第54話
文字数 3,624文字
それから二日目、ジーナの訪れを告げる手紙が、父から隠し部屋に届いた。酒場での一件の後、ロンが大急ぎでジーナに知らせに行ってくれたのである。
シノワが執務室に入ると、既にジーナの姿がそこにあった。肩にロンも乗っている。
「ジーナさん!」
思わずシノワが声を上げると、カイルに「座りなさい」と目で諭されて、シノワはぺこりと頭を下げて、ソファの端へ腰を下ろした。
「ご無沙汰しております、カイル・エオロー、シノワ」
ジーナがそう言って微笑んだのでシノワは驚いたが、考えてみれば深いつきあいがないとは言え、魔法使いの当主は領主でもあるのだから、カデンツ領主の父と面識があってもおかしくはない。
「こちらこそ、ご無沙汰しております、ジーナ・オセル。何やら息子がお世話になったのですかな?」
カイルが二人を見やると、ジーナは、いやいや、と笑って首をふった。
「とんでもない。今回はうちの魔法使いがご迷惑をおかけしたようで」
「──ということは、シノワが隠しているのは、やはり魔法使いなんでしょうかね?」
ジーナはひょいと眉を持ち上げると、どこか所在なく座っているシノワを見た。そしてその膝に乗っている小汚いぬいぐるみを見ると、やれやれと息をついた。
「シノワ、お父上にも黙っていてくれたのかい。すまなかったね」
いえ、とシノワは首をふる。
「お察しの通り、ご子息の世話になっているのは、うちの魔法使いだと聞いています。すぐにでもこんなことになっているわけを、お話しするべきなのは重々承知しているのですが、今しばらく、私がここへ来たことも、ご内密にしていただきたいのです」
「ほう。話せない理由はおうかがいしても?」
ジーナは深々と息をついた。
「私も確認してみないことには何とも言えませんが、私がここでお話して、もし、それが漏れるようなことがあれば、あなたやご子息はもちろん、カデンツ全体にもご迷惑をおかけする事態になりかねませんのでね」
カイルはさすがに驚いた顔になる。
「息子が司祭と旅をしていると聞いて、半信半疑なところがあったのですが、この子は何かとんでもないことに首を突っ込んだのですかね」
それを聞くと、ジーナは苦笑した。
「ご子息が悪いわけではありません。それどころか、お父上にまで黙って魔法使いをかくまってくれたこと、心から感謝します」
ジーナが頭を下げると、カイルは困ったなという顔をした。
「カイル・エオロー、ひとまず、様子を見に行っても?」
「ああ、それもそうですね」
カイルがシノワを見やると、シノワはこくりとうなずいて立ち上がった
「ジーナさん、案内します」
ジーナもうなずいて立ち上がる。
「ところで、ジーナ・オセル。司祭は一体どちらに?」
シノワはびくりとして、手に持っていたクマを取り落としそうになった。
「それも、いずれまた」
そう言ってジーナはカイルに腰を折り、執務室を後にした。
ジーナは軽くガゼルの様子を確かめると、てきぱきとシノワに指示をして、動きやすいように家具を移動させ、隠し通路につながるドアを入念に調べてから、何かの魔法をほどこした。
「こんなもんかね。開けてみな」
ジーナに促されてドアを開けてみると、そこは隠し通路ではなく、きちんと片付いた見覚えのある台所につながっていた。ジーナの家の台所である。
「すごい! ガゼル! ジーナさんの家ですよ」
「この部屋は何にもないようだからね。うちへつなげておけば、ちっとは暮らしやすくなるよ」
隠し部屋というだけあって、二人ほどの人間がしばらく暮らせるようにはなっているものの、確かに息苦しい部屋ではあった。
ベッドがふたつに、テーブルがひとつ、椅子が二脚、戸棚がひとつと、暖炉と流し、井戸がひとつ。窓は小さな明かり取りがひとつあるだけで、中はガゼルの路地裏の家より薄暗かった。
部屋にはやはり魔法がかかっていたようだが、いくつかほころんでいたようで、それもジーナが直してくれた。
一通り確認し終わると、ジーナは戸棚の上で大人しくしていたクマを持ち上げる。
「まったく、ついこの間気をつけろと言ったばかりなのに、なんて体たらくだ」
煙管をくわえながら、ジーナはクマをくるくる回して、具合を確かめる。
「うわっ、ジーナ、あんまり雑にあつかわないでくれ。仮留め なんだから!」
ジーナは、うーん、と顔をしかめてクマをじっと見る。
