第30話

文字数 2,499文字

「どうしよう、わかりません」
 シノワのうろたえた声にガゼルはまた笑う。

──まあ、これから考えてみればいいことだ。学ぶ気があれば遅すぎるということはないって、前にも言っただろう。クリアーニや塔の学院にこだわるな。どんなに名のある学院でも、学びたい者を拒む学院は三流だよ。
「でも、僕は無理です。兄さんのように何でもできるんなら、何を望んだっていいんでしょうけど」
──あのねえ、シノワ。君は時々妙に現実的で、時々向こう見ずなくせに、妙に頭が固い時があるんだな。
「だってそうじゃないですか」
──実は、魔法を封じてくれとか言ってきた人は、君の他にもいたんだ。だけど私はみんな適当にあしらって追い返した。それなのに、どうして君を旅に連れ出したと思う? まあ、私が退屈してたのも本当なんだけど。
「わかりません」
──言っておくけど、君が成績優秀で、正義感に満ちあふれてて、何にでも立ち向かっていける勇気を持ってたからじゃないぞ。そんなやつはいくらだっているんだ。

 はあ、とシノワは気の抜けた声を出す。なんだかますます気が滅入っていく気がした。
「じゃあ、どうしてなんですか?」
──私のところへ来たとき、君の頭の中は他人のことでいっぱいだったからだよ。
 ガゼルが言い終わる頃には、薄緑の法衣(ウルムス)が肩のところまでくっきりと色を取り戻していた。
──君は自分がひどい目に遭ったわけでも、自分が魔法を封じた世界で何かしたいわけでもなく、ただ誰かのことばかり考えてた。まあ、ちょっとは不純なところもあったけど。

 そう言ったガゼルの唇が笑みの形になっているのがシノワの目に映った。

──本当のところ、私は君がもっと早くに逃げ出すだろうと思ってた。魔法を封じるためにこんな不自由な旅をするなんてバカバカしい、って言ってね。魔法を封じるのは簡単じゃないって言ったし、実際魔法なしの生活は大変だっただろう? それでも君は幼なじみや、知らない誰かの心配をして、旅を続けた。これが君の一番の財産なのに、君はそれを知らないのかい?
 そう言ってガゼルが笑ったとき、シノワは両頬に手のひらの暖かさを感じた。

「さあ、君はどうしたい?」
 ガゼルはやはり首をかしげた。
「……魔法を封じてください」
 言い終わると、目の前にガゼルの琥珀色の瞳があった。

「よく戻った、シノワ」

 たぶんガゼルはまた笑ったのだろうが、わき上がった涙に邪魔されてぐにゃりと曲がってよく見えなかった。
「すみません、ガゼル」
 そう言ってシノワはぽろぽろと涙をこぼした。
「何言ってるんだ。ユルが意地悪なのを忘れてた私が悪かったんだ」
「でも、僕が……」
「もういいもういい。ものすごく恐かっただろう?」
 シノワはぼろぼろと涙をこぼしながら、何度もうなずいた。
「ガゼルが作った大鹿(エオロー)が跳ねた時より、お化け草の口に頭が入りかけた時より恐かった」
 シノワの情けない声に、ガゼルは声を上げて笑う。
「ユルに君の一番恐いものをのぞかれて、そこへ閉じ込められたんだ。でも、君の一番恐いものが私の大鹿(エオロー)じゃなくてよかったよ」
 ガゼルはおかしそうに言って、法衣(ウルムス)の袖でシノワの顔をゴシゴシと乱暴に拭った。

 そこでシノワはようやく、周りが明るくなっていることに気付き、見回してみると、そこは学院長と会っていた部屋の中だった。周りがあんなに真っ暗だったのは、本当に自分が目をつぶっていたからなのだろうか。そう思うと、なんだか恥ずかしくなってきて、シノワはゴシゴシと自分の袖で涙を拭った。

「でも、君は私が見込んだだけのことはあるね」
 ガゼルは誇らしげに言って腰に手を当てた。
「何がですか? 僕はひとりで勝手に恐い思いをしてただけじゃないですか」
 またからかわれているような気がしてシノワがふくれると、ガゼルはずいと手のひらを差し出した。その上にはダイスが載っている。
「ユルの証文をもらった」
 えっ、と叫んでシノワはあわててガゼルの手のひらからダイスをつまむ。見れば確かに文字がひとつ増えている。

「ユルは魔法封じに関して、シノワ・エオローの意思を尊重する、らしい」
「は?」
「ユルは、君がさっきの暗がりから戻ってくるなんて、思ってもみなかったんだよ。戻ったとしても、また魔法を封じるなんて言い出すと思わなかったんだろう」そう言ってガゼルは目を丸くしているシノワの前にしゃがみ込み、床に落ちていた何かの種のようなかけらを拾い上げる。「ユルが君に呑ませた種は、感情に根を張る魔法だ。その根っこは呑んだ人がその時持ってる感情を育てる。最終的にはその感情と溶け合ってしまうから、魔法で取り除くことは難しいんだ。けど、君は戻った。今回も君の勝ちだよ、シノワ」
「よかった……」
 口に出すとふたたび涙がこぼれてきて、またガゼルに笑われた。

「さあ、クロードのところへ戻ろう。一応声はかけておいたけど遅くなってしまったから、きっと心配してる」
 ガゼルがそう言って立ち上がると、シノワは少し顔を曇らせた。
「兄さんは大丈夫でしょうか」
「戻ってゆっくり話せばいい」
 そう言ってガゼルは部屋のドアを開いた。

 やはり森は暗く、不気味だった。しんと静まりかえっているのに、時折響いてくる獣の声や、風にざわめく音にシノワはいちいちびくついた。その律儀に真っ直ぐ伸びる森の道を、ガゼルは「この森は迷うから」と言ってシノワの手首をつかんで歩いた。
 誰かに手を引かれて歩くなんて子どもの頃以来で、シノワは顔が熱くなった。恐らく目も鼻も赤くなっているだろうし、垂れてくる鼻水をずるずる言わせながら手を引かれて歩くなんて、死んでも兄には見られたくなかった。普段なら絶対にごめんだったが、今日はその手の確かな暖かさがありがたかった。

「そう言えば君、私が本物の司祭かどうか疑うのはやめにしたのか?」
 ガゼルがからかうような目でふり返ると、シノワは少しばつが悪そうに鼻をすすりながら首をふった。
「もういいんです。もしガゼルがニセモノだったら、本物の司祭を一緒に捜してもらうだけです」
 それを聞くとガゼルは、そう、とだけ言って杖をふりふり歩く。どうやらまんざらでもないらしかった。
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