第1話

文字数 1,295文字

 ある春の日の、昼下がり……。
 薄桃色に彩られた世界が、淡い黄緑の若葉色に変わり出し、艶やかでなまめかしいような藤の花がほころび始めたころ、松田柊子(まつだとうこ)は五つ星ホテルのラウンジの高級な椅子にお尻を預けていた。

 椅子なのに、たかが椅子なのに、柊子を魅了して離さない座り心地の良さ。
 世の中にこんなにステキな椅子が存在するなんて…と、職場のくたびれた固い椅子に恨めしい気持ちが湧いてくる。

 ――この椅子は幾らするのだろう。

 そんな下世話な思いが湧いてくる。
 会社の椅子も、ここまでとは言わなくても、もう少し座り心地の良い椅子にしてくれれば良いのに。
 ソファでもない、たかが椅子にここまでお金をかけられるとは、さすがに五つ星ホテルである。それだけでもここへ来た甲斐があったものだと、目の前の男へやんわりと視線を飛ばす。

 年度末の目が回るほどの忙しさから解放され、新入社員が来なかったお蔭で早く通常業務へと入れてホッとしていた時に、いきなり母から見合い話を切り出された。

 柊子には、全く持って結婚願望が無い。その上に現在の仕事が自分の性分に合っていて充実した毎日を送っている。
 数年前に父親の知人の紹介で縁談が持ち込まれたが、その話は結婚願望が強かった妹の夏那(かな)が自ら買って出て上手くまとまり、現在は夫の仕事で宮崎に住んでいる。

 それから暫くした頃、職場のパートの女性に自衛隊員を紹介されかかったが、なんとか回避することができた。
 これで彼氏でもいれば、まだ外野の攻撃は減るかもしれないが、いればいるで『結婚はまだなの?』攻撃が激しいのだろう。

 いずれにせよ、結婚するまでは言われ続ける宿命なのだと最近では諦めている。
 ではなぜ、今こうしてここで見合いの席に着いているのか。

 両親は柊子に結婚願望が無いことは重々承知している。

 結婚だけが全てではない。
 昔の時代ならともかく、現在、そしてこれからの時代は男女ともに社会で活躍する時代なのだから、結婚に縛られる必要も無い。
 したければすればいいし、したくなければそれでも構わない、そんな風に考えている人たちだから、柊子の結婚にとやかく言う事はこれまでも無かった。

 うちの両親は理解があって助かるわ~、と思っていただけに、今回の事はちょっとした事件である。

 柊子の母親は輸入食品の店で働いている。パート勤務だ。そこの店長が少し前からフラワーアレンジメントの教室へ通いだし、そこで親しくなった婦人から今回の話が持ち込まれたのだった。

 店長は明るく社交的な女性で、店を切り回すにふさわしい人物だと兼ねがね思っていた。その店長自身、独身である。
 女性進出がまだまだ難しい時代に独立し、一人で切り盛りしてきた。だからこそ結婚願望の無い柊子にも理解を示してくれていて、『やりがいのある仕事が出来て、柊子ちゃんは幸せ者よ』と自分の事のように嬉しそうな笑みを向けてくれていた。

 その人からの紹介なのだ。

「店長の顔を立てる為と思って、今回はお見合いしてみてくれないかしら?」

 済まなそうな表情を浮かべた母親に言われ、柊子はため息と共に頷いた。
 そしてこの日のお見合いである。

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