「本当だね。もうちょっとしっかり留めた方がよくないかい?」
「あんまりしっかり留めて、戻れなくなったら困るだろう」
「そりゃまあそうだけど」
あの、とシノワが口を挟む。
「ジーナさん、ガゼルはどうなってしまったんですか?」
「どうもこうも、魂を抜かれたんだよ。おまけに体の方を封じられて、戻れなくなってる。魔法を封じるとか封じないとか言っておきながら、自分が封じられてりゃ世話ないね。うっかりしすぎだよ、まったく」
「ユルにおかしな魔法を使われたんだよ」
ガゼルは不満げに言った。
「おかしな魔法?」
「なんかこう……魔法があべこべになるような魔法だった。例えば、持ち上げようとしたら下がるというか、右腕を動かそうとしたら左足が動くというか、なんだかそういう混乱するような魔法だったんだよ。私の魔力が強いのを逆手に取られたんだ」
ジーナは小首をかしげ、ガゼルの体の方に近寄って目をこらすが、まぶしそうに顔をしかめた。
「複雑過ぎてちっとも見えやしない。私の手には負えないね。お前、自分で法印 が見えないのかい?」
クマは力なく首をふった。
「こっちに入ってから、魔法は使えないし、法印 も全く見えない」
「まったく、役に立たないねえ」
クマは腹立たしげにジタバタ手足を動かしたが、魔女の手はびくともしなかった。
ジーナは再びクマを目の高さに持ってくる。
「それにしても小汚いね」
ジーナは取れかかったクマの右目を揺らす。黒いボタンでできた右目は、ほどけかかった糸でかろうじてぶら下がっている。
「そう言うな。あの時は、生き物っぽい形をしたものが、これしかなかったんだよ。石ころがしゃべるよりマシだろう? ユルがシノワに魔法を斬られて気を取られてる隙に、入れそうなものを探して仮留めしたんだ。魔法が使えなくて、古代魔法でやるしかなかったから、とにかく時間がなかったんだよ」
ちょっと待ってな、と言い残して、ジーナはガゼルを戸棚の上に戻すと、魔法のドアを通って自分の家に戻っていった。ややあって、ジーナは小箱を抱えて戻ってきたが、それを見たガゼルは、戸棚の上をじりじりと後ずさった。
「ジーナ、何をするつもりだ」
「何って、お前のその取れかかった目を付け直してやるんだよ」
どうやら小箱は裁縫箱であるらしい。
ガゼルはジーナとは反対側に逃げようとしたが、クマの体がまだ上手く馴染んでおらず、もたもたしている間にジーナにひょいと持ち上げられる。
「よせ、ジーナ。大丈夫だ。このままでもちゃんと見えてる」
「見てるこっちが気味が悪いんだよ。仮留めしてるだけなんだから、針を刺したって痛くないだろう」
ジーナが本当に裁縫箱から針と糸を取り出したのを見て、シノワはぞっと震え上がった。
「待て、ジーナ、待て。痛くないとはいえ、目に針を刺される身にもなってみろ!」
「恐けりゃ目をつぶってな」
「ジーナ、このクマにまぶたがあるように見えるのかい?」
「うるさいね、いい年して暴れるんじゃないよ。余計に長引くよ」
「こんなのに年は関係ない! やめろ! ジーナ! やめろって!」
ガゼルの悲壮な声がして、シノワはいたたまれずに両目を手でおおった。
ややあって、ちょきん、と糸を切る音がして、シノワが恐る恐る指のすきまから見ると、ガゼルが手術を終えてテーブルに戻されるところだった。ガゼルは右目を押さえてうなだれていた。
「さて、シノワ」
ジーナに呼ばれて、シノワは思わずびくりとする。
「ちょっと薪と食器なんかをこっちに運んでくれないかい。今日は私が晩ご飯を作ってやるよ」
「ありがとうございます」
それは素直に嬉しかった。ジーナの料理は美味しいし、食堂からこっそりと食料を拝借してくるのも、なかなか大変なのだった。
ジーナは再びテーブルの上からガゼルをつまみ上げる。危機を感じたガゼルが顔を持ち上げる。
「ジーナ、これ以上私をどうする気だ」
「洗濯するんだよ。こんなのをテーブルに載せるのは嫌だからね」
「人をゴミみたいに言うな。汚れを落とすぐらい、魔法で何とかなるだろう!」
「私がそんなことにいちいち魔法を使うのが嫌いだって知ってるだろう」
「だからって、今ぐらい勘弁しろ!」
「何を猫みたいに。ヘマをしたお前が悪いんだよ。さあ、シノワ、お前もこっちへ来て手伝っておくれ。シーツやなんかも干さないといけないからね」
