第51話

文字数 1,705文字

「さて、と。もう俺はそろそろ戻らないと。…柊子ちゃんも戻った方がいいんじゃないの?」

 暗に一緒に戻ろうと言っているように聞こえた。 

「そうですね。私もそろそろ行かないと。秋ちゃん、お先に」

 大蔵と柊子は連れ立って休憩室を出た。

「世の中、理不尽な事だらけだよ。自分で上手く折り合いをつけてかないと、やってらんない。勝とうとは思わないけど、負けたくもないからね。自分の人生だし」

「そうですね」

 普段からどこか浮世離れした雰囲気を感じさせる大蔵だが、それが彼の処世術のなせる業なのかもしれないと柊子は思った。

「ところで柊子ちゃん。お盆休み、暇ならどこかへ行かないかな」

「えっ?」

 思わず隣の大蔵を見上げた。
 就業後のご飯の誘いは多いが、休日のお誘いは珍しい。先日美術館へ誘われて一緒に行ったが、早々無い事だった。

「勿論、日帰りだよ」

 にっこりと笑顔を向けられて、余計に面食らう。こんな笑顔も見た事が無い気がする。

「考えておいて」

 仕事部屋に着いたので、大蔵はそう言い残して先に中へ入って行った。

 ――どうしよう…。

 結婚する前だったら、きっと二つ返事で了解しただろう。
 だが今は忙しいながらも、貴景との僅かな時間に、安らぎを見出し始めている。

 毎晩、十一時半にコーヒーを淹れて持っていくと、貴景は疲れた顔に笑みを浮かべて「ありがとう」と嬉しそうに受け取る。

 土曜日は柊子の作った昼食を二人で食べて、たわいないお喋りを短時間だが交わす。

 日曜日の夫婦の日は、外出する気力が二人ともないので、リビングのソファで映画を観たり、サロンで寛ぎながら互いに読書に耽ったり、スキンシップに費やしたりして、それらが二人の距離を良い感じで縮めているように思えた。

 貴景は口数が少ない方なので、無言で過ごす方が多いが、喋らなくても一緒にいるだけで心地よい空気が生まれて来る相手だった。
 それを不思議に思いながらも、そういう相手だから一緒になっても良いと思ったのだ。

 ――なんだか、イイ感じになってきた。

 喜ばしい事だな、と思いだしていたのだが。

 昨日になって、貴景から言われたのだ。

「君のお盆休みの事なんだけど、家にいても家事以外やる事がないだろうから、実家に泊ってきたらどうだろう」

 予想外の言葉に、柊子は戸惑った。

「え?だってそれじゃぁ、夜のコーヒーは?」

 平日顔を合わせられないからこそ、夜のコーヒーを楽しみにしていたのでは、なかったか?

「それは、我慢するよ。ほんの五、六日の事だし。帰ってきたら、また復活すればいいわけだし」

 少し寂しい気持ちになったのは、自分だけなのだろうか。

「普段は会社で仕事してるのに、この家で一人でいても、つまらないだけなんじゃないかな」

「それは、…そんな事ないです。本を読んだり、色々家でもやれる事はあるし」

「そうかもしれないけど、毎日となると退屈するだろうし、何より僕がずっと仕事をしてるのを、落ち着かなく感じるかもしれないよ。いつもの土曜日が五日続くと考えてごらん」

「でも、お昼ご飯くらいは一緒に…」

「ごめん、例えが良く無かった。平日だから真木野さんが来てる。だから食事は仕事部屋で、進捗具合に合わせて食べてるんだ。いつも弁当を作ってきてくれるんだよ」

 そう言って少年のような、無邪気そうな笑みを浮かべた。それが何故か柊子の胸に痛みを及ぼす。

 柊子はかろうじて、「考えてみます」と返事をしたが、暫く湧いてこなかったモヤモヤが生じてきていることに気づいた。

 何なんだろう、この例えようもない心模様は。
 複雑すぎて自分の心なのに理解不能だ。

 なんだか振り出しに、強制的に戻されたような気もしてくる。

 そんな事があっての、大蔵からの誘い。

 お盆休みは確かに暇だ。お互いの仕事が無くても、暑くて混んで高い時期に、わざわざ旅行などへは行かない主義だから、家でのんびり過ごすか、日帰りでちょこちょこと出歩くくらいが毎年の事でもある。

 だから誘われれば、喜んで付き合う。今だって渡りに船的な気持ちだ。だが、中村と秋穂から休日の二人きりのお出かけは止めた方がいいと注意を受けている。矢張り断った方が良いのだろうか。

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