第44話
文字数 2,198文字
「ただいま…」
玄関を入ってすぐに、来客に気づいた。
男性ものの革靴が置いてある。そしてその隣には女性ものらしきスニーカーが並んでいた。はじめての事に戸惑うが、真木野の靴だとしたらまだ帰っていない事になる。
新しい仕事を任されたこともあり、予定通りの残業を終えてきたので既に八時近い時間だ。真木野だとしたら、こんな時間まで大丈夫なのだろうか。
貴景の部屋の前に立つと、中から話し声が聞こえてきたが、何を話しているのかまでは聞こえてこなかった。柊子はそっとドアをノックすると、中から「どうぞ」と返ってきた。
「やぁ、おかえり」
「ただいま…」
中を伺いながら、声が遠慮がちになる。
部屋の中には背が高くてガッチリした印象の男がソファに座っていて、柊子を見るや慌てたように立ち上がった。
男の向かい側に貴景が座っており、その隣に真木野が座っている。
「あの…」
ドアから首だけ覗かせて、柊子は自分の進退に迷っていた。そんな柊子に来客の男が話しかけてきた。
「こんばんは。はじめまして。シノヤマワジンです。舎人社の者です」
そう言いながら、つかつかと近寄ってきた。その様子に、柊子も慌てて部屋の中へ入った。
「あの、はじめまして…」
しどろもどろに挨拶をする柊子に男は名刺を出してきた。
『舎人社 文芸部編集長 篠山和人』
「え?あ、編集長さんですか」
「あはは。『編集長さん』、って。面白い人ですね。改めまして、篠山和人です。カズヒトと書いてワジンと読みます。変な名前ですよねぇ。何でも、日本人の古い言い方が由来らしいですよ。でも、その通りの漢字だと、侮蔑的な意味合いを含んでるらしいんで、和を貴ぶって意味で、この漢字にしたと父が申しておりました」
「はぁ…」
柊子を『面白い人』と評したが、この人の方が余程、面白い人だろう。
聞いてもいないのに、自ら名前の由来を揶揄的に語っている。
「そんな所に立ってないで、二人ともこちらにいらしてくださいよ」
真木野が苦笑しながら声をかけてきた。
「そうだよ。和人もさぁ。僕が紹介する前に勝手に自ら、名乗り出ないで欲しいなぁ」
編集長の名前を呼び捨てにするさまに、柊子は首を傾げながら篠山の後に続いて二人の元まで足を運んだ。
ソファのそばまで行くと、真木野と目が合った。
貴景の隣に座っている事にモヤっとした物が生まれてきたが、そんな柊子の心の裡を察したのか否か、真木野はすぐに立ち上がると、貴景の前の席へと移動した。
「柊子さん、どうぞ」
言われて座ったが、お尻に感じる温 さをちょっと不快に思う。
目の前の席に篠山が座ると、貴景がコホンと乾いた咳を一つした。
「篠山くん。改めて紹介するよ。僕の妻となった柊子だよ」
(くっはぁ…)
想像以上の照れくささだ。
思わず声に出してそう言いそうになった。
大体、こうやって改まって他人に妻だと紹介されたのは初めての事だ。
儀式もなく、ただ籍を入れただけで、同居した事以外で身辺の変化は殆どない。
互いの人間関係も、ほぼ知らない。例外はアシスタントくらいだ。
だから互いに既婚者となった自覚が薄いのかもしれない。
元々、独身時代と変わらぬ生活とペースが前提にあるのだから、紙切れ一枚の関係でしかない、希薄な関係なんだと思っていたが、こうして“妻”として紹介されると満更でも無いのだった。
「あの…、はじめまして。柊子です」
「どうも。改めまして、篠山和人です。すみません、先走ってしまって。綺麗な方に突進してしまう癖なものですから…」
「はいぃ?」
自分の声が変だった。
お世辞にしたって、もう少し別の言い方があるように思う。
「こらこら、やめてくれよ。柊子さんがビックリしてるよ。声が裏返るほどに」
真木野は口元を押さえて、必死で笑いを堪 えている。
「しょうがないだろう。真実なんだから。柊子さん、すみません。あまり気にせず、今後ともよろしくお願いいたします」
篠山が立ち上がって深くお辞儀をするので、柊子も釣られて立ち上がってお辞儀した。
「あ、そうそう。それから遅くなりましたが、このたびは、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます…」
「かれこれ二か月になりますよね。まだまだ甘い新婚さん。どうですか?ご感想のほどは」
爽やかな笑顔で問いかけられた。
だが、どう返したら良いか困惑する。
『まだまだ甘い新婚さん』って、非常に古さを感じさせる表現だと思う以上に、最初から甘さなんて無い新婚さんだ。
「あの…」
そっと貴景の方へ目配せすると、貴景の方は笑顔で柊子がどう答えるのか期待するように見ている。
視線を真木野の方へ移すと、こちらはにっこりと笑っている。
これは一体、どうした事か。
空気が非常に和やかで、柊子だけがそれに馴染めないでいる。
まるで、人々の祝福を浴びてラブラブ状態で結婚した夫婦を、囲んでいるかのような雰囲気だ。
「あ、あの…」
柊子を催促するような篠山の顔つきに耐えられなくなった。
「あ、あの、すみません。失礼します」
柊子は立ち上がると、逃げるようにして部屋を出た。
「あぁー、柊子さん、逃げちゃったじゃないかぁ」
中から責めるような貴景のセリフが聞こえてきた。
「ごめん、ごめん」
篠山が謝っているようだが、柊子はそのまま自室へ向かう。
それにしても、あの人たちの和んだ様子は何なのか。
