第86話
文字数 2,078文字
「本当にここで良かったの?」
二人は手を繋いでジンベエザメが泳ぐ大きな水槽の前に立っていた。
「勿論。だって私たちにとっては初めてじゃないですか。国内の殆どを行った事が無いんだし、海外の必要なんてないですよ。それにここの水族館は凄すぎる!」
沖縄の美ら海水族館の素晴らしさに二人は圧倒されていた。
年末年始の忙殺を終え、二月の初旬に二人は沖縄で二人だけの式を挙げて、そのまま新婚旅行として沖縄に滞在していた。
最初、ハワイで式を挙げないか、と貴景が言ってきた時には驚いた。
自分はともかく、貴景の仕事柄、海外なんて無理だろうと思っていたのもある。
「パソコンを持って行けば、書くことはどこでも出来るよ」
そう言われて確かにそうだと思ったが、旅行らしい旅行をした事が無い貴景に、いきなり海外はハードルが高いのではないか。
第一、 柊子も海外旅行はした事が無い。
アラサーにもなって希有だと周囲にはよく言われてきたが、そもそも国内旅行だって少ないのだから海外は気が引ける。
「私、沖縄に行ってみたい。特にあそこの水族館、有名ですよね?ジンベエザメで」
「あぁ~、そうだね。それは僕も行ってみたいかな」
二人は顔を見合わせた。
初めての、デートらしいデートが水族館だった。
あの時の二人の間に生まれた感情が、今も心の中でキラキラしている。
「柊子さんが行方不明だった時、申し訳ないんだけど君の部屋の中を見た。何か手掛かりが無いかと思って…。その時に、綺麗な画集があるのを見てね。確か、川瀬巴水だったっけ?版画のイメージが一新された。凄く美しくて。特に青が…。君があの画集を買った気持ちが、何となくだけど僕にも分かった気がしたんだ。それで嬉しくなって、やっぱり柊子さんは手放せないって強く思った」
柊子は繋ぐ手を強く握りしめた。同じ物を見て同じように感じてくれたのが、とても嬉しい。胸が熱くなってくる。
「こうやって大きな水槽の前にいると、あの時を思い出すよね。水底に揺れて漂って、二人して昆布にでもなった気分…」
思わずプッ!と吹き出した。
「昆布って…。浪漫作家の発想とは思えません」
「そうかな」
「貴景さん。いいですか?昆布って親潮海流、つまりは寒流の地域でしか生息しないみたいですよ?日本では主に北海道。それなのに、南の沖縄で昆布に例えるなんて場違い過ぎますよ」
「んー、じゃぁ、ワカメ?」
「どっちにしても、ロマンティックじゃないですね…」
「いいじゃないか。柊子さんも細かすぎ。そういう学術的な部分はこの際、どうでもいいでしょう。要は、手を繋いで水の中を漂っている感じが心地いいね、と言ってるだけなんだから」
「ふふふ…」
言いたい事はよく分かる。分かるが、その例えが面白過ぎて突っ込まずにはいられなかっただけだ。
「そう言えば、あの画集はどこで?」
「去年、某美術館で川瀬巴水展があって、そこで買いました」
「そうなんだ。いいな。僕も行きたかった。なぜ誘ってくれなかったの?」
「え?だって…。あの日は確か、貴景さんが真木野さんを助けに行った日で、むしゃくしゃしてるところへ友人が誘ってくれて…」
「ああ…、そうか。それは、ごめんね。…それでその、友人って言うのは?」
「んー、会社の先輩です…」
「もしかして、仲良しのイケオジ?」
「……和人さんから聞いたんですか?」
それしかないだろう。
「うん、そう。お盆休み明けだったかな。校了後に、ね。遊んだ帰りにバッタリ柊子さんに会って、って面白そうに話してきたよ。ついでに自分も何度か柊子さんと食事したって」
「……」
――あのヤロー。
絶対にわざとだろう。
わざと波風を立てて面白がっていたに違いない。
「はっきり言って、ムカついたよ。あ、柊子さんにではなくて、和人にだよ。あいつは大袈裟なところがあるから、話半分って感じでいつもは聞き流してる。だけど柊子さんの事となると、そういう訳にはいかなくて。だから分かってて話している和人にムカついたんだ」
「なるほど…。私も和人さんのそういう所、ムカつきました。一緒に食事したのは二回ですけど、何て言うか人の事を酒のツマミにしてるって感じがして」
「そうそう、そうなんだよ。とは言えね。イケオジの存在には、嫉妬した。だからできれば、もう二人きりで出かけるとか食事とか、して欲しくないって思ってる。ワガママかな」
「ワガママじゃないです。あの人とは本当にただの友人なんですけど、もう二人では行きません」
「良かった…」
柊子は貴景を見上げた。
白い顔に深い水の色が反射して、ブルーライトの中にいるように見える。きっと自分も同じだろう。
柊子の視線に気づいて、貴景が顔を下に向けた。
「…顔が青い」
可笑しそうに笑っている。その笑顔を好きだと思った。
「貴景さんも青いです」
この旅行が終われば、再び忙しい現実が待っているが、ずっとこうして手を取り合って生きていけるだろうと、柊子は確信する。
なんだかんだと色々あったが、今こうして二人でいられる事が幸せだった。
こうして二人の新たな人生が始まった。
The end.