第6話
文字数 2,124文字
八畳ほどの広さの洋室で、左右の壁には本がぎっしり詰め込まれた本棚があった。
正面には半間くらいの幅の出窓があり、その窓を挟むようにして机が二つ置いてある。右側の机の上は凄い状態で、左側の机は整然としていた。
両机の間、つまりは出窓の真下の部分に机より少し低い高さのテーブルがあり、その上は原稿らしき物で雑然としていた。
「あの…、お手伝いって…」
今更な気がするが、よくよく考えてみれば小説家の締め切りにアシスタントがどんな仕事をするのだろう。作家って普通は一人作業の職業なのではないのか。そうでなくとも、普段から何の関わりもない素人に務まる内容なのだろうか。
「柊子さんは、職業柄、ワープロ作業とかお得意ですよね?」
「ええ、まぁ…」
謙遜したいところだが、ワープロ作業は必須項目な職種だけに自尊心がそれを許さない。
「この原稿がパソコンに入っているので、赤ペンが入っている所を修正して欲しいんです。僕はまだ直しの原稿が残っているので、お願いできますか」
渡された用紙を見ると、プリントアウトされた原稿のあちこちに赤ペンで直しが入っていた。誤字脱字にしては多いな、とよく見てみれば文章の表現の変更もあちこちに見られた。
なんだか自分がやっている仕事と似ている気がした。
「これって、遠峰さんのいつもの小説とは感じが大分違う気がします」
「ああ…、これは英国小説の翻訳なんですよ。翻訳する時は、最初はパソコンに打ち込むんですが、細かい修正をする時は紙の方がやり易いんです。余計な手間かもしれないですけどね。いつもはアシさんにお願いしてますが、彼女は今、お子さんが入院中なのでお休みしてて」
「え?アシスタントの方って女性なんですか?」
「ええ。こんな仕事、男性では成り手はいないでしょう。時々、簡単な家事もお願いしてるし」
『こんな仕事』という言葉が引っかかった。
自分の仕事と似ていると思ったからこそ、なんだか自分の仕事を馬鹿にされたような気になる。考えすぎなのかもしれないが。
「とにかく、始めましょう。時間がないので」
遠峰は自席に座ると、真剣な面持ちで原稿に取り掛かり始めた。そんな遠峰の初めて見る表情に、急かされるように柊子もアシスタント席についてパソコンと向き合った。
「ふぅっ…」
トントンと紙を揃える音を耳にしながら、柊子は小さな息をついた。
「お疲れ様でした。さすがに速いですね。お蔭で助かりました。お礼に夕飯、どうですか?食べに出ませんか」
言われて腕時計を見ると午後七時を過ぎていた。
「有難いのですが、さすがにちょっと疲れたので今日は帰ります」
普段の業務に近い仕事だったとは言え、内容は全く違う。パソコン内のデータから該当部分を探すのも一苦労だったし、いつもとは違う神経を使ったせいか疲労度も高かった。
「そうですか。今日はせっかくの初デートの日だったのに、仕事を手伝わせてしまってすみませんでした。せめてものお詫び、と思ったんですが…」
遠峰も疲れた顔をしていた。こんな顔を見られただけでも得したように思う柊子だったが、済まなそうにしょげ返る姿に少しだけ胸が痛んだ。
「柊子さん、読書が趣味って言ってましたよね。今回のこの作家のシリーズ、読んだ事がありますか?」
遠峰が、ふいに思いついたような顔で問いかけてきた。
「いえ、まだなんです。入力してるうちに少し興味が湧いてきましたけど」
「それなら!いかがですか、読んでみては。お貸ししますよ」
「え?」
確かに興味は持った。そのうちに図書館で借りてみようかな、とも思った。だから貸してくれるという言葉は有難い事ではあるが、借りるということは返すということで、返すとなると再び会うということでもある。
「でも…」
なんだか躊躇 われた。
会いたくないと言う訳ではないが、会うことが必須事項となるのが少々鬱陶しい気もするのだった。
「ええと…、確かこの辺に一作目があったはず…」
遠峰は柊子の躊躇いなど意に介した風もなく、書棚の本を探し始めている。
「あ、あの…、凄い本の量ですね」
とりあえず遠峰の背中に声をかける。
「ここにあるのは、仕事関連が多くて。他にサロンの方にも書棚があって、そちらの方が多いですよ」
「え?サロン?」
確かに大きな屋敷のような家なので、サロンなるものがあってもおかしくは無いだろうが、少なくとも身近な人間でサロンのある家に住んでいる人間はいない。少し興味が湧いた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「できれば…」
頭上から降りてきた優しげな声に顔を上げると、遠峰の穏やかで温もりを感じさせる眼差しに遭遇して、胸が少し熱くなってくる。
柊子の視線を捉えた遠峰は、少し躊躇う様子を見せた後、遠慮するように言った。
「ゆっくり読んでもらって構いませんが…、これでまた逢えると思うと嬉しいです」
そう言われて、柊子は頬が僅かに緩む。
(ヤバイ…。これはちょっとヤバイかも…)
いや、ずるい。ずるいよ、この人…。
さすがイケメン人気作家だけあって、ツボを押さえている。
こうやってこれまでも女を落してきたに違いない。
