第83話
文字数 1,371文字
「…君が、着拒までしていなくなったのは、それが原因なのかい?」
「……」
「僕は、君との些細な時間がとても好きだ。夜、コーヒーを淹れてくれるって言ってくれたのが凄く嬉しかった。君とのセックスも好きだ。君の体も表情も、全てが愛しく思える。一緒に出掛けた時は、幸せだった。君の手を繋いで水族館の中にいて、この手をずっと繋いでいたいと思った。料理をしている時も、一緒に食事をしている時も、幸せを噛みしめていた…」
色の無い顔で、呟くように言葉を紡いでいる。
「君は…、違ったの?」
「違わないっ。私だって同じ。いつだって、あなたとの時間に幸せを感じてた。距離が縮まって行くのが嬉しかった。それなのに、それなのに、いつもあなたが、それを壊してきたんじゃない。距離が縮まって幸せを感じていると、決まって真木野さんが邪魔してくるのよ。そして二人の時間を放って、あなたは真木野さんの所へ行き、その度に私は悲しくて…」
湯呑から昇っていた湯気が、いつの間にか消えている。冷めてしまったようだ。
柊子はそっと湯呑を手に取ると、一口飲み込んだ。ぬるいが少し甘い。
――私たちはこれから、どうなるのだろう。
生憎、茶柱は立っていない。
「会社の後輩の結婚披露宴の日…。あなたは用事があるって出かけていったわよね。私、披露宴の後、楽な靴に履き替える為にショッピングモールに入ったのよ?」
「えっ?」
貴景は驚愕したように、目を見開いている。
「トイレでね。イケメンと丸ぽちゃのカップルの噂をしているのを聞いたの。それで、あれは作家の遠峰貴景だって言い出して。最近結婚したって聞いてるけど、あれがそうだったのか。子持ちと再婚だったとは、って話してて、私、びっくりしたの。トイレを出て、思わずあなたの姿を探してしまった。それで、見ちゃったのよ。あなたたち三人を。誰が見ても仲の良い家族に見えた」
柊子の目が自然ときつくなった。
貴景は口を小さく開いて驚いたままだ。
「もう、嫌だって思った。それで逃げるように、その場から駆け出して…。それで、外へ出た時に足が縺れて転んだの。荷物で両手が塞がっていたから、手をつけずに転んで、右半身と額と頭を打って気絶して、救急車で病院に運ばれた。あの日、連絡もなく帰宅しなかったのは、そういう事情があったからなのよ」
「あ…、あの時、外が騒がしくて…、誰かが怪我をして救急車が来たらしいって、周囲が口々に言っていた…」
「そうよ。私が悲しい思いをして、怪我をして救急車で運ばれている時に、あなたは真木野さん親子との時間を楽しんでいたのよ。病院で目が覚めた時の、私の気持ち、あなたには分からないでしょう?病院の人だって、自宅へ電話したけど誰も出なかったって言ってた。だから、会社の上司に連絡が行って、その後の事は会社の仲間に助けて貰って、なんとかこの三週間を過ごしてきたの」
「そんな……。じゃぁ、会社の人達は知ってて僕に嘘を…」
「私が頼んだのよ。あなたには教えないで欲しいって」
「なぜ?」
「もう、振り回されるのはたくさんだからよ。何かある度に真木野さんを優先される事にウンザリしたのよ。もう、嫌なのよっ」
貴景は肩を落とすように俯いた。
何もかもがご破算だ、と思ってでもいるのだろうか。
貴景だけが良い思いをしてきたが、それももう終わりだ。付き合いきれない。