第17話
文字数 1,977文字
柊子の心は沈んでいる。
どうにも理解できない夫の行動。
そんなに心配なのか。アシスタントの子どもが。
妻を放って出かけるほどに。
その晩夫は深夜に帰宅したようだ。一人寝の寝室で、その気配を察知した。
翌朝はいつもの通り貴景は起きて来ない。顔を見ずに済んでホッとしたが、重たい気持ちで出勤した。
帰宅して、いつものように書斎のドアの前で「ただいま」と声をかけた。中からは変わらない「おかえり」が返ってきて少し安堵したものの、胸のモヤモヤは晴れない。
この日も定時で帰宅したから、着替えた柊子はキッチンに立った。
午後休憩の時に貴景にLINEした。定時で帰るから夕飯は何が食べたいかと。貴景からは『ハンバーグがいいな』と返信が来た。
夕飯の支度ができたので書斎へ呼びに行くと、また中から話し声が聞こえてきた。
「…うん、大丈夫だと思うよ。…うん、そうだね…。うん、うん、ありがとう…」
もう相手が誰なのか分かる気がした。きっと真木野だ。それなら柊子が遠慮する必要もないように思えて、柊子は意識して大きめにノックし、ドアを開ける。
中では朗らかな顔をした貴景が、スマホを耳元に充てて立っていた。
「あ、ごめん。もう切るね。じゃぁ明日」
電話を切ったのを確認してから、柊子は食事ができた事を告げた。
「うん、ありがとう。すごくいい匂いがする。早く食べたい」
近づいてきた貴景は、柊子の肩をそっと抱いて歩き出した。
――なんなんだろう、この人は。
こちらは昨日のことで胸がわだかまっていると言うのに、この人はまるで何事も無かったような顔をしている。
機嫌が良さそうだし、それも演技では無さそうだ。
「わぁー、美味しそうだ。早く食べなきゃね」
満面の笑みで自席に座る姿は、ちょっと子どものようでもある。
「いただきます」
二人がこの食卓で一緒に食事を摂るのは、平日では珍しい。
「これ、すごく美味しいよ。柊子さん、料理が上手だよね」
「そうですか?いつも作ってくれてる真木野さんの料理の方が、美味しいように思いますけど」
柊子の仕事の関係で、平日の夕飯は殆ど真木野が作っていた。柊子の休日である土日だけは柊子が夕飯を担当し、片付けは貴景の担当だ。
口調がつい嫌味っぽくなってしまった気がした。
だが貴景には通じなかったようだ。
「そんなことはないよ。確かに真木野さんのも美味しいけどさ。正直なところ、ちょっと雑?な感じするんだよね。適当な感じしないかい?」
妻の前だからなのかは知らないが、作ってもらっておいてその言いようもないのではないか。
「そんな、私に気を遣ってくれなくてもいいですよ。私は真木野さんの料理の方が美味しいって思いますけど」
実際には、そうは思っていないものの、なんだかムキになってくる。
「いやいや、別に君を気遣って言ってるわけじゃなくて、本当にそう思ってるんだからしょうがないだろう?」
なんだ…。
気遣ってくれてないんだ。
なんだかそれもショックだった。
「ところで昨夜の事ですけど、お子さん、どうだったんですか?」
陽気な様子で家にいるのだから、大したことは無かったんだろうと察せられるが、あえて訊ねてみた。
「ああ、タカちゃんね。あの子、繊細なんだよね。食あたりとかでもなく、単なる食べ過ぎだったみたいだ」
「タカちゃん…?」
――なんだ、タカちゃんって。
「うん、タカちゃん。タカシって名前なんだよ。だからタカちゃん」
(ええー?)
物凄く、モヤっとした。
――タカちゃん…、タカちゃん…、…タカシ…って?
目の前の男の名前は“タカカゲ”だ。
そう気づいた時、目の前が暗くなっていくのを感じた。
「どうしたの?」
柊子の変化にさすがに気づいたのか、心配げな顔を向けてきた。
「ああ、うん…。ごめんなさい。ちょっと仕事で色々あって。私、もう休みます」
貴景の返事を待たずに柊子は席を立った。
その後、シャワーを浴びていると浴室のドアがガチャガチャと鳴った。
「あれ?鍵がかかってる?」
貴景は柊子のシャワー中に無断で入ってくる事が多々なので、鍵をかけておいて良かったと安堵した。
「ごめんなさい、今日は疲れてるの。そんな気分じゃないから」
「…そうか。分かった」
すんなり去って行ってくれて、心底ホッとした。
とてもじゃないが無理だ。そんな心境にはなれない。
一体、どういう事?
