第32話
文字数 1,581文字
「思い切って、壊れるのを覚悟で全てをぶつけるか、当初の思惑通りに君も自由に行動するか。…俺としては、まずは君も好きにしたらいいんじゃないかって思うよ。互いを干渉しないのが前提であるなら、君も彼と同じようにしてみたらどうだい?相手の事より自分の事を最優先にするんだ」
柊子は顔を上げて大蔵を見た。どうにもならない事に遭遇した時に見せるような、諦念のような感情が見て取れた。
「俺は、柊子ちゃんには自由に生きて欲しかった。で、幸せにもなってもらいたいって思ってる。自由志向だった君が、相手に縛られて翻弄されてる姿なんて、俺は見たくなかった。この結婚が君にとってマイナスなら、俺は躊躇なく離婚を勧めるよ」
「大蔵さん…」
離婚か…。まだ結婚したばかりなのに。
穏やかに過ごす二人の時間を大切にしながら、互いの仕事に打ち込んでいける結婚生活を思い描いていたのに、それは見事に打ち砕かれた。
お互いに思い描いていた結婚図が、似ているようで全く違ったのかもしれない。
それにしても、このシチュエーションはなんなんだろう、とふと思った。
とても居心地のよいソファの上で、自分のことをよく分かってくれるイケオジとのゆったりとした空間。
互いの領分を侵さず、だが何かあれば親身に言葉をかけ合える関係。
自分が求めていたものは既に自分の手の中にあったのではないか。
半ば“結婚なんてクソ食らえ”とまで思っていた自分なのに、なぜ結婚してしまったのだろう。 あれだけ違和感を覚えて、悩んだのに。
最初のインスピレーションがいかに大事だったか思い知った気がした。
大蔵と一緒に蕎麦屋で夕飯を済まして、夜の八時頃に帰宅したら貴景が不機嫌そうな表情で玄関まで出てきた。
「どこに行ってたの?」
不機嫌な顔を見て、こちらも不機嫌になってくる。
「美術館。絵を観てきたの。とっても綺麗だった」
「絵って、こんな時間まで?」
「こんな時間って、まだ八時じゃないですか」
「一人…、じゃないよね?」
「友人と一緒に。もう疲れたから、いいですか?」
貴景の横をすり抜けようとしたら、手を掴まれた。
「良くないよっ。日曜日は夫婦の日って決めたじゃないか」
その言葉にむっとする。
「そうですね。ついでに言わせてもらえば、土曜日も、ですよね。なのに、あなたったら、他所の女性の家へ出かけて行ったじゃない。朝だって、何時に起きたのか知らないけど、グゥグゥ寝てましたよ。一向に起きて来る気配が無かったから、今日はもういいのかと思って出かけたんですけど」
「起こしてくれれば良かったじゃないか…」
俯き加減でボソボソと訴えてきた。
そんな貴景を見て、柊子はわざとあざ笑うような笑みを浮かべた。
「だって、かなり遅く帰って来たんでしょ?爆睡してるのに、起こしたら悪いじゃないですか。きっと疲れているんだろうと思って気を利かせたんですよ?感謝してくれてもいいくらいだと思いますけど」
「…そうか」
貴景は柊子の手を離した。消沈したように項垂れている。その心境は柊子にはさっぱり分からない。
そんな貴景を置いて、柊子は自室へと戻った。
部屋へ入ると、ふぅと一つため息をつく。
美術館で購入した川瀬巴水の画集を開いた。
一目観ただけで、心が潤って来る。昼間の風景や、増上寺の絵もステキだが、何より青い絵に強く惹かれるのだった。特に大森海岸の深い青が胸に沁みる。
(ステキな絵だなぁ)
うっとりする程、美しい。この青い世界の中に埋没したいとさえ思う。
――全てを洗い流して無になりたい。
何も考えたくない。だからもう考えるのはよそう。
大蔵が言う通り、自分はもっと自由だった筈だ。
その自由を奪われない結婚だと思ったから結婚した。だからもう、いいんだ。
柊子の頭の中は、巴水の青い大森海岸の世界で満たされてゆき、やがて深い眠りに落ちたのだった。