示した時、ありがとう、とソウェルはうれしそうに笑った。まるで重い荷物を肩から降ろしたように。
自分が死ぬ、とはどういうことだろうか。
少なくともシノワにはあんな風に笑えるものとは思えなかった。シノワもいつかは必ず死ぬ。それは決まっている。いつそれが来るのかはわからないが、まだまだ先のことと漠然と決め込んでいる。それを、誰かを救うために捨てる。自分が生きるより、大切な人が生きることを望む。自分が罪を犯してでも、当主になる資格も家も捨てて、大事な人を守る。
シノワは毛布の中でぶるぶると頭をふる。自分にはそんなことはできないと思う。しかし、そんな覚悟もなく魔法を封じていいのだろうか。魔法を封じることで命を落とす人が、他にもいるかもしれないのに。
「シノワ」
黒々とした静寂をやぶって耳へ届いた声に、シノワはびくりと肩を揺らした。頭を持ち上げて見ると、ガゼルは窓辺の机にロウソクを一本灯して、いつものように本をめくっていた。
「ベッドに入ってから考えごとをするのはやめたまえ。たいした考えが浮かばないうえに、眠れなくなる」
だって、と言いたいのを呑み込んで、代わりにゆるゆると息をついて、頭を枕の上に戻す。
「ガゼル」
「ん?」
「明日からはもう言いませんから、ほんのちょっとだけ、泣き言を言ってもいいですか?」
シノワは自分の声の弱々しさにたじろいだ。このひと言が、充分泣き言と言えそうではないか。
ガゼルは、そこでようやくシノワをふり返り、
「いいよ。寝言だと思って聞いてあげよう」
と言ってガゼルは本に目を戻す。
彼の読んでいる本は、シノワと同じような年頃の少年の間で流行っている冒険物語で、時間があればいつでもガゼルはそういう類の本を読んでいる。結構な大人であるガゼルが、どうしてそんな本を読んでいるのかと聞いてみると、十五歳の頃に読みそびれたのだと笑った。
「ガゼル、やっぱり僕は恐いです。魔法を封じることで、どんなことが起こるんでしょうか。ソウェルさんみたいに死んでしまう人がいるかもしれないし、不便なことが山のようにできて、どうして魔法を封じたりしたんだって言われるかもしれない。正解だって思ってしたことが、やっぱり間違ってるかもしれない。そう思うと恐くてたまりません」言ってしまってから、たまらなくなる。「せっかくガゼルが、あの真っ暗な所から引き上げてくれたのに、また僕はそこへ戻ってしまったみたいです」
ごめんなさい、と言ってシノワはぎゅっと体を丸めた。
「シノワ、一生間違わないで生きることは不可能だよ」
「でも、こんな大事なことを間違うわけにはいかないじゃないですか」
声がふるえてしまったことが情けなくて、シノワはぎゅっと目をつぶった。そうするとまた、本当にあの闇がよみがえる気がした。ルイスに信頼されないのもしかたがない。こんなに自分は情けない人間なのだ。
ガゼルが息をついたのがわかって、パタンと本を閉じる音がする。ややあって、ベッドがきしんだかと思うと、ふわりとガゼルの手がシノワの髪に触れた。
「今日君がしたことを、君は間違いだったと思うのか?」
その言葉にシノワはびくりとする。しかし、間違いだったと口に出して言ってしまえば、本当にそう決まってしまうようで、シノワは何と言うこともできずに、またきつく目を閉じる。
「君はちゃんとその答えを知ってるはずだ」
「どうしていつもそんなことを言うんですか? 僕はガゼルが思ってるほど立派な人間じゃありません。今日だって、しっかりとした考えがあってしたわけじゃありません。あの時は、ソウェルさんに詰め寄られて、そうするしかないように思っただけなんです。本当はどうだったのか、僕にはわかりません」
「そんなこと、私にだってわからないよ」
シノワは思わず彼をふり返った。すると、ロウソクの作る弱々しい明かりの中にガゼルの苦笑があった。
「ソウェルと話して、そうしたのは君なんだから」
またシノワが悲しげにため息をつくが、ガゼルはかまわず続ける。
「じゃあ、例え話をしようか。例えばもし、イディアが死にかけていたら、君は何とかして助けようとするね。もし、それが禁じられた方法しかないとして君はそうする?」