三十分ほど経った頃、ドアがノックされた。
玄関を入ってすぐに、来客に気づいた。
男性ものの革靴が置いてある。そしてその隣には女性ものらしきスニーカーが並んでいた。はじめての事に戸惑うが、真木野の靴だとしたらまだ帰っていない事になる。
新しい仕事を任されたこともあり、予定通りの残業を終えてきたので既に八時近い時間だ。真木野だとしたら、こんな時間まで大丈夫なのだろうか。
貴景の部屋の前に立つと、中から話し声が聞こえてきたが、何を話しているのかまでは聞こえてこなかった。柊子はそっとドアをノックすると、中から「どうぞ」と返ってきた。
「やぁ、おかえり」
「ただいま…」
中を伺いながら、声が遠慮がちになる。
部屋の中には背が高くてガッチリした印象の男がソファに座っていて、柊子を見るや慌てたように立ち上がった。
男の向かい側に貴景が座っており、その隣に真木野が座っている。
「あの…」
ドアから首だけ覗かせて、柊子は自分の進退に迷っていた。そんな柊子に来客の男が話しかけてきた。
「こんばんは。はじめまして。シノヤマワジンです。舎人社の者です」
そう言いながら、つかつかと近寄ってきた。その様子に、柊子も慌てて部屋の中へ入った。
「あの、はじめまして…」
しどろもどろに挨拶をする柊子に男は名刺を出してきた。
『舎人社 文芸部編集長 篠山和人』
「え?あ、編集長さんですか」
「あはは。『編集長さん』、って。面白い人ですね。改めまして、篠山和人です。カズヒトと書いてワジンと読みます。変な名前ですよねぇ。何でも、日本人の古い言い方が由来らしいですよ。でも、その通りの漢字だと、侮蔑的な意味合いを含んでるらしいんで、和を貴ぶって意味で、この漢字にしたと父が申しておりました」
「はぁ…」
柊子を『面白い人』と評したが、この人の方が余程、面白い人だろう。
聞いてもいないのに、自ら名前の由来を揶揄的に語っている。
「そんな所に立ってないで、二人ともこちらにいらしてくださいよ」
真木野が苦笑しながら声をかけてきた。
「そうだよ。和人もさぁ。僕が紹介する前に勝手に自ら、名乗り出ないで欲しいなぁ」
編集長の名前を呼び捨てにするさまに、柊子は首を傾げながら篠山の後に続いて二人の元まで足を運んだ。
ソファのそばまで行くと、真木野と目が合った。
貴景の隣に座っている事にモヤっとした物が生まれてきたが、そんな柊子の心の裡を察したのか否か、真木野はすぐに立ち上がると、貴景の前の席へと移動した。
「柊子さん、どうぞ」
言われて座ったが、お尻に感じる
目の前の席に篠山が座ると、貴景がコホンと乾いた咳を一つした。
「篠山くん。改めて紹介するよ。僕の妻となった柊子だよ」
(くっはぁ…)
想像以上の照れくささだ。
思わず声に出してそう言いそうになった。
大体、こうやって改まって他人に妻だと紹介されたのは初めての事だ。
儀式もなく、ただ籍を入れただけで、同居した事以外で身辺の変化は殆どない。
互いの人間関係も、ほぼ知らない。例外はアシスタントくらいだ。
だから互いに既婚者となった自覚が薄いのかもしれない。
元々、独身時代と変わらぬ生活とペースが前提にあるのだから、紙切れ一枚の関係でしかない、希薄な関係なんだと思っていたが、こうして“妻”として紹介されると満更でも無いのだった。
「あの…、はじめまして。柊子です」
「どうも。改めまして、篠山和人です。すみません、先走ってしまって。綺麗な方に突進してしまう癖なものですから…」
「はいぃ?」
自分の声が変だった。
お世辞にしたって、もう少し別の言い方があるように思う。
「こらこら、やめてくれよ。柊子さんがビックリしてるよ。声が裏返るほどに」
真木野は口元を押さえて、必死で笑いを
「しょうがないだろう。真実なんだから。柊子さん、すみません。あまり気にせず、今後ともよろしくお願いいたします」
篠山が立ち上がって深くお辞儀をするので、柊子も釣られて立ち上がってお辞儀した。
「あ、そうそう。それから遅くなりましたが、このたびは、ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます…」
「かれこれ二か月になりますよね。まだまだ甘い新婚さん。どうですか?ご感想のほどは」
爽やかな笑顔で問いかけられた。
だが、どう返したら良いか困惑する。
『まだまだ甘い新婚さん』って、非常に古さを感じさせる表現だと思う以上に、最初から甘さなんて無い新婚さんだ。
「あの…」
そっと貴景の方へ目配せすると、貴景の方は笑顔で柊子がどう答えるのか期待するように見ている。
視線を真木野の方へ移すと、こちらはにっこりと笑っている。
これは一体、どうした事か。
空気が非常に和やかで、柊子だけがそれに馴染めないでいる。
まるで、人々の祝福を浴びてラブラブ状態で結婚した夫婦を、囲んでいるかのような雰囲気だ。
「あ、あの…」
柊子を催促するような篠山の顔つきに耐えられなくなった。
「あ、あの、すみません。失礼します」
柊子は立ち上がると、逃げるようにして部屋を出た。
「あぁー、柊子さん、逃げちゃったじゃないかぁ」
中から責めるような貴景のセリフが聞こえてきた。
「ごめん、ごめん」
篠山が謝っているようだが、柊子はそのまま自室へ向かう。
それにしても、あの人たちの和んだ様子は何なのか。
三十分ほど経った頃、ドアがノックされた。