クマガゼルは再びジタバタと暴れるが、魔女は片手で裁縫箱を片付けると、そのままガゼルを連れて魔法のドアの向こうへ消えた。ジーナは本当に容赦がない。
シノワが執務室に入ると、既にジーナの姿がそこにあった。肩にロンも乗っている。
「ジーナさん!」
思わずシノワが声を上げると、カイルに「座りなさい」と目で諭されて、シノワはぺこりと頭を下げて、ソファの端へ腰を下ろした。
「ご無沙汰しております、カイル・エオロー、シノワ」
ジーナがそう言って微笑んだのでシノワは驚いたが、考えてみれば深いつきあいがないとは言え、魔法使いの当主は領主でもあるのだから、カデンツ領主の父と面識があってもおかしくはない。
「こちらこそ、ご無沙汰しております、ジーナ・オセル。何やら息子がお世話になったのですかな?」
カイルが二人を見やると、ジーナは、いやいや、と笑って首をふった。
「とんでもない。今回はうちの魔法使いがご迷惑をおかけしたようで」
「──ということは、シノワが隠しているのは、やはり魔法使いなんでしょうかね?」
ジーナはひょいと眉を持ち上げると、どこか所在なく座っているシノワを見た。そしてその膝に乗っている小汚いぬいぐるみを見ると、やれやれと息をついた。
「シノワ、お父上にも黙っていてくれたのかい。すまなかったね」
いえ、とシノワは首をふる。
「お察しの通り、ご子息の世話になっているのは、うちの魔法使いだと聞いています。すぐにでもこんなことになっているわけを、お話しするべきなのは重々承知しているのですが、今しばらく、私がここへ来たことも、ご内密にしていただきたいのです」
「ほう。話せない理由はおうかがいしても?」
ジーナは深々と息をついた。
「私も確認してみないことには何とも言えませんが、私がここでお話して、もし、それが漏れるようなことがあれば、あなたやご子息はもちろん、カデンツ全体にもご迷惑をおかけする事態になりかねませんのでね」
カイルはさすがに驚いた顔になる。
「息子が司祭と旅をしていると聞いて、半信半疑なところがあったのですが、この子は何かとんでもないことに首を突っ込んだのですかね」
それを聞くと、ジーナは苦笑した。
「ご子息が悪いわけではありません。それどころか、お父上にまで黙って魔法使いをかくまってくれたこと、心から感謝します」
ジーナが頭を下げると、カイルは困ったなという顔をした。
「カイル・エオロー、ひとまず、様子を見に行っても?」
「ああ、それもそうですね」
カイルがシノワを見やると、シノワはこくりとうなずいて立ち上がった
「ジーナさん、案内します」
ジーナもうなずいて立ち上がる。
「ところで、ジーナ・オセル。司祭は一体どちらに?」
シノワはびくりとして、手に持っていたクマを取り落としそうになった。
「それも、いずれまた」
そう言ってジーナはカイルに腰を折り、執務室を後にした。
ジーナは軽くガゼルの様子を確かめると、てきぱきとシノワに指示をして、動きやすいように家具を移動させ、隠し通路につながるドアを入念に調べてから、何かの魔法をほどこした。
「こんなもんかね。開けてみな」
ジーナに促されてドアを開けてみると、そこは隠し通路ではなく、きちんと片付いた見覚えのある台所につながっていた。ジーナの家の台所である。
「すごい! ガゼル! ジーナさんの家ですよ」
「この部屋は何にもないようだからね。うちへつなげておけば、ちっとは暮らしやすくなるよ」
隠し部屋というだけあって、二人ほどの人間がしばらく暮らせるようにはなっているものの、確かに息苦しい部屋ではあった。
ベッドがふたつに、テーブルがひとつ、椅子が二脚、戸棚がひとつと、暖炉と流し、井戸がひとつ。窓は小さな明かり取りがひとつあるだけで、中はガゼルの路地裏の家より薄暗かった。
部屋にはやはり魔法がかかっていたようだが、いくつかほころんでいたようで、それもジーナが直してくれた。
一通り確認し終わると、ジーナは戸棚の上で大人しくしていたクマを持ち上げる。
「まったく、ついこの間気をつけろと言ったばかりなのに、なんて体たらくだ」
煙管をくわえながら、ジーナはクマをくるくる回して、具合を確かめる。
「うわっ、ジーナ、あんまり雑にあつかわないでくれ。
ジーナは、うーん、と顔をしかめてクマをじっと見る。
「本当だね。もうちょっとしっかり留めた方がよくないかい?」