そう思うと、余計に自分のような者にどうして、との思いも湧いてくるのだった。
正面には半間くらいの幅の出窓があり、その窓を挟むようにして机が二つ置いてある。右側の机の上は凄い状態で、左側の机は整然としていた。
両机の間、つまりは出窓の真下の部分に机より少し低い高さのテーブルがあり、その上は原稿らしき物で雑然としていた。
「あの…、お手伝いって…」
今更な気がするが、よくよく考えてみれば小説家の締め切りにアシスタントがどんな仕事をするのだろう。作家って普通は一人作業の職業なのではないのか。そうでなくとも、普段から何の関わりもない素人に務まる内容なのだろうか。
「柊子さんは、職業柄、ワープロ作業とかお得意ですよね?」
「ええ、まぁ…」
謙遜したいところだが、ワープロ作業は必須項目な職種だけに自尊心がそれを許さない。
「この原稿がパソコンに入っているので、赤ペンが入っている所を修正して欲しいんです。僕はまだ直しの原稿が残っているので、お願いできますか」
渡された用紙を見ると、プリントアウトされた原稿のあちこちに赤ペンで直しが入っていた。誤字脱字にしては多いな、とよく見てみれば文章の表現の変更もあちこちに見られた。
なんだか自分がやっている仕事と似ている気がした。
「これって、遠峰さんのいつもの小説とは感じが大分違う気がします」
「ああ…、これは英国小説の翻訳なんですよ。翻訳する時は、最初はパソコンに打ち込むんですが、細かい修正をする時は紙の方がやり易いんです。余計な手間かもしれないですけどね。いつもはアシさんにお願いしてますが、彼女は今、お子さんが入院中なのでお休みしてて」
「え?アシスタントの方って女性なんですか?」
「ええ。こんな仕事、男性では成り手はいないでしょう。時々、簡単な家事もお願いしてるし」
『こんな仕事』という言葉が引っかかった。
自分の仕事と似ていると思ったからこそ、なんだか自分の仕事を馬鹿にされたような気になる。考えすぎなのかもしれないが。
「とにかく、始めましょう。時間がないので」
遠峰は自席に座ると、真剣な面持ちで原稿に取り掛かり始めた。そんな遠峰の初めて見る表情に、急かされるように柊子もアシスタント席についてパソコンと向き合った。
「ふぅっ…」
トントンと紙を揃える音を耳にしながら、柊子は小さな息をついた。
「お疲れ様でした。さすがに速いですね。お蔭で助かりました。お礼に夕飯、どうですか?食べに出ませんか」
言われて腕時計を見ると午後七時を過ぎていた。
「有難いのですが、さすがにちょっと疲れたので今日は帰ります」
普段の業務に近い仕事だったとは言え、内容は全く違う。パソコン内のデータから該当部分を探すのも一苦労だったし、いつもとは違う神経を使ったせいか疲労度も高かった。
「そうですか。今日はせっかくの初デートの日だったのに、仕事を手伝わせてしまってすみませんでした。せめてものお詫び、と思ったんですが…」
遠峰も疲れた顔をしていた。こんな顔を見られただけでも得したように思う柊子だったが、済まなそうにしょげ返る姿に少しだけ胸が痛んだ。
「柊子さん、読書が趣味って言ってましたよね。今回のこの作家のシリーズ、読んだ事がありますか?」
遠峰が、ふいに思いついたような顔で問いかけてきた。
「いえ、まだなんです。入力してるうちに少し興味が湧いてきましたけど」
「それなら!いかがですか、読んでみては。お貸ししますよ」
「え?」
確かに興味は持った。そのうちに図書館で借りてみようかな、とも思った。だから貸してくれるという言葉は有難い事ではあるが、借りるということは返すということで、返すとなると再び会うということでもある。
「でも…」
なんだか
会いたくないと言う訳ではないが、会うことが必須事項となるのが少々鬱陶しい気もするのだった。
「ええと…、確かこの辺に一作目があったはず…」
遠峰は柊子の躊躇いなど意に介した風もなく、書棚の本を探し始めている。
「あ、あの…、凄い本の量ですね」
とりあえず遠峰の背中に声をかける。
「ここにあるのは、仕事関連が多くて。他にサロンの方にも書棚があって、そちらの方が多いですよ」
「え?サロン?」
確かに大きな屋敷のような家なので、サロンなるものがあってもおかしくは無いだろうが、少なくとも身近な人間でサロンのある家に住んでいる人間はいない。少し興味が湧いた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「できれば…」
頭上から降りてきた優しげな声に顔を上げると、遠峰の穏やかで温もりを感じさせる眼差しに遭遇して、胸が少し熱くなってくる。
柊子の視線を捉えた遠峰は、少し躊躇う様子を見せた後、遠慮するように言った。
「ゆっくり読んでもらって構いませんが…、これでまた逢えると思うと嬉しいです」
そう言われて、柊子は頬が僅かに緩む。
(ヤバイ…。これはちょっとヤバイかも…)
いや、ずるい。ずるいよ、この人…。
さすがイケメン人気作家だけあって、ツボを押さえている。
こうやってこれまでも女を落してきたに違いない。
そう思うと、余計に自分のような者にどうして、との思いも湧いてくるのだった。