第8話

文字数 1,686文字

 数日後、貴景から家へ遊びにこないかと誘われたので、手作りのお菓子を持参して訪れた。勿論、借りた本も持参している。
 通されたのは前回話に出たサロンだった。
 南側にサンルームが付いていて、部屋の日当たりの悪い北側部分に書棚が幾つも並んでいる様子は、ちょっとした図書室のようだと柊子は思った。

「凄いですね」

 思わず顔が綻ぶ。

「相当、お好きなようですね。目がキラキラしてる」

 言われて遠峰に視線をやると、嬉しそうな明るい笑みを浮かべている。

「あの、これ、ありがとうございました。とても面白かったです」

 柊子は感情の起伏を隠すように、慌てて借りた本を差し出した。

「それは良かった。僕の翻訳については、何か感じる物がありましたか?」

 思わぬ返しに柊子は少し狼狽えた。

「え?あ…、そういうの、あまり考えてませんでした。読みやすかったとは思います。…そう言えば、この間の原稿の直しも、言葉の選び方にかなり苦慮されているというか、深く考えてらっしゃるんだな、と感心したというか…。すみません、生意気なことを言って」

「いえいえ、とんでもない。そう思ってもらえて凄く嬉しいですよ。自分の書くものでも言葉選びは慎重になるけど、原作者の意図を正確に把握して日本語に直すのはかなり苦労するんで、それを汲み取ってもらえるのは嬉しさを通り越して感激です」

 とても素直な相手の反応に、柊子の胸は温まる。

 見合いの時は、どこか淡々とした雰囲気と不躾な態度、理解し難い会話の応酬で、見栄えは良いけど変人としか思えなかった相手だったが、こんなに素直で好感の持てる面もある事にホッとさせられた。

「じゃぁ柊子さん、どうぞお好きな本を手に取って、こちらでゆっくり楽しんで下さい。僕は紅茶を淹れてきますから」

 柊子はこの日、書棚にある興味を引かれた本を、柔らかな日差しが満ちて爽やかな風が通り過ぎていくサロンの座り心地の良い椅子の中で、ゆったりとした気分で読書を楽しんで過ごした。

 遠峰が淹れてくれた紅茶は薫り高くて美味しく、柊子が作ってきたクッキーを嬉しそうに頬張る遠峰の様子にほっこりとした。
 二人で過ごす時間と空間を心地よく感じ、こんな風に時間が過ぎていくのも悪くはないな、と思ったのだった。


 そんな風に何度か一緒に過ごしたある日の午後。

「どうですか?柊子さん。そろそろ僕との事、真剣に考えてみませんか」

 共に過ごす時間を心地よく感じ、ずっとこの温もりの中でゆったりと揺蕩(たゆた)っていたいな、と思っているところだった。
 なんとなく曖昧なままだけど、このままでいいかもと半ば思って放置していた二人の関係について、いきなり遠峰の方から距離を詰めてきた。

「僕たちも、もう若くはないですから、ただこうして時間を過ごしていくだけで先へ進まないのも、どうなんでしょう」
「え?そんな、いきなり言われても…」

 狼狽える柊子に少し残念そうな微笑が遠峰の口元を漂わせた。

「いきなりじゃないですよ。そもそも僕たちは結婚を前提にしてますし、僕は最初からずっと考えていました。お互いを尊重して、これまでのペースを崩すこともなく、互いに仕事に打ち込める。干渉し過ぎない適度な距離感。…あなたとなら可能だと僕は確信しているんですが」

 真剣な眼差しを受けて、柊子は言葉に詰まった。

 そうだ、二人は若くはない。
 柊子は三十歳になり、遠峰は三十五歳。晩婚化な時代とは言っても、若いとはさすがに言えないだろう。

 元々結婚願望の無い柊子だけに、結婚への意識は薄かった。彼氏いない歴も五年だ。それだけに、久しぶりのカレカノ気分を味わっていたとも言えるこの頃だった。
 とは言え、普通のカレカノのような甘い時間では無かったが。

 返事をできないでいる柊子の肩の上に、遠峰の大きな手のひらがそっと乗った。思わず振り仰ぐと、その端正な顔が近づいてきて唇が重なった。

 軽く押されて僅かに開いた唇から甘い吐息が重なって、柊子は束の間陶酔したが、唇が離れた瞬間に我に返った。

「な、なにを…」

「そんな無粋なことを、言わせないで」

 不敵な笑みを浮かべた遠峰に押し倒されたのだった。


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