「……するかもしれません」
「じゃあ、逆にイディアが何か禁じられた方法で亡くなったおばあさんをよみがえらせようとしていたら?」
シノワは思わずぐっと歯をかみしめたが、
「……止めると思います」
と何とかそれだけ言う。
「どうして?」
「もし見つかったら、イディアも罰を受けるんでしょう? 僕は二人とも失いたくありません」
「じゃあ、例えばもし、君が死にかけてるとして、それを助けようと、君のお兄さんがラメールで違法な研究をしていたら?」
シノワは思わず飛び起きた。その鼻先に人差し指を突き出して、ガゼルは苦笑する。
「ほらね。君は答えを知ってる」
どんなことをしてでも止める。それ以外にない。自分が命をあきらめることでしか兄を止められないのなら、そうしたかもしれない。
しかしあの二人のように、互いにちゃんと気持ちが通わないまま終わるのは嫌だった。いや、兄なら、こんなことになるまでに耳をかたむけてくれるはずだ。それに、そんなことになる前に父が止めるに決まっている。それがダメなら、イディアや家族以外の人に頼んだっていいのだ。
「……みんな少しずつ間違ったんですね。選べる道はたぶん他にもあって、きっとこうなるしかなかったわけじゃない」
言っている内に、どうしようもなくやるせない気持ちになり、シノワは膝を抱えた。
「君だって、私が行くまで待っていてもよかったんだよ」
ガゼルはそう言ってシノワの肩をなでたが、シノワはじっと自分のつま先を睨みながら口を開く。
「もし、僕が何もしないで待ってたら、ガゼルはソウェルさんの法印(タウ)をどうするつもりでしたか?」
「壊したよ」
ガゼルは何をためらうでもなく言った。きっとガゼルの答えは始めからそうだったのだ。しかし、それが正解だとも、そうすべきだったとも言わない。
「ガゼル、ひとつ聞いてもいいですか?」
「うん?」
ガゼルの軽い反問に少しためらわれたが、今なら聞いてしまえる気がした。
「クリフォードさんが魔法を解放した時、ガゼルは止めたいと思わなかったんですか? こんなことを聞いちゃいけないのかもしれませんが、ちゃんと、聞いておきたいんです」
ガゼルは何か考えている風に少し黙っていたが、シノワの真剣な顔を見やると口を開く。
「確かに、魔法の解放を私がやってもよかったわけだし、死にかけてるクリフォードの体を、あるていどまでなら治してやることもできた。だけど、魔法で体を治したところで、もうクリフォードは限界だった」
と、ガゼルは深く息をつく。
「前に言った通り、私は三日で百年修行した。でも、それは一人でやったわけじゃない。当然クリフォードもそれに付き合ってた。だから魔法を封じた時、クリフォードは三百五十七歳だったんだよ。いくら【星】の魔力が寿命を引き延ばしてると言っても、司祭も人間には変わりない。せいぜい八十年ほど生きるようにできてる人間の精神が、四百年も五百年も耐えられるわけがないんだよ。
長く生きるっていうのもいいことばかりじゃない。一人で何百年も生きるってことは、何百回も友人の死に出会うってことだ。それを、魔法を解放して終わらせると、クリフォードが決めたんだ。私が何を思おうと、私にそれを止める権利なんかない」
シノワは怒ったように顔を赤らめていたが、その目から雫がこぼれそうになるとそれを乱暴に拭い、それをガゼルに見られないように膝の上に額を載せた。
「やっぱり誤解じゃないですか」
「誤解?」
「どうしてクロムさんにもちゃんと説明しないんですか」
クロム、と小首をかしげてようやく昼間のことに思い至り、ガゼルは苦笑した。
「私がクリフォードを見殺しにしたという話か。たいした違いはないじゃないか」
「違います。クロムさんには話すべきですよ」
「私は別に知ってほしいとは思わない」
「嫌ですそんなの」
悔しそうに言って洟 をすする。それにガゼルは小さく息をつく。
「クロムにこんな話をしたってどうにもならないさ」
シノワは両膝に顔を隠したまま、弱々しく首をふった。
きっと何かつらいことがあっても、ガゼルはそれをシノワに見せないどころか、感じさせることもしないのだろう。シノワがどれだけ話してくれと言っても、きっとまたそんな話は重要じゃないと言う。それが悲しかった。
シノワは震える吐息をそろそろと吐き出す。
自分が死ぬ、とはどういうことだろうか。
少なくともシノワにはあんな風に笑えるものとは思えなかった。シノワもいつかは必ず死ぬ。それは決まっている。いつそれが来るのかはわからないが、まだまだ先のことと漠然と決め込んでいる。それを、誰かを救うために捨てる。自分が生きるより、大切な人が生きることを望む。自分が罪を犯してでも、当主になる資格も家も捨てて、大事な人を守る。
シノワは毛布の中でぶるぶると頭をふる。自分にはそんなことはできないと思う。しかし、そんな覚悟もなく魔法を封じていいのだろうか。魔法を封じることで命を落とす人が、他にもいるかもしれないのに。
「シノワ」
黒々とした静寂をやぶって耳へ届いた声に、シノワはびくりと肩を揺らした。頭を持ち上げて見ると、ガゼルは窓辺の机にロウソクを一本灯して、いつものように本をめくっていた。
「ベッドに入ってから考えごとをするのはやめたまえ。たいした考えが浮かばないうえに、眠れなくなる」
だって、と言いたいのを呑み込んで、代わりにゆるゆると息をついて、頭を枕の上に戻す。
「ガゼル」
「ん?」
「明日からはもう言いませんから、ほんのちょっとだけ、泣き言を言ってもいいですか?」
シノワは自分の声の弱々しさにたじろいだ。このひと言が、充分泣き言と言えそうではないか。
ガゼルは、そこでようやくシノワをふり返り、
「いいよ。寝言だと思って聞いてあげよう」
と言ってガゼルは本に目を戻す。
彼の読んでいる本は、シノワと同じような年頃の少年の間で流行っている冒険物語で、時間があればいつでもガゼルはそういう類の本を読んでいる。結構な大人であるガゼルが、どうしてそんな本を読んでいるのかと聞いてみると、十五歳の頃に読みそびれたのだと笑った。
「ガゼル、やっぱり僕は恐いです。魔法を封じることで、どんなことが起こるんでしょうか。ソウェルさんみたいに死んでしまう人がいるかもしれないし、不便なことが山のようにできて、どうして魔法を封じたりしたんだって言われるかもしれない。正解だって思ってしたことが、やっぱり間違ってるかもしれない。そう思うと恐くてたまりません」言ってしまってから、たまらなくなる。「せっかくガゼルが、あの真っ暗な所から引き上げてくれたのに、また僕はそこへ戻ってしまったみたいです」
ごめんなさい、と言ってシノワはぎゅっと体を丸めた。
「シノワ、一生間違わないで生きることは不可能だよ」
「でも、こんな大事なことを間違うわけにはいかないじゃないですか」
声がふるえてしまったことが情けなくて、シノワはぎゅっと目をつぶった。そうするとまた、本当にあの闇がよみがえる気がした。ルイスに信頼されないのもしかたがない。こんなに自分は情けない人間なのだ。
ガゼルが息をついたのがわかって、パタンと本を閉じる音がする。ややあって、ベッドがきしんだかと思うと、ふわりとガゼルの手がシノワの髪に触れた。
「今日君がしたことを、君は間違いだったと思うのか?」
その言葉にシノワはびくりとする。しかし、間違いだったと口に出して言ってしまえば、本当にそう決まってしまうようで、シノワは何と言うこともできずに、またきつく目を閉じる。
「君はちゃんとその答えを知ってるはずだ」
「どうしていつもそんなことを言うんですか? 僕はガゼルが思ってるほど立派な人間じゃありません。今日だって、しっかりとした考えがあってしたわけじゃありません。あの時は、ソウェルさんに詰め寄られて、そうするしかないように思っただけなんです。本当はどうだったのか、僕にはわかりません」
「そんなこと、私にだってわからないよ」
シノワは思わず彼をふり返った。すると、ロウソクの作る弱々しい明かりの中にガゼルの苦笑があった。
「ソウェルと話して、そうしたのは君なんだから」
またシノワが悲しげにため息をつくが、ガゼルはかまわず続ける。
「じゃあ、例え話をしようか。例えばもし、イディアが死にかけていたら、君は何とかして助けようとするね。もし、それが禁じられた方法しかないとして君はそうする?」
「……するかもしれません」
「じゃあ、逆にイディアが何か禁じられた方法で亡くなったおばあさんをよみがえらせようとしていたら?」
シノワは思わずぐっと歯をかみしめたが、
「……止めると思います」
と何とかそれだけ言う。
「どうして?」
「もし見つかったら、イディアも罰を受けるんでしょう? 僕は二人とも失いたくありません」
「じゃあ、例えばもし、君が死にかけてるとして、それを助けようと、君のお兄さんがラメールで違法な研究をしていたら?」
シノワは思わず飛び起きた。その鼻先に人差し指を突き出して、ガゼルは苦笑する。
「ほらね。君は答えを知ってる」
どんなことをしてでも止める。それ以外にない。自分が命をあきらめることでしか兄を止められないのなら、そうしたかもしれない。
しかしあの二人のように、互いにちゃんと気持ちが通わないまま終わるのは嫌だった。いや、兄なら、こんなことになるまでに耳をかたむけてくれるはずだ。それに、そんなことになる前に父が止めるに決まっている。それがダメなら、イディアや家族以外の人に頼んだっていいのだ。
「……みんな少しずつ間違ったんですね。選べる道はたぶん他にもあって、きっとこうなるしかなかったわけじゃない」
言っている内に、どうしようもなくやるせない気持ちになり、シノワは膝を抱えた。
「君だって、私が行くまで待っていてもよかったんだよ」
ガゼルはそう言ってシノワの肩をなでたが、シノワはじっと自分のつま先を睨みながら口を開く。
「もし、僕が何もしないで待ってたら、ガゼルはソウェルさんの法印(タウ)をどうするつもりでしたか?」
「壊したよ」
ガゼルは何をためらうでもなく言った。きっとガゼルの答えは始めからそうだったのだ。しかし、それが正解だとも、そうすべきだったとも言わない。
「ガゼル、ひとつ聞いてもいいですか?」
「うん?」
ガゼルの軽い反問に少しためらわれたが、今なら聞いてしまえる気がした。
「クリフォードさんが魔法を解放した時、ガゼルは止めたいと思わなかったんですか? こんなことを聞いちゃいけないのかもしれませんが、ちゃんと、聞いておきたいんです」
ガゼルは何か考えている風に少し黙っていたが、シノワの真剣な顔を見やると口を開く。
「確かに、魔法の解放を私がやってもよかったわけだし、死にかけてるクリフォードの体を、あるていどまでなら治してやることもできた。だけど、魔法で体を治したところで、もうクリフォードは限界だった」
と、ガゼルは深く息をつく。
「前に言った通り、私は三日で百年修行した。でも、それは一人でやったわけじゃない。当然クリフォードもそれに付き合ってた。だから魔法を封じた時、クリフォードは三百五十七歳だったんだよ。いくら【星】の魔力が寿命を引き延ばしてると言っても、司祭も人間には変わりない。せいぜい八十年ほど生きるようにできてる人間の精神が、四百年も五百年も耐えられるわけがないんだよ。
長く生きるっていうのもいいことばかりじゃない。一人で何百年も生きるってことは、何百回も友人の死に出会うってことだ。それを、魔法を解放して終わらせると、クリフォードが決めたんだ。私が何を思おうと、私にそれを止める権利なんかない」
シノワは怒ったように顔を赤らめていたが、その目から雫がこぼれそうになるとそれを乱暴に拭い、それをガゼルに見られないように膝の上に額を載せた。
「やっぱり誤解じゃないですか」
「誤解?」
「どうしてクロムさんにもちゃんと説明しないんですか」
クロム、と小首をかしげてようやく昼間のことに思い至り、ガゼルは苦笑した。
「私がクリフォードを見殺しにしたという話か。たいした違いはないじゃないか」
「違います。クロムさんには話すべきですよ」
「私は別に知ってほしいとは思わない」
「嫌ですそんなの」
悔しそうに言って
「クロムにこんな話をしたってどうにもならないさ」
シノワは両膝に顔を隠したまま、弱々しく首をふった。
きっと何かつらいことがあっても、ガゼルはそれをシノワに見せないどころか、感じさせることもしないのだろう。シノワがどれだけ話してくれと言っても、きっとまたそんな話は重要じゃないと言う。それが悲しかった。