なんなの?子どもの名前がタカシって…。
(まさか…)
だが、もしそうだったとしたら、こんなに堂々とはしていないだろう、とも思う。
昼間、仕事で一緒にいるのに、夜になっても電話で話をしたり、LINEのやり取りをしている。
子どもの体調を心配し、駆け付ける。
どう考えたっておかしいとしか思えない。普通じゃない。
しかも、子どもの名前が“タカシ”って。
柊子の頭の中は悶々とし、眠れぬ夜が本格化した。
どうにも理解できない夫の行動。
そんなに心配なのか。アシスタントの子どもが。
妻を放って出かけるほどに。
その晩夫は深夜に帰宅したようだ。一人寝の寝室で、その気配を察知した。
翌朝はいつもの通り貴景は起きて来ない。顔を見ずに済んでホッとしたが、重たい気持ちで出勤した。
帰宅して、いつものように書斎のドアの前で「ただいま」と声をかけた。中からは変わらない「おかえり」が返ってきて少し安堵したものの、胸のモヤモヤは晴れない。
この日も定時で帰宅したから、着替えた柊子はキッチンに立った。
午後休憩の時に貴景にLINEした。定時で帰るから夕飯は何が食べたいかと。貴景からは『ハンバーグがいいな』と返信が来た。
夕飯の支度ができたので書斎へ呼びに行くと、また中から話し声が聞こえてきた。
「…うん、大丈夫だと思うよ。…うん、そうだね…。うん、うん、ありがとう…」
もう相手が誰なのか分かる気がした。きっと真木野だ。それなら柊子が遠慮する必要もないように思えて、柊子は意識して大きめにノックし、ドアを開ける。
中では朗らかな顔をした貴景が、スマホを耳元に充てて立っていた。
「あ、ごめん。もう切るね。じゃぁ明日」
電話を切ったのを確認してから、柊子は食事ができた事を告げた。
「うん、ありがとう。すごくいい匂いがする。早く食べたい」
近づいてきた貴景は、柊子の肩をそっと抱いて歩き出した。
――なんなんだろう、この人は。
こちらは昨日のことで胸がわだかまっていると言うのに、この人はまるで何事も無かったような顔をしている。
機嫌が良さそうだし、それも演技では無さそうだ。
「わぁー、美味しそうだ。早く食べなきゃね」
満面の笑みで自席に座る姿は、ちょっと子どものようでもある。
「いただきます」
二人がこの食卓で一緒に食事を摂るのは、平日では珍しい。
「これ、すごく美味しいよ。柊子さん、料理が上手だよね」
「そうですか?いつも作ってくれてる真木野さんの料理の方が、美味しいように思いますけど」
柊子の仕事の関係で、平日の夕飯は殆ど真木野が作っていた。柊子の休日である土日だけは柊子が夕飯を担当し、片付けは貴景の担当だ。
口調がつい嫌味っぽくなってしまった気がした。
だが貴景には通じなかったようだ。
「そんなことはないよ。確かに真木野さんのも美味しいけどさ。正直なところ、ちょっと雑?な感じするんだよね。適当な感じしないかい?」
妻の前だからなのかは知らないが、作ってもらっておいてその言いようもないのではないか。
「そんな、私に気を遣ってくれなくてもいいですよ。私は真木野さんの料理の方が美味しいって思いますけど」
実際には、そうは思っていないものの、なんだかムキになってくる。
「いやいや、別に君を気遣って言ってるわけじゃなくて、本当にそう思ってるんだからしょうがないだろう?」
なんだ…。
気遣ってくれてないんだ。
なんだかそれもショックだった。
「ところで昨夜の事ですけど、お子さん、どうだったんですか?」
陽気な様子で家にいるのだから、大したことは無かったんだろうと察せられるが、あえて訊ねてみた。
「ああ、タカちゃんね。あの子、繊細なんだよね。食あたりとかでもなく、単なる食べ過ぎだったみたいだ」
「タカちゃん…?」
――なんだ、タカちゃんって。
「うん、タカちゃん。タカシって名前なんだよ。だからタカちゃん」
(ええー?)
物凄く、モヤっとした。
――タカちゃん…、タカちゃん…、…タカシ…って?
目の前の男の名前は“タカカゲ”だ。
そう気づいた時、目の前が暗くなっていくのを感じた。
「どうしたの?」
柊子の変化にさすがに気づいたのか、心配げな顔を向けてきた。
「ああ、うん…。ごめんなさい。ちょっと仕事で色々あって。私、もう休みます」
貴景の返事を待たずに柊子は席を立った。
その後、シャワーを浴びていると浴室のドアがガチャガチャと鳴った。
「あれ?鍵がかかってる?」
貴景は柊子のシャワー中に無断で入ってくる事が多々なので、鍵をかけておいて良かったと安堵した。
「ごめんなさい、今日は疲れてるの。そんな気分じゃないから」
「…そうか。分かった」
すんなり去って行ってくれて、心底ホッとした。
とてもじゃないが無理だ。そんな心境にはなれない。
一体、どういう事?
なんなの?子どもの名前がタカシって…。
(まさか…)
だが、もしそうだったとしたら、こんなに堂々とはしていないだろう、とも思う。
昼間、仕事で一緒にいるのに、夜になっても電話で話をしたり、LINEのやり取りをしている。
子どもの体調を心配し、駆け付ける。
どう考えたっておかしいとしか思えない。普通じゃない。
しかも、子どもの名前が“タカシ”って。
柊子の頭の中は悶々とし、眠れぬ夜が本格化した。