「あんまりしっかり留めて、戻れなくなったら困るだろう」
「そりゃまあそうだけど」
あの、とシノワが口を挟む。
「ジーナさん、ガゼルはどうなってしまったんですか?」
「どうもこうも、魂を抜かれたんだよ。おまけに体の方を封じられて、戻れなくなってる。魔法を封じるとか封じないとか言っておきながら、自分が封じられてりゃ世話ないね。うっかりしすぎだよ、まったく」
「ユルにおかしな魔法を使われたんだよ」
ガゼルは不満げに言った。
「おかしな魔法?」
「なんかこう……魔法があべこべになるような魔法だった。例えば、持ち上げようとしたら下がるというか、右腕を動かそうとしたら左足が動くというか、なんだかそういう混乱するような魔法だったんだよ。私の魔力が強いのを逆手に取られたんだ」
ジーナは小首をかしげ、ガゼルの体の方に近寄って目をこらすが、まぶしそうに顔をしかめた。
「複雑過ぎてちっとも見えやしない。私の手には負えないね。お前、自分で
クマは力なく首をふった。
「こっちに入ってから、魔法は使えないし、
「まったく、役に立たないねえ」
クマは腹立たしげにジタバタ手足を動かしたが、魔女の手はびくともしなかった。
ジーナは再びクマを目の高さに持ってくる。
「それにしても小汚いね」
ジーナは取れかかったクマの右目を揺らす。黒いボタンでできた右目は、ほどけかかった糸でかろうじてぶら下がっている。
「そう言うな。あの時は、生き物っぽい形をしたものが、これしかなかったんだよ。石ころがしゃべるよりマシだろう? ユルがシノワに魔法を斬られて気を取られてる隙に、入れそうなものを探して仮留めしたんだ。魔法が使えなくて、古代魔法でやるしかなかったから、とにかく時間がなかったんだよ」
ちょっと待ってな、と言い残して、ジーナはガゼルを戸棚の上に戻すと、魔法のドアを通って自分の家に戻っていった。ややあって、ジーナは小箱を抱えて戻ってきたが、それを見たガゼルは、戸棚の上をじりじりと後ずさった。
「ジーナ、何をするつもりだ」
「何って、お前のその取れかかった目を付け直してやるんだよ」
どうやら小箱は裁縫箱であるらしい。
ガゼルはジーナとは反対側に逃げようとしたが、クマの体がまだ上手く馴染んでおらず、もたもたしている間にジーナにひょいと持ち上げられる。
「よせ、ジーナ。大丈夫だ。このままでもちゃんと見えてる」
「見てるこっちが気味が悪いんだよ。仮留めしてるだけなんだから、針を刺したって痛くないだろう」
ジーナが本当に裁縫箱から針と糸を取り出したのを見て、シノワはぞっと震え上がった。
「待て、ジーナ、待て。痛くないとはいえ、目に針を刺される身にもなってみろ!」
「恐けりゃ目をつぶってな」
「ジーナ、このクマにまぶたがあるように見えるのかい?」
「うるさいね、いい年して暴れるんじゃないよ。余計に長引くよ」
「こんなのに年は関係ない! やめろ! ジーナ! やめろって!」
ガゼルの悲壮な声がして、シノワはいたたまれずに両目を手でおおった。
ややあって、ちょきん、と糸を切る音がして、シノワが恐る恐る指のすきまから見ると、ガゼルが手術を終えてテーブルに戻されるところだった。ガゼルは右目を押さえてうなだれていた。
「さて、シノワ」
ジーナに呼ばれて、シノワは思わずびくりとする。
「ちょっと薪と食器なんかをこっちに運んでくれないかい。今日は私が晩ご飯を作ってやるよ」
「ありがとうございます」
それは素直に嬉しかった。ジーナの料理は美味しいし、食堂からこっそりと食料を拝借してくるのも、なかなか大変なのだった。
ジーナは再びテーブルの上からガゼルをつまみ上げる。危機を感じたガゼルが顔を持ち上げる。
「ジーナ、これ以上私をどうする気だ」
「洗濯するんだよ。こんなのをテーブルに載せるのは嫌だからね」
「人をゴミみたいに言うな。汚れを落とすぐらい、魔法で何とかなるだろう!」
「私がそんなことにいちいち魔法を使うのが嫌いだって知ってるだろう」
「だからって、今ぐらい勘弁しろ!」
「何を猫みたいに。ヘマをしたお前が悪いんだよ。さあ、シノワ、お前もこっちへ来て手伝っておくれ。シーツやなんかも干さないといけないからね」
クマガゼルは再びジタバタと暴れるが、魔女は片手で裁縫箱を片付けると、そのままガゼルを連れて魔法のドアの向こうへ消えた。ジーナは本当に容